革新を続けるモノづくりと育み続けるヒトづくり
織田信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」の1560(永禄3)年、織田信長の家臣で後に信長の三男・織田信孝に仕えた、岡本太郎右衛門尉(岡本良勝)が鋳造業を創業した岡本・ナベヤグループ。織田信長に献上した青銅製の釣瓶は今も岡本家に残されている。
1749(寛延2)年に朝廷より御鋳物師免状を授かり、柴又帝釈天、成田山など、全国各地の院の梵鐘や鍋、釜等を製造。茶聖千利休との親交もあり、利休からの文が同家に伝わっている。
絶えず時代の変化に応じた商品開発と販売戦略、そして鋳造技術の研究開発を続けることで、自動車・コンピューター・家電製品などの製造に欠かせない、治具メーカーとして国内トップクラスのシェアを誇り、近年は経済成長著しいアジアへの進出も強化しながら、日本の「モノづくり」を支えている。
岡本・ナベヤグループ 15代 岡本太右衛門氏(代表取締役会長)、岡本知彦氏(代表取締役社長)に革新を続けるモノづくりと育み続けるヒトづくりの秘訣について聞いた。
仏教とともに日本へ伝承、時を奏でる梵鐘
鐘は紀元前に中国で作られた金属製の楽器の一種であり、インドから中国に仏教が伝わると、仏教徒たちの生活の規律を守るため時間を知らせる道具として取り入れられていた。
飛鳥時代に中国から日本へ仏教の伝来とともに鐘も日本に伝わり、中国の形式を取り入れた梵鐘が造られるようになった。
梵鐘の模様は仏の姿を模したものともいわれ、縦と横にある太い帯は仏の衣、上部にある乳は仏の頭髪、撞座の部分は蓮の花をかたどっているとされる。
鋳物は国の重要な技術として尊重され、これを鋳造する者は高度の専門技術者として朝廷の庇護を受けた。
「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴るお手々つないでみなかえろうからすといっしょにかえりましょう」
多くの人に親しまれている童謡「夕焼け小焼け」(作詞・中村雨紅)にも、遠くから響き渡ってくる音のある風景がかつては身の回りにある日常のありふれた風景の一コマであったように、明治になり西洋の時計が広く使われるようになるまで、人々は時の鐘によって時間を知っていたように、情報伝達の手段として活用されてきた。
伝統は革新の連続〜公共事業とグローバル展開〜
代々、鋳物師・鋳造業として柴又帝釈天、成田山など、全国各地の院の梵鐘や鍋・釜等を鋳造してきた。
時代の変化に合わせて作るものは変えてきたが、すべてを失った敗戦が大きな転換期となった。
わずか一週間で工場を再生させ、戦災者用、食糧増産褒賞用の台所製品の生産を開始した一方、戦争中に兵器の材料にするため供出されていた梵鐘の復興に貢献し、荒廃した世の中で物心の支えを提供した。
好不況の波を超えるべく、いかに伝統技術を活かしながら、新たな挑戦を続けてきたのか。
会長 戦前、品質に優れ効率的に製造できる画期的な製造方法で、インドネシアへ家庭用の鍋(カルドロン)を輸出していたおかげで、戦後の貿易再開時には”鍋屋ブランド“商品しか買わないと、大量の注文があった。
当時の通産省から外貨獲得のため”鍋屋ブランド“で他社に製造させてほしいと要請があった。しかし、他社で製造し万が一品質に問題が生じた場合、”鍋屋ブランド“そのものに傷をつけることになりかねないため、他社での製造をすべて断り、カルドロンの製造に集中し、大いに儲けることができた。
※当時、外貨獲得のため輸出産業は税金3%が非課税となっていたため。
ところが、インドネシア政府の財政が危うくなり、LC(信用状)の発行が止まり、注文は1〜2年先まであり在庫もあるものの、在庫品は国内で販売できず、更には銀行からの融資も渋られ、非常に厳しい日々が続いた。
LC発行までの一年間、社内にあった古鉄などを探し出しては販売する中、事業転換を模索した。
会長 オリンピック景気以前の踊り場不況から変革を実行するため、鍋屋鋳造所では貿易を取り扱い、岡本鋳造所では国内の公共投資に関連する事業を柱とすることにした。
景気に大きく左右されることなく安定した会社経営を実現するため、貿易はアメリカに向けての家庭用作業工具、公共事業においては水道管の継手に着手した。
1960年代の高度経済成長期、人口は増え、宅地開発が進められる中、水道の施設も盛んに行われてた。水道管は石綿をコンクリートで固めたものが大量に作られていたが、継手だけは鋳物でなければ作れなかった。
当時、伝統的な人海戦術による手づくりされていた継手の製造に、自動車という時代の最先端を行く商品の作り方、自動車部品の生産システムを導入し、継手バリエーションを増やしながら売上は大きく伸びた。
しかしながら、注文先は役所。どれだけ仕事があったとしても、予算がなければ発注が来ない。
公共事業一本で経営することは非常に難しいという事態に直面しました。
会長 アメリカは日本とは違い、日曜大工(DIY)が習慣の国柄であり、ガレージの中には作業場があり、小型の万力は必需品だった。戦後ベビーブーム、健康ブームで新婚家庭が生まれたことも追い風となり、1969(昭和44)年、全米一のホームセンターであるシアーズ社への販売ルートが確立すると、年間100万台も売れた。
しかし、好調も長くは続かず、円高によってアメリカ向け家庭用万力の販売は数を減らしていった。
同じものをいつまでも作っているというわけにはいかない。良くても30年。次の30年を乗り越えるために商品開発をしないと残っていけない、と強く感じた。
初の工具輸出
社長 戦後の1950年代は日本の産業発達とともに、機械工場、自動車産業、繊維機械部品等の下請けメーカーとしての商品が主流でした。部品メーカーの売上は納入先の業績に左右され、しかも生産量の割には利益があまり出ないのが当たり前の時代背景があったからこそ、利益をあげるために自社製品の開発を進め、自社製品割合を高めていった。
更に、円高で減少した日曜工具用の万力から、より利便性の高い工作機械用の万力へ、三千円で売っていたものも三万円で売るものへと転換しました。
変革期の苦労は大変だったと思いますが、この工作機械用の万力が進化して、現在の治具工具へと発展していく道筋が築かれた。
様々な挑戦を通して、カルドロン、木炭アイロン、万力、精密機械へ自社製品を進化させてきた。こうした中で培われてきた鋳造技術、精密機械加工技術がお客様との信頼関係を築く重要な力となり、現在、精密高性能な工作機械に使われる治具のエレメントにはERONのブランド名がつけられている。
治具メーカーとして国内トップクラスのシェアを誇り、経済成長著しいアジアへの進出も強化し、グループ全体の売上高は約130億円、社員数は約580人に達する。
娘婿としての覚悟と報恩の二年間
岡本家の歴史を紐解くと、当主としてしばしば養子が迎え入れられてきた。10代岡本太右衛門、14代岡本太右衛門も養子であり、1989(平成元)年、将来の16代当主として近藤知彦氏が養子として迎えられた。
会長 同族会社は、社長にその気があればいつまでも社長に留まることができる。しかしそれでは新しい時代に取り残される可能性がある。そうしたことを防ぐには、どこかで社長を交代するきっかけをつかまなければならない。先々代より還暦を迎えた頃に社長交代していたため、先代が還暦の1962(昭和37)年、32歳で私は代表取締役社長に就任しました。しかし、今の時代、還暦では早すぎるということで65歳の1995(平成7)年、代表取締役社長を岡本知彦氏に譲りました。
社長 本当は会長が60歳のタイミングで交代したかったはずですけど、ちょっとゴネました(笑)。
実の父親が旧制第八高等学校の2学年上の先輩であり、会長と直接の知り合いではなかったものの、お見合いの話があった時に学生時代のネットワークで調べられたわけです。
会社を継ぐというプレッシャーは正直なかったものの、猶予として2年間くださいと伝えました。
当時勤めていた日本ガイシ株式会社(東証1部、名証1部)や共に働く仲間や上司が大好きであり、大変お世話になっていたため、絶対に迷惑をかけたくない、という思いから、すぐ辞めることはしない決断をしました。
会長にお許しを頂いた2年間、目の前の仕事に全力を尽くした一方、創業400年を超えて連綿と繋いできた企業を継ぐという覚悟を定めました。
守り続ける番頭制
代々、時代の変化と合わせ、新たな当主へと若くして代を継ぐ岡本家。30代の若き当主の考えや方針を社内外でまとめながら実行していく、その裏側には番頭がいる。
守り継がれていく3つの家憲「政治には口を出すな、遊興ビジネスには手を出すな、番頭制を守れ」にも記されている番頭制の秘訣とは。
会長 やはり承継当初は、非常に難しかった。当時の番頭が長年先代とともに会社経営を担ってきた14代の実弟である遠藤豊三郎氏や専務の岩佐東一氏であり、頼らなければならないほど未熟な面が多々あり、よく怒られました。正直、怖かったですね(笑)。けれども、色々刺激をもらい、その反発・ハングリー精神が逆にプラスとなり、数年かけて私の番頭さんへとスイッチしました。
社長 私の番頭さんは会長が選んだ方々であり、その番頭さんを”先生“と呼び、様々なことを学ばせてもらいました。
岡本家の当主が社長を兼務する岡本・ナベヤグループの数は多い。しかも会社によっては業務内容にかなりの違いがある。そうした会社を一人の社長で微に入り細に入り見ることは不可能。それよりも、各会社の中で事業内容をしっかりと把握しているリーダーが何よりも力になるからこそ任せており、番頭制とは社長補佐役制度とも言える。
毎月1回、役員会を実施しながら現状把握と方針を共有し、それぞれの経営課題が出てきた時には都度常務会や取締役会を開いて議論することで、全体把握しながら経営しています。
番頭の承継として、番頭は定年退職とともに交代し、代々、現番頭が次期番頭を育て託していっている。
3つの家憲「政治には口を出すな、遊興ビジネスには手を出すな、番頭制を守れ」においても、前当主と現当主の何気ない会話や世の中の出来事から家憲を引き合いに出し、認識を深め合いながら連綿と受け継がれている。
更に毎年12月1日に会長の自宅に番頭たちが招かれ、「恵比寿講」が開かれる。恵比寿様をはじめ商売繁盛に関係する掛け軸が多数飾られ、「この1年間ありがとうございました」と苦労を労い、感謝するために岡本家が番頭たちを接待する。岡本家の家族総出で酒や料理がふるまわれ、次の代を担っていく17代も同席し、祖父の姿、父の姿を見ながら引き継いでいくものの重みを感じ取っているに違いない。
理念の言語化「価値創造」「堅実経営」「時流適応」
家憲とは岡本家として当主が守るべきものであり、理念とは会社が目指すべき方向(不変の価値観)や存在意義であり、社員一人ひとりが共感し、行動していくもの。
知彦氏が代々伝えられてきた「堅実経営」に加えて、「価値創造」「時流適応」を掲げ、理念の言語統一とともに、社内外へと浸透させていくことで、新たな価値と時代に応じた商品開発へと挑戦を続ける秘訣とは。
社長 入社当時にも、経営理念という言葉はなかったものの、会社の一つの考え方、言葉として「堅実経営」を共有し、会社案内にも掲載されていました。
1990年以降は作れば売れる時代ではなくなり、当時CI(コーポレート・アイデンティティ)が流行っていたことがキッカケとなり、企業理念を統一しました。
価値創造は、お客様にとっては価値のある製品やサービスを提供すること、下請けの部品加工であれば受託サービスとしてコストパフォーマンスや納期対応力を高めながら図面通りの製品を製造して当社の価値をしっかり認めてもらうことが大切。
江戸時代、明治維新、近代化、第二次世界大戦後、高度経済成長期、バブル崩壊後と、その時期によって作る製品が異なっているのは、お客様が要求する価値が変わってきているからであり、お客様目線の価値創造を大切にしながら、時流に適応した商品を作っています。
同時に、社員、仕入先、銀行などステイクホルダーからも、会社の価値を感じてもらわないといけません。
自社製品や伝統の技を活かした最新技術(最近では精密機械加工技術や設計技術等々)をもとにお客様目線での価値創造を会社として意思表明していくことが大切。社員一人ひとりもそれを理解した上で仕事を考え、自分自身の進歩へと挑戦を続けてもらいたい。
時代の変化に対応し、製品、マネジメントなどを変化させながら社員、お客様、取引先、地域社会から信頼され、地球環境と共存共栄し前進する企業を目指しています。
理念を浸透させながら、素材から設計・素材・精密加工(1/1000ミリ)・組立・検査までを行う一貫生産体制を確立し、小品種大量生産ではなく多品種少量生産での競争力強化のため「テクノクラフト(テクノロジーとクラフトマンシップの合成語)」にてハイテク技術と従来の伝統技能を融合させることによって、より付加価値の高いモノづくりを進めている。
優れた技能は一朝一夕でつくられるものではなく、一度失われた技能を復活させることは困難を伴うだけでなく、不可能なこともある。鋳造技術という優れた伝統技能を次代へと遺していくためにも、原点である梵鐘づくりを毎年1〜2口手がけている。その製造過程をコンピューターでシミュレーションし、デジタルエンジニアリングを応用することで、口伝でしか伝えられることのなかった暗黙知を目で確認し技能伝承に役立つだけでなく、他の生産にも応用することができる。450年という歴史によって培われてきた技能や技術を引き継ぎ、ヒトづくりに力を注ぎ続ける中に、未来へと繋いでいく使命感が垣間見える。
日進月歩の技術を貪欲かつ冷静に捉えながら、人間力を高めていく
展示会の様子
AIやロボティクス、機械学習やIoT、そして自動化ソフトウェアのような次世代型テクノロジーを活用した産業革新の動きが世界中で広がりを見せている。
製造業においてモノづくりを取り巻く環境は現在、大きな変化の中にある。
製品面では高精度化が進む中で多品種少量生産への対応や垂直立ち上げへの要求など、製造についての品質や基準は高まる一方である。その中で生産する場所としても地産地消化が進み、世界同一品質が求められるなど、グローバルでの生産手法の確立などが急務な状況であるといえる。これらのように高度な品質や柔軟性が求められているにもかかわらず、熟練技能者の不足や新興国での人件費の高騰、地方での採用難などが進んでおり、従来のように人の力に多くを頼った生産体制では限界が見えつつある中、どのように捉えているのか。
会長 新たな時代へ、変化に取り組んで進めていかなくてはいけないことは事実。
しかし、我々のような商売がどこまで次世代テクノロジーを活かしていくべきか、ということは非常に難しいです。ロボットではできない、人として価値を見いだせる隙間を探し出しながら、AIを活かしていく。このミックスが本当に難しいと思う。
社長 難しいですよね。すべてがAIになるわけではなく、仮にコンピューターで膨大な情報を取捨選択できても、最終的に決断するのは人間。
未来においても製造業は無くならないからこそ、日進月歩で進む技術には貪欲かつ冷静に情報を得つつ、次世代テクノロジーを経営に取り込みながら人と機械の役割分担をし、人としての人間力を高めていくことしかないと考えています。
人間大事の経営理念は未来永劫変えない
450年以上に渡り、時代に合わせて伝統技術を活かした新たな商品や販路を築き、連綿と繋いできた岡本・ナベヤグループ。創業500年からその先の未来に向けて、変えないものとは。
会長 人間関係。信頼し、お互い協力し合っていくことだけは変えたくない。仕事は100年先にどうなるか全くわかりませんから。
社長 人間大事。人を大切にすること。
人間によって製品が開発され、人間によって製品が作られ、人間によってものが売られていくわけですから。
鋳造や精密機械加工など沢山の仕事があるものの、100年後にどういう形になっているかは検討もつかない。
ただ、経営理念は絶対変えないようにしたい。
感謝とともに、改善・改革の担い手に
今、全体として550人を超える社員の皆さんへの思いや期待することとは。
会長 絶えず改善・改革を。社員一人ひとりが前向きに取り組み、ほんの少しでも現時点より良くなるような企業であり、環境・体質であるように我々は努力をしていかなければならない。100%の完成は不可能ですから、絶えず100%を目指してお互いに努力し続ける企業でありたい。
社長 真っ先に伝えたいことは、「ありがとう」という感謝の言葉です。鋳造業は暑い中での立ち仕事でモノづくりをし、営業は企画を考えながら顧客の価値を創造し、総務や人事が仕組みをつくり、一人ひとりの力が合わさってチームとなっていますので。
もう一つは会長と同様で、今までと同じようにやっていても会社は良くならないからこそ、若い人も歳を取った人も役職者も非役職者も、常に改善・改革を考え、提案・行動してもらいたい。
唯一の願いは、17代目への事業承継
最後に、お互いへのメッセージをお願いします。
会長 私の代は十分に事業継承しましたので、次の事業継承をしっかりやってほしい。これが唯一の望みです(笑)その辺はどうですか?今こそ準備をしていかなくてはいけないと思うのですが。
社長 会長がそこまで仰るので、準備しなくてはと感じています(笑)。
私の場合、養子だからこそ真面目に社長になるために勉強したという自負はありますが、息子の場合は生まれながらに次期当主という使命を担っているからこそ、「なんだ、この会社」とは言われたくないし、足許の経営を盤石にしていきたいという想いが事業承継よりも強いです。
しかしながら、息子(17代目)も26歳ですから、折に触れてよく話はしています。
会長からそろそろ息子を会社に戻すべきだと言って頂きますが、やはり本人が自覚して戻ってこないと言い訳になってしまう。
次期当主として受け継ぎ、託していく意識、使命感を持って戻ってきて欲しいと願っていますね。
これからも気軽に相談できる関係を
社長 元気で長生きしてください。ご夫婦仲が良いし、旅行も二人で行かれたりするので、何より健康第一で。
もう一つは、会長は仕事が大好きで、役員会で月次決算の数字が出てくる際、その数字を見る目は昔から鋭くて今でも鋭い(笑)私も社長として悩むことや報告したいこともあるので、時々会長室にいって意見を聞く。この関係は本当に大切で、役員会での意見交換だけでなく聞いてもらいたいこともあるし、逆に会長も私に言いたいこともある。気軽に会長のところへ行って会話する関係をずっと続けていきたい。
友達や先輩の経営者から、お父さんが亡くなった瞬間から孤独になり、わがままが出てくるという話を聞くのですが、今のところ私がわがままになっていない理由は会長がいるからです。
更にもう一つ、親子ではない、良い意味での遠慮がある。ありますよね?
会長 ものすごいある(笑)
社長 息子だったら、良い意味での遠慮が無くなってくる。容姿会(ようしかい※)で強烈なお義父さんとの葛藤話を聞くわけですが、養子をもらい慣れた岡本家の直系である会長と婿養子の私だからこそ、いい意味での緊張感と冷静さのバランスがある。それは僕にとっては物凄くありがたいです。
※容姿会(ようしかい)とは、14代目が50年前に設立し、岐阜市近郊在住で養子の跡継ぎ企業が集い、経営者だけの交流ではなく、夫婦での交流を第一とする非公式の会。
しかしながら、息子との関係は非常に難しい。だからこそ、息子と私との間に番頭さんに入ってもらう可能性も視野に入れて考えている。息子と番頭さんにおいても、年齢が離れている方がいい意味で教えていく、いい意味で躾けていくという関係が築きやすく、父親だからこそ正直伝えにくいこともある。
「価値創造・堅実経営・時流適応」を企業理念に、原点である梵鐘の鋳造技術を今に活かし、未来へと繋ぐべく「テクノクラフト(ハイテク技術と伝統技能の融合)」の進化と深化に取り組んでいる。
絶え間なく育み続ける人材育成(ヒトづくり)が技能の伝承・技術の向上・後継者育成につながり、常に技術革新を生み出し、時代に応じた商品を開発していく(モノづくり)。
ヒトづくりとモノづくりで、どんな未来においてもお客様や地域から無くてはならない存在として、また日本全国の伝統技術を伝承する長寿企業のお手本として、輝き続けるに違いない。