語り継ぐべき日本の逸品 刀剣

大小 銘 源正行 弘化二年二月日/1845年
この刀は江戸時代後期、新々刀期に活躍した刀工である源清麿(当初の名は「正行」)の作品である。
天才的な刀工であったものの、寡作で知られ、一説には生涯鍛えたのは、わずか130振り前後。
中でも大小揃いの作品は片手で足りる程度の数のみであると言われている。
そのような172年前の貴重な品が、丁寧な保管によって今でも残されている。
日本刀のはじまり
太刀 銘 備前国吉井則細 応永二二年三月日(1397年)
刀剣。
この時代ではなかなか身近に感じるものではない世界だ。時代劇のアイテムとか、博物館などが所有しているものというイメージが強いのではないだろうか。でも少し前の日本人は、常に刀が身近にあった。
刀の歴史が始まるのは古墳時代。外国の刀と同じように直刃(すぐは)、両刃(りょうば)の直刀(ちょくとう)で、今日、私たちが日本刀と聞いてイメージする反りのついた太刀の形に成ったのは平安時代である。
その頃、大陸から鍛錬技術が伝播し、鉄に対する新技法が活発化。すると貴族や公家に仕えていた武家が力を持ちはじめ、平安後期になると平氏や源氏のように世の中に台頭するようになった。
このことにより、より太刀が発達し、今日ではこれ以降のものを日本刀と決められた。日本刀という呼称は幕末以降、海外との交易が再開されたことにより広まり、それまでは「打刀(うちがたな)」とか「太刀」と小分類で呼んでいた。
日本刀の姿は、平安後期から鎌倉、南北朝、室町、安土桃山、そして江戸初期、中期、幕末へと時代が移るに連れて大きく変化している。
かつて主流だった直刀は斬ることよりも突くことにその用法の特色があり、反りのある太刀は斬ることを主目的とした使い方の違いがはっきりある。これは各時代の戦い方の変遷にあり、反りのある太刀は馬を使った戦いで使いやすいように改良工夫されたからだ。
よく日本刀で備前(びぜん)とか雲伯(うんぱく)という名称は、良質な砂鉄がとれる雲伯国境(さかい)地域や備前国と、そして当時、政治文化の中心である山城国(やましろのくに)や大和国(やまとのくに)に優れた刀工が集まり、各流派が生まれたから、そこ出身の名刀が多いという証。
名工は大和・備前・山城・相模(さがみ)・美濃(みのう)の五ヶ国を中心に集まり明治以降、これらの地域のものを「五ヶ伝」と呼ぶようになった。
古くから多くの刀剣が作られ、名物(めいぶつ)と呼ばれ珍重される宝刀の数々も生まれてきた。名刀を見極めることは今も昔も変わらない。
時代劇のイメージはフィクション
日本刀の役目は
象徴するもの
「刀の見極めは室町時代から確立されていたのです」というのは飯田高遠堂、5代目当主、飯田慶雄(いいだよしお)氏である。飯田高遠堂は現存する日本最古の刀剣古美術専門店として刀剣界で誰もがその実力を認める刀剣商である。
「皆様が刀というと時代劇のイメージが強いのか、名刀はよく切れる。その刀で何人切れるとか、何人切ったら脂で切れなくなるなどの切れ味の話を聞かされている方もいると思いますが、実は本来の日本刀はそういうものではありません。
日本刀とは神話の時代、三種の神器に数えられる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)にはじまり、そして御神体として奉られるなど(神仏の仏像の中には首が抜けるように作ってあるなど、その中に剣などを収納したものが残されており、その真剣自体が御神体)、聖なる道具でありました。
また、皆さんが学生時代などに学んだ歴史の中で征夷大将軍という名称を覚えたと思いますが、あれは天皇陛下から節刀という儀式があり、そこで征夷大将軍を任命するというもので、その時、天皇陛下が家臣に太刀を下賜されるのです。
その刀を受け取ったものは征夷大将軍という位がいただけ、兵士全軍を指揮する権限を天皇から委譲され、朝廷の敵を討伐するというのが仕事でした。そして無事征伐を終え、帰還するとその刀を天皇にお返しする。すると権限はもとより全て天皇陛下に戻るというもので、その時の刀はいわゆる権威の象徴でした。
戦国時代になると、戦の褒賞として、また将軍家の後継者誕生などの慶事に素晴らしい日本刀が贈られることが決められていました。だから皆さんの頭にあるチャンバラ劇は実は嘘。だって30、40人いる屋敷に一人で飛び込んで全員斬倒すなんて、絶対ありえませんから。某有名な映画などの100人斬りなんて絶対にありえないと思います。まあ、あり得ないことだからフィクションになるんですけどね」と笑う飯田氏。
勇猛果敢なヒーローは実は幻だったというオチに少しがっかり。とはいえ、フィクション話がいくつも作られた日本刀はそれだけ魅力あるものだったという証拠ともいえる。
飯田氏にとって日本刀とはどのようなものかとお聞きすると、美術工芸品として非常に優れた武器、刀剣である事は間違いないとのこと。世界で一番強靭な刀剣というのは日本刀だというのが定説だという。実際に海外の刀剣コレクターが、もっとも優れた刀剣はなんだろうと調べた時行き着いたのが日本刀だったという話もあるそうだ。
「日本刀はもともと神代の時代における神器であり、天皇家、公家、将軍家などの権威の象徴となり、江戸時代には将軍家に跡取りが生まれた生後7日後(生後7日間は神様の子とされる。生まれてすぐになくなる子供も多かった時代のため)のお七夜の儀で、全国の大名から家禄に応じた位の献上刀を贈らなければならない決まりなどもあったほどで、このような慶事に贈る品としてなくてはならないものでした。身近な例としては近代でも「嫁入り刀」など大事な方への贈答用としてもよく使われてきましたね。
ほんの数十年前までは日本人のアイデンティティとして本当に大事にされてきたもので、敗戦後の武装解除に伴い、米兵に素晴らしい日本刀を国外に持ち出されるくらいならと、国宝指定の名刀までも叩き割るという事件まであったように、日本人の魂に根付いたものだったのです。」
敗戦時に武装解除で召し上げられた日本刀が外国に渡ったというのは有名な話だ。
国を超えて魅了し続ける
日本刀の世界
鶴透鐸 銘 国友正行作 於三州西尾
「神的なものと美術工芸品であると権威の象徴。単なる美術品ではないのです。だから国を超えて日本刀に関心を持つ人が増えているんじゃないでしょうか。」
事実、日本刀の人気は世界でもかなり高い。飯田高遠堂にも海外から足を運ぶ顧客も多く、かつてはアメリカやヨーロッパがほとんどだったが、最近はメキシコ、シンガポール、ニュージランド、オーストラリア、ロシア、キューバ、そして中東、モルディブ、カタールなど、世界中に愛好者がいるそうだ。
「刀は日本の誇る美術工芸品として。名刀はお値段も張る物ですから、会社の経営者、医者、弁護士などそれなりの地位にいらっしゃる方々が秘蔵されています。彼らを引きつけるそこには日本刀が持つ長い歴史と多岐にわたる魅力が関係しているのだと私は思います。
平安時代から今日まで、基本的には同じ形状、同じ製法のものが使われているというのは非常に珍しい。実用の美であれば、茶道具とか、他の民芸でそういったものはありますが、実用品であり、贈答品であり、権威の象徴であり、神仏の御神体そのものであり、かつ美しい、このような美術品はこの世の中でも実際は少ないはず。
例えでいえば、戦国時代の風雲児、織田信長が腰に差していた刀は『燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)』であるのは有名なお話ですが、実際、彼はそれを実用と考えていなかったと思います。なぜなら彼は織田軍を率いる指揮官。彼のところまで敵兵がくるようでは、その戦はもう負けている。敵は絶対に来ない場所で大将が腰に差している名刀。そこには彼らの軍のシンボルという意味があるわけです。牽引者のシンボルであり、その立場を肯定するために持つというところが大事なわけです。」
有名な歴史人物が持つ刀に名刀が多いのはそういうことなのか。逆をいえば、それだけの立場があるなら、それにふさわしいものを腰に差しておかねばいけないというのが常識だったということだ。足軽を始め、多くの家臣が主君の持つ名刀を見て、自分が持てないような素晴らしい名刀を持つ主は天下にふさわしい武将なのだと崇拝し、一丸となって戦い抜いたというのは理解できる。
「信長を始め、有名武将たちの権威を象徴する道具。今の言葉で言うとハクがつくようなもの。実力ある武将なのに、腰に粗悪な刀を差しているようでは、昔は人格者としては重用されなかったと思うのです。そういった側面も日本刀にはあると知ってから見ると、より面白くなると思うのです。」