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一代一起業の企業風土。変化する時代、進化を続けるヤマト。

長寿企業の襷 ヤマト株式会社 (1899年創業)

長谷川 澄雄
Sumio Hasegawa

  • 1951年(20歳)ヤマト糊工業株式会社 代表取締役社長に就任。
  • 1956年慶応義塾大学卒業。
  • 1970年ヤマト株式会社へ社名変更。
  • 2000年より現職(会長)へ。

全日本文具協会会長、東京実業連合会会長、生活用品振興センター会長、日本青少年文化センター理事を兼職。

長谷川 豊
Yutaka Hasegawa

  • 1981年慶應義塾大学卒業。
  • 1985年ニューヨークペース大学 経営学修士(MBA)卒業。
  • 1985年ブラウン・ブラザース・ハリマン・アンド・カンパニー ニューヨーク本社入社
  • 1995年から東京在住員事務所勤務
  • 2000年にヤマト株式会社代表取締役社長に就任。

「ひとつの物を他の物とくっつける」それは単に1プラス1を2にするのではなく、今までになかった新しい価値を見出すこと。
1899年、日本で初めて「保存の効く糊」をビン容器に詰めた画期的な製品「ヤマト糊」を開発して以来、ヤマトの100余年に及ぶ歴史は、「接着の持つ限りない可能性を、創造的な商品に変えて世に送り出す」という挑戦の連続だった。
1975年、大ヒット商品「アラビックヤマト」が誕生。現在、ヤマトの製品は、家庭や学校、オフィスで使われる文具からクラフト素材、そしてさまざまな工業用製品まで、幅広い分野で支持を受けている。
接着・粘着の専門企業として、人と人、企業と企業、文化と文化を結びつけるヤマトの3代目、長谷川澄雄氏(現、代表取締役会長)、創業100周年を迎えた2000年、経営を引き継いだ4代目、長谷川豊氏(現、代表取締役社長)にヤマトの歴史と経営者としての考えを聞いた。

日本一の糊を目指して


─ 大ヒット商品 アラビックヤマトが愛される理由とは?

澄雄会長(以下、澄雄)「アラビックヤマトについて語るには、まず当社の創業時にさかのぼる必要があります。当時は、もともと商品としての糊というものがなかったんですよね。なぜかと言うとすぐ腐る。だから、家庭でつくるとか番小屋で売っている商品であったわけですね。それを腐らなくした上、ビン容器に入れて販売したのがヤマト糊の始まり。それが一番最初。」
豊社長(以下、豊)「原料には米を使い、非常に純粋なデンプンを取ったんですね。そのために不純物がなくなって腐りにくくなったということと、防腐剤を発見した。」
澄雄「そう。でもね、防腐剤には刺激臭があって、それを取り除くために化粧品に使うような香料を使って、良い匂いがして長持ちして腐らない糊として商品化して売り出したのです。」

─ なぜ「ヤマト糊」と言うの?

「日本一の糊にしたい」「商売が大当たりしますように」という願いを込めて、丸的に当たり矢のマーク〝矢が的に当たる〟=(イコール)ヤマトと命名したそうです。日本の旧国名(大和)にもかけられている。」
澄雄「やがて戦争が始まり、デンプン糊の原料である米が使えなくなって(米穀配給統制)、先代が食用でないものを原料に使おうということで、彼岸花の球根だとかダリアの球根からデンプンを取って糊にしようとした。だけど、糊にするには、一旦熱にかけて煮て作る必要があったんです。そうするといろんなデンプンが混ざるとデンプンの種類によって糊(OR固)化温度が違うから、均一の糊が上手に出来なかった。当時、東京の工業大学に通っている人に、糊なんかを研究する人はいなかったからね、工業大学の学生に授業料を出してあげて、2人を卒業させて、うちの会社に来てくださいと言って糊の研究をさせてたの。それが先代の時です。」
「そういった研究の成果で、これまでにない、加熱をしない科学的な処理でのりを作る、冷糊法という技術を開発したそうで、この製法はその後製法特許を取得しています。」
澄雄「時代が進むにつれ、さらに戦時体制が厳しくなってきました。そんな時チャンスがあって、東洋食品工業を買いました。今で言うインスタント食品『乾燥五目飯の素』をつくって海軍に納めていたんですね。この事業のお陰で、戦時中でも食べ物には困らなかった。」

─ 糊以外の事業を以前もされていた?

澄雄「はい。先代は49歳で亡くなるときに、枕元で、「俺もいろんな商売をやったけど、一番安定してるのは糊だよ。糊を大切にしなさいと、糊屋を一生懸命やりなさい」そう言って死にましたよ。先代が早く亡くなったので、私は二十歳(大学2年生)の時から社長だったんですね。」
「戦後も、ヤマト糊というのはガラスビン容器で売っていたのですが、重く、輸送中壊れるという欠点があった。」

歴代ヤマト糊パッケージ 〜昭和25年

澄雄「もっと簡便なものはできないかと考えて、『アラビアのり』という液状のりが一部で普及しており、それに着目したんですね。主原料のアラビアゴムは、アフリカのスーダンが当時原産地で、そこから輸入されてきて、簡単に水で溶けるんです。『アラビアのり』は円錐のビン容器に入っていて、先端に海綿がついており、逆さにすると海綿から染み出るので手を汚さず便利なものでした。」
「アラビアのりからアラビック(の由来が)が来ています。」
澄雄「ところが今のようにプラスチックはありませんから、塗り口に使った海綿は、どうしても海綿の中に糊がたまって固まっちゃう。そうすると最後まで使えない。結局、使えないということで、ポシャっちゃったわけ。
そこで、アラビアのりの欠点を徹底的に検証しアラビックヤマトに生かしたんですよ。ビン容器はプラスチックに変え、海綿の不便は特殊スポンジキャップとして生まれ変わりました。ストッキングの原理とザルの原理を利用し、塗り口が常に固まらない、手を汚さない、均一で滑らかな塗り味を実現しました。指先を汚すというのは最近の女性はマニキュアなんかしてるから、非常に嫌がるんですね。ヘラとかを使うのは不便なんですよ。これならば指を使わないで薄くのばせるのでアラビックヤマトは大ヒットして今日にいたるわけです。」

一代一起業の精神

─ 4代それぞれの功績がありますね?

澄雄「創業者はね、ヤマト糊を開発したでしょ?先代は、戦争中に新たな事業を始めて、統制時代に事業を継続した。各代がひとつずつ経営の核となる仕事をやりながら次の代に送ってきたんですね。そういう風に各代ともその時の時代の流れの中でいろいろ新しい軸を起こしながらやってきた。」
「会長はアラビックを作った。」
澄雄「私はそれでずっと経営しているわけですよ。」
「私もちょこちょこ(新商品を)出してるんですけど、まだ次代を担う長寿ヒット商品をこれから育てていかないとと思っています。」


いろいろなシーンで便利に使える、貼ってはがせる全面粘着剤付。メモックロールテープ

澄雄「その他にアメリカで3Mと提携してね。粘着テープ。世界一のメーカーですから。私がアメリカに1960年に行った時にアメリカ市場を見たら、粘着テープが非常に広く使われていた。日本でも戦後、アメリカ軍が手紙の検閲のために使っていました。それは日本のテープではなくて、アメリカから持って来て使っていた。当時粘着テープは日本にない。私がアメリカに行ったときに、テープの時代がくるだろうということで、3Mに交渉に行ったんですよ。当時は3Mの日本工場もないから輸入品だったんですが、輸入は、外貨の割当をうけなければならなくて、通産省や大蔵省なんかに行ってお願いして、輸入することに成功したんです。国内で独占してうちが3Mのスコッチテープをはじめ文具関連商品を売るという契約をしました。」
「これら事業のことは、話は聞いてはいました。一世代、ヒットする新しいものをつくらなきゃいけないということはいつも言われているわけで。まだ成功してないと思っていますよ。」

─ 子供のころ、それぞれの父親の印象は?

澄雄私の親父は大変な事業家でしたね。かっこよくいうと、先見性があったんですよ。商売を時代に合わせて、戦争という特殊な時代だったわけですけど、ものが無いという時代に合わせて、新しい商品を発掘していった努力はたいしたもんだと思います。時代の変化でダメになった企業も多いと思うんですよ。先代は、時代の変化というものが一番大変だったんじゃないかと思います。戦後にかけて、なまじ時代の変化ではなくて、急変といってもよい時代の流れに対して、対応が適切であったのでしょう。ただ単に100年続いてきたわけではない。」
「私は、そういうのを聞いていたから変化を採用しなきゃいけないなと。子供の頃は多忙で家に全然いない父親でした。遊んだ写真は少ししか残っていない。若くして事業を継ぎ苦労もあったと思いますが、高度成長期という良い時代も過ごされたと思います。この商品(アラビックヤマト)が大ヒットしたことで会社は安定してたんですね。ちなみに、アメリカが好きだから、アメリカに行ったり、今でも(会長は)アメ車に乗ってる。アメフトやってたし、そういう印象が強いですね。自分でレコード出したりとか、後楽園貸し切って野球したりとか、良い時代でもあったと思います。業界も伸びてたし、人口も増えてたし。今は真逆ですから。」

─ 澄雄会長の子育て…豊さんを育てるのに意識したことは?

澄雄「私の一番欠けてるところは、大学2年生で親父が亡くなって、学校行きながら仕事して、社長の時も学生だから。学生時代というのは中途半端だったんですよ。慶応大学も二年遅れて卒業したわけですから。出席率が悪くてね。」
「社長業の傍ら学生を辞めなかったのは、改めて思えばすごいことですね。」
澄雄「フランス語の試験があって、試験の日に仕事で出られないから、先生に日本語の手紙を書いて、別の日に先生と一対一でやってもらうの。そうすると、こっちはなんのことだかさっぱりわからないの。みんなで受けるとなんとかなることも、一対一だとそうはいかない。そんなこともありましたけど、無事に6年かかって卒業しました。」
「そういう話も一切聞いたことなかった。(笑)」
澄雄「この人(豊)は、黙ってうちに入るつもりだったんだよ(笑)。兄弟3人いてね、ヤマトに入れたのは一人でね、他の兄弟を入れるとケンカになるから。妹は医者に、その下は歯医者に。3人とも商売違うんですよ。でも、これからの時代は語学が達者じゃなきゃダメだということで、慶応を卒業してから、アメリカの大学に入れたわけ。」
「最初は(アメリカへ)行きたくなかったですよ。普通の学生で、何年かして、ヤマトに入るつもりでしたし。」
澄雄「日本にいればコネなんかを使って大きな会社入れて、修行させるとかってことやることもあるでしょう?でもそれじゃ結局下役を何年かやって、こっち(ヤマト)に帰ってくるわけだから、そんなんじゃしょうがないよ。」
「会長は外国が好きだったから外国に行きなさいと言ってくれたんですよ。ディグリー(学位)がないと帰ってくるなということで、MBAをとったんです。」
澄雄「この人、英語だけは達者になったわけ。そしたらたまたまご縁があってアメリカのユニークなプライベートバンクに入って。まさか会社にまで就職するとは思っていなかったなぁ。卒業したら帰ってくると思っていた。幸いにして拾ってくれるところがあったからね。その会社が非常に良い会社で。」
「時期は別として、継ぐことは必然だと思っていましたね。

社長交代の裏側と経営観

─ いつ頃から社長業を継ぐことを意識した?

会社がちょうど100年になる頃ですよ。100周年の記念行事が2000年なんですけども、会長も歳になってきましたし、それから周りも時代が変わってきた時でした。会長が弱気になったっていう表現が正しいのかわかりませんが、時代が変わり、そろそろ誰かに譲りたい。そんな気持ちになっていたのではないかと思います。」
澄雄「もうぼちぼち良いんじゃないかというのは95、96年目くらいから思ってましたね。息子が東京の支店勤務だったから。その頃から意識してました。」
「で、ハイジャックがあったでしょ。」
澄雄「いろんな経験しましたよ。」
会長が函館に行く時に、ANAの飛行機で、たまたまハイジャック(※注)に遭遇したんですよ。業界の人たちも乗ってたんです。研修旅行か何かで。それで、僕はまだ前職の会社に居たのですが、当時のボスが「すぐに空港に行きなさい」と。」

(※注: 1995年6月21日に起きた函館空港で全日本空輸857便が占拠された事件で「函館ハイジャック事件」とも言われる。男がサリンを持っていると乗務員を脅し、立てこもった。日本で初めて強行突入が実施され、容疑者を確保。死者はなく、乗客の一人がアイスピックで肩を刺され軽傷を負った)

澄雄「みんな目隠しされててね。どこ行くんだろうと思って、ようやく陸地に着いたら日本の消防車があって。函館ってことはわかんなかったけど、ああ日本だとは思った。隙間から見たんだけどね(笑)。どこ行くのか、それだけが心配だった。」
「殺される可能性だってあったのに、意外と楽観的だったんです。」
澄雄「殺されるって言ったって、いっぱい乗ってるからね。正直な人は怖いって言ってましたけど、犯人は一人らしいぞっていう見当はついてましたからね。騒いじゃいけないとは思ったけど。」
「私は会社から電話があって、(当時の)ボスも早く空港に行きなさいと。それはびっくりしましたよ。当時地下鉄サリン事件があったから。」
澄雄「サリンだって袋持ってたけど、結局サリンじゃなかった。」
「待ってる方が心配してた。空港で待たされたんですけど、怒鳴ってる人もいるし、人それぞれでしたね。こっちは黙って待ってるしかなかった。なんとかなるなとは思ってました。」
澄雄「陸地に着いたら安心しましたよ。地べたにいればね(落ちることはないから)。そこに朝までいたのかな。」
「そのときに会社の人は慌てていましたよ。そろそろ戻ってきてくれないと何かあったときは困るとは言っていましたね。」

─ その時は澄雄会長から何か話をされたんですか?

ないです。周りの人達、会社の人からですね。直接のきっかけではないかもしれませんが、でも自分の身に何が突然起こるか分からないということに気付いたんじゃないですかね。」

─ 最終的に100年のときに社長を交代しようと決めたのは?

「会長が(もうすぐ)100年だから、もう社長になったらどうかと。社長はすぐ出来るからって、最初から社長に。自分の意識の中では、2年くらい前からですかね。前の会社に言って、2年かけて辞めさせてもらいました。」

─ 引き継ぎの間に意識したことは?

「特にないですね。未だに何も聞いてないですから。」
澄雄私も教わっていないからね、教える必要もない。
「そういう考えなんですよ。お父さんを早くに亡くしてるから。普通の家みたいに、工場からとか、こういうのやりなさいとかは一切ないです。そこが普通の会社と違うところで、会長がどこに行ってるかも知らない。私は自分で開拓してます。本当に引き継ぎがないです。一緒に工場に行ったこともない。番頭とは行きますけど。(会長は)ゴルフもしないしお酒も飲まないから、全然違う。」
澄雄「僕、お酒が飲めないんですよね。ゴルフはね、105kgあったから、最盛期はね。連れてってくれたゴルフ場はカートも無いからつまらなくて。」
「会議は今でも出ますけど、あまり言わなくなった。僕に比べてすごく苦労してると思う。大学生の時から兄弟5人養ってたし。お客様や社員を大事にしなさいとか、そういうことは言われましたね。」

ヤマト製品カタログ 推定:昭和27~35年

─ 社訓、家訓などを伝えたりとかは?

澄雄「家訓というのは特にないですけどね、社風というのは、一代一ヒット商品というのはいまだに言ってます。新しいものでヒットする。新しいものは出来るけど、ヒットしない。アラビックみたいに。一つ当てればね、歴史に残りますよ。」

─ そのためのヒントは?

澄雄何でも良いんです。何でも良いからやりなさいと。動かないとね。
「会長はどっちかというとトップダウンだから、物事を一人で決めるの。僕はボトムアップを意識してます。僕は相談しますが、会長はたいてい、全部自分で決めますからね。僕はいろんな人に意見を聞きますけど。」
澄雄「自分くらい優秀な人はうちにいませんよ。(笑)それくらい思ってないとやってられない。だから自分が間違ったらおしまいだなと思っていましたよ。
この人(社長)は会社のこと過大評価していたかもしれませんけどね。入ってみて驚いたかもしれない。」
「特に外資系にいたので、ギャップは感じました。女性の扱い方とか、風通しを良くしないといけないなと思いましたね。(会長は)会社では、神様みたいな人だから。未だに会長が出てくときは直立不動で見送りですから。まあでも過去がないと今がないですからね。」

─ 経営計画などは意識して作らなかった?

澄雄ビルドオン(積み上げていく)という言葉は経営計画として思ってました。糊を日本一にしようということで、お陰様で日本一になって。一時は多数あった糊屋さんも淘汰されていきました。お陰さまで高い占有率を誇れるまでなりました。寡占の業界を作るというのは大変ですよ。」
「僕らの場合は銀行に中長期の経営計画を出さなきゃいけないとかあるじゃないですか。一番の基本は少子高齢化だから、やっぱりグローバルに出なきゃいけないということと、文房具でグローバルに出るのがうちは遅かったので、文房具も海外に出していかないといけないなと思います。あとIT化になると当然糊も使わなくなるから、違った分野ということで、ホビーとかそっちの方に。事務用品ではなくて。」

長く続く強い組織のつくり方

─ 人材育成に関する考え方は?

澄雄中小企業は残念ながら優秀大学を卒業した優等生は集まりにくい。それは始めから思わないといけない。本当はそういう人をとってうちで育てて一人前にしていくのが本来の建前だと思う。慶応大学は縁故で来てくれるけどね。(笑)一昔前は大学生を諦めて、高校生を全国から選抜してとりました。それがいまの幹部?」
「もう今はいないですよ。みんな大学卒です。今僕の周りにいる幹部は、会長が初めて雇った大卒で、かつ何カ月間か研修した人達なので、愛社精神が強いですよね。会長に育てられたという想いがあるからだと思います。」
澄雄「優秀な人材は集まりにくいと思った方が良いと思うんですよね、中小企業は。どうしたらいいかと言えば、既成の人を引っこ抜くよりしょうがない。私のところはスカウトの目標を銀行や商社に絞ってスカウトしてました。」
「営業のトップも銀行出身だったりして。国際関係のセールスのトップも、海外の銀行とか商社にいた人です。要するに大企業にいた人にお願いしてね、会社に頼んで来てもらう。でも会長のときは、ほとんど全員会長が自分で育てた人ですよ。その頃の人達が英語も喋れないのに海外に行って、その会社が30年以上アメリカで続いている。」
澄雄「育てたわけじゃないんだよ、やっぱりお得意さんまわらせてね、お客様に育てていただいたんですよ。

─ 今の若手の社員の教育は?

「新卒をとろうとしても、特に今は大変じゃないですか。景気の悪いときは別ですけど。5月採用なんかが多かった。そういう人達を勉強させるためには、語学とか仕事に関わる勉強をしていいですよと言っています。資格取得者には奨学金を払いますよと。」
澄雄「そういうのはいろいろ工夫してるみたいね。」
「僕が社長になってすぐくらいは、海外の展示会に連れて行ったりとか勉強をさせました。その辺は会長のときとだいぶ違いますね。逆に報奨は会長のときの方が良かったわけです。例えば、永年勤続したらすごい良いものがもらえた。」
澄雄「(笑)。」
「あと、最近は、女性の活躍が目覚ましいですね。100周年の頃、女性はほとんどいなかったです。内勤以外は。今は営業も研究開発も企画も女性がいます。比率で言えば、9対1だったのが、今は6対4くらいに男女比が近づいているんじゃないかな。女性の方が優秀ですよ(笑)」

これからの100年

─ 未来に向けた展望とは?

澄雄「100年後は世の中がどうなってるか分からないからね。なかなか予想するのは難しいですけど。グローバルに生き残っている企業であってほしいですね。今のジャンルは自動車関連事業でしょ、それとリテール事業、粘着・接着剤。こういうものになお、もう一つ二つ柱があったら結構じゃないですかね。」
「国内で言えばこれまでのオフィス需要のみが対象ではなく、高齢者だとか、子どもの知育だとか、そういう個人消費にターゲットを変えていかないとと思っています。オフィスは当然ペーパーレスになるし。それと同じようにグローバルで新しいものをやっていく。あとは全く違う業種、例えば今やろうとしているホビー関連やアートスクールだとか、ただ接着という分野から離れないでやっていく。頑張って生き残るためにはやらなくちゃいけない。40年以上続くアラビックというのはなかなか出ないと思うので。」
澄雄「自動車関連の仕事は種類も量も増えていくんじゃないかと思いますね。」
「文房具と違いまして、今、海外で成功しているのは車関係の仕事で、インダストリー事業部。お客様からメキシコに出てくれとか、インドネシアに出てくれとか、インドに出てくれって言われてるんですよ。だからそれを伸ばすのは戦略的には一つなんだと思います。」
澄雄「今アメリカ、トルコ、タイと工場を持ってるけど、メキシコとか自動車の産地に拠点を出していくのが大事じゃないかなと思います。インダストリーの中でもニッチな仕事がどういうところに需要があるか見極めながら開発していくというのが中小企業のやるべき仕事だと思います。そこは経営者の判断次第ですよ。」
時代を先読むことですね。小さな改革をしていかないとダメだと思います。
澄雄「出来るだけグローバル展開可能な商品を開発するということです。グローバルな展開、これは大事ですね。」
文具を海外に出したいなと思ってます。糊は単品だとなかなか出にくい。でも、筆記具はもう世界中で日本のものが使われているじゃないですか。同じように日本の伝統のものを持っていきたいなという風に思っています。タイではメインのアラビックヤマトが好調なんですけど、そこからはOEMで、ヨーロッパやアフリカにも出てます。」
澄雄とにかく一代一起業でいかないとダメですよ。あるもので食べてたら食い尽くしちゃう。経営者が事業を起こす気でいかないと、これからさらに100年以上は残っていかないと思いますね。絶対に(笑)。」

想いの襷

─ 澄雄会長から豊社長へ

時代の変化、進歩、流れは凄まじい勢いで流れていて、この流れの方向をグローバルな視点で「誤りなく見極める力」「見極めようと努める時代感覚」と「知識」「決断」、それらが求められる経営者ではないか。社長はもとより、次世代を担う者にもしっかりと伝承して、次世代を外国留学なども含め、育てることを、そろそろ考えておかなければならない時期ではないか。

─ 豊社長から澄雄会長へ

半世紀以上社長として業界と会社の発展に尽力されたことに感謝しています。私が今あるのも会長のおかげです。いつまでも健康で楽しい人生を過ごしてください。

ヤマト株式会社

創業者:木 内 弥 吉
初 代:長谷川 甚之助
2代目:長谷川 武 雄
3代目:長谷川 澄 雄
4代目:長谷川  豊
創業:1899年/明治32年(創業から118年)
所在地:東京都中央区日本橋大伝馬町9-10
事業内容:【リテール事業部】①文具事務用品の製造・販売②ホビークラフト製品の製造・販売③スリーエム ジャパン社製品の販売④フェローズ社製品の販売【インダストリー事業部】⑤工業用粘着テープ、及び工業材料の加工・製造・販売⑥粘着技術を活かした、自動車や電子部品関連への部品加工

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