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蔵元を家業から企業へ 「飲み飽きしないうまい酒」を次代に

日本の伝統的なお酒、日本酒。日本人の主食であるお米を原料にし、私たちの生活に深く根ざし、独自の飲酒文化を形成してきた。

近年では2013年に和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことで、世界の注目度が高まっている日本酒。「燗してよし、冷やしてよし」と温度帯を選ばない酒というのも世界的に珍しい。「人肌燗」「ぬる燗」「雪冷え」「花冷え」など微妙な温度加減に風流な呼び名がつけられているのも、日本らしい繊細さが表れていて面白い。

お酒の歴史は、農耕文化の定着した古代社会にまで遡る。様々な神事が行われるようになり、穀物の収穫を神に感謝するとともに、最初に収穫された初穂と、その初穂で醸造した酒を神に捧げるという形で翌年の豊穣祈願をした。日本では穀物といえば米が中心であり、当然のこととして米を原料として酒が造られてきた。このように日本酒の原型となった酒は神酒、つまり神に捧げるための酒であったと考えられている。

日本酒の製造技術に飛躍的な革新があったのは戦国時代の頃。米の「精米」、寒い時期に仕込みを行う「寒造り」、数回に分け段階的に量を増やしながら仕込んでいく「段仕込み」。この3つの技術革新によって、それまで中心だった濁り酒から次第に清酒へと移行した。そんな戦国時代に見る製法を受け継いできた酒蔵が現在も残っているのをご存知だろうか。新潟県最古の酒蔵とされ、長岡市摂田屋の地で470年続く吉乃川株式会社である。


代表取締役会長 川上 眞司(右から2番目)Shinji Kawakami
監査役  藤澤  孝(右から1番目)Takashi Fujisawa
取締役 川上 浩子(左から2番目)Hiroko Kawakami
代表取締役社長 峰政 祐己(左から1番目)Yuki Minemasa

時代は上杉謙信の頃 創業者は城主であり蔵元でもあった


酒蔵資料館「瓢亭」には、昔ながらの酒造り道具がずらりと並んでいる

吉乃川の酒が醸されている新潟県長岡市摂田屋。上越線と信越線の分岐駅であるJR宮内駅から程近い所に位置する。古くから信濃川の川湊として、また関東と越後を結ぶ三国街道の分岐点として町が栄えていた。江戸幕府の天領地であった摂田屋は、交通の要所であり信濃川の天恵から、酒や味噌、醤油の銘醸地として発展していた。

現在でもこの摂田屋界隈の約500m四方の中に、酒の蔵元2蔵、味噌醤油蔵が3蔵、薬味酒の蔵と合わせて6蔵の蔵元が残っており、その6蔵の建物が国の登録有形文化財になっている。そしてすぐ近くには、戊辰戦争の際に長岡藩の本陣だった「光福寺」もあり、歴史ある醸造の町として懐かしい面影を残している。この「摂田屋」という地名は「接待屋」の発音がなまったもの。租税である米などを収める役人の集団や旅の僧侶を休憩させ接待していたことからそう呼ばれるようになった。

そんな摂田屋の地に、戦国時代である1543年(天文12年)に城を築き城主として移り住んだのが、摂田屋の統治を任された武士、川上主水義春(もんどよしはる)。その後、長兄の川上主水義光(よしみつ)1548年(天文17年)、吉乃川の前身である「若松屋」を創業し、摂田屋に集まった米を無駄にすることなく、余った米を使ってお神酒を造らせた。越後平野の前方に信濃川を望み、背後に豊かな山を控え、良質な水と米に恵まれたこの地が、酒造りに適した地であることは言うまでもない。こうして城主である川上主水義光は当主にして蔵元となった。そしてそれ以降、蔵元である川上家は酒造りの伝統を代々守り、蔵人たちはその手造りの技を伝承し続けてきた。

機械化はしても自動化はしない


手造りでの大吟醸造りの技術や想いが通常の大型仕込みにも活かされている

吉乃川が目指す酒は「飲み飽きしないうまい酒」。希少性や話題性で選ばれるのではなく、いつでも飲める普通に美味しい酒を提供している。
清酒を造るには、まずは麹造り。精米された酒米を洗い、水に浸して水分を含ませ、甑(こしき)と呼ばれる大きな蒸し釜で外硬内軟に蒸す。そして蒸した米と種麹(たねこうじ)を合わせ、麹菌を繁殖させる。

次に、日本酒になる前段階のもと、醪(もろみ)造り。出来上がった麹と酒母(仕込みに先立って酵母を大量に純粋培養した酒のもと)、掛米を蒸した蒸米、水を合わせタンクに入れ仕込む。このタンクの中では、麹の酵素によって蒸米のデンプンがブドウ糖に変わり、そのブドウ糖が酵母の栄養素となりアルコール発酵が行われる。

最後に、ちょうどよいアルコール分を含んだ状態を見計らって醪を搾り、酒と粕に分け、火入れをして酵母の活動を休止させる。火入れ後の酒を貯蔵タンクで寝かし、味や香りが十分に発するまで熟成させる。その後、壜(びん)詰めの際、もう一度火入れを行い、ようやく出荷の時を迎える。
酒造りの工程において、昔から「一麹、二酛(もと)、三造り」と言われるように、麹造りが酒の味の鍵を握っている。その出来栄え次第で酒の質、味が左右されるのだ。

麹を造るための麹室(こうじむろ)に入るには、重い扉を開けて、さらにもう1枚扉を開ける。壁も扉も杉の板張りで厚みは20 cm。室の温度と湿度は麹カビが繁殖しやすいように高温多湿に保たれており、扉が2枚あるのも外気が直接入るのを防ぐため。蔵人はその麹室で息を止めて種麹を蒸米に振り掛ける。「種付け」だ。呼吸により空気が動くと、カビの胞子が狙い通りに付かないため、息をひそめるのだという。米に付く胞子は多すぎず少なすぎず、「米1粒に胞子3つ」という繊細な作業。さらに、ここからの製麹工程は蔵人が蔵に泊まり込んで、夜中、明け方と3~4時間おきにかき混ぜて世話をしなければならない。そのため、泊り込みが続く蔵人とその家族にとってかなりの負担であった。

そこで常に時代の先駆けを歩んできた吉乃川は、1961年(昭和36年)に「中越式自動製麹機」を独自に開発し、製麹工程の機械化に成功した。これにより、今までは泊り込んでいた蔵人の通勤制を可能にした。また1971年(昭和46年)には仕込みの大型化に取り組み、90㎘タンクでの大型仕込みを開始した。この大型仕込みには酒造業界の誰もが否定的で、当時の常識を超えるものだった。そうした常識が覆せたのは、先述の「中越式自動製麹機」で良質の麹を量産できたことと、傘下に酵母製造会社を持ち、純粋な酵母を大量培養する技術を併せ持っていたため。

こうしてどこよりもいち早く機械化と蔵人の通勤制を実現してきたのだが、現在でも一年中を通しての四季醸造はしないという。というのも、蔵人の多くはお米を作る農家でもあるからだ。酒を造るのは、その年の新米を収穫した後の10月から田んぼの準備が近づく3月半ばまで。中でも大吟醸の仕込みは低温長時間発酵が必要なことから12月から2月にかけての厳寒期にのみ行われる

さらにこだわるのは、使用している酒米。すべて新潟県産米だという。また、品質の良い酒米を将来にわたって確保できるようにと2016年(平成28年)から農産部を立ち上げ、地元の田んぼで社員による自主生産を開始するという徹底ぶり。このように守るべきは守り、合理化を図ることで酒質の安定と製造コストの削減に成功し、今や毎日飲める晩酌の酒が吉乃川の代名詞となった。

現在では年間約60本のタンクを仕込んでいるが、今でもそのうちの4本程は470年受け継いだ昔と変わらぬ技で製麹から手造りしているという。その理由を、現在代表取締役社長を務める峰政祐己氏が語った。

峰政社長:「技の伝承ということもありますが、機械と機械の工程間は必ず人の手が今も入っています。人間が判断して酒質を決めているので、手造りができないと機械がそもそも使えないのです。ですから、杜氏はもちろん若い蔵人まで全員が小仕込みの大吟醸造りに酒造りの基礎を学びます。機械化はしても自動化はしません。」

手造りを学んでから機械を操る。一見、順番が逆のようにも見えるが吉乃川の酒造りに対する信念が伺える。

受け継がれる昭和の名杜氏 「鷲頭昇一」の想いと技術


麹菌をまんべんなく振りかけるために均等に蒸米を敷きつめる

機械化と並行して「飲み飽きしないうまい酒」を安定して供給するも、決して人の手を省いた自動化はしないという姿勢。470年にわたり常に「吉乃川らしさ」を追求してきたわけだが、そこにはまさに酒造りのために生まれてきたと言っても過言ではない「昭和の名杜氏」と言われる1人の伝説の杜氏がいた。その名は鷲頭昇一(わしずしょういち)戦後から半世紀にわたって吉乃川の酒造りを支えた男である。鷲頭杜氏について熱く語ったのは、初代当主、川上主水義春の血筋を引く川上浩子会長夫人だ。

浩子夫人:「私は鷲頭を尊敬しています。私の祖父(川上家16代当主)の弟で大阪大学の醸造科で勉強した川上八郎から醸造の理論を教わって、それはいい酒をたくさん造ってくれました。『鷲頭の酒なら間違いない!』という評判をとった男です。今の吉乃川が皆さまに愛されているのも鷲頭のおかげです。」

鷲頭は酒造りにかける熱意は誰にも負けず、妥協を許さずこだわりの姿勢を貫いたという。朝6時に蔵に来ては麹の状態を確認し、細部まで酒の味を見極めていた。そのため、唎き酒の腕が鈍らないよう真面目に生活し健康面にも気をつけていた。

その結果、様々な品評会で数々の賞を受賞し、吉乃川の評判をさらに押し上げた。また、新潟県内蔵元の杜氏のまとめ役を務めており、酒造りや業界の発展、後進指導などの功績が認められ、1983年(昭和58年)には黄綬褒章を受章した。

晩年の鷲頭は「好適酒造米『山田錦』に負けない新潟の酒米を造る」を掲げ、新潟県酒造組合らと共同で「越淡麗」という新品種の酒米を誕生させた。しかし体調を崩した鷲頭は「越淡麗」を使った仕込みに関わることのないまま、2007年(平成19年)に惜しまれつつもこの世を去った

2016年(平成28年)に発売された吟醸酒「極上吉乃川 鷲頭」。鷲頭がこの「越淡麗」を手にしたらどんな酒を造っただろうかと今の杜氏、蔵人たちが想いを馳せながら「越淡麗」を100%使用して造り上げた酒である。名杜氏鷲頭の想いと技術がしっかりと受け継がれている証と言えるだろう。

鷲頭という吉乃川における昭和の象徴の灯が消えたと時を同じくして、今度は新たな平成の象徴が誕生した。それは「眞浩蔵(しんこうぐら)」の竣工である。竣工から遡ること3年、2004年(平成16年)10月。記憶に新しい新潟県中越地震。それまでの古い仕込み蔵が大きな被害を受けた。辺り一面道具が散乱し、タンクも固定ボルトが外れて床を滑った。倉庫の1つは屋根が落ち、蔵は軋んで傾いた。しかし前を向かなければならない。長い歴史の中で代々の杜氏の経験と勘を育んだ蔵の取り壊しを決定し、即時新しい蔵の着工に取り掛かり、次の新しい蔵でも今まで以上の造りをと誓ったのだった。

そして地震から3年後の2007年(平成19年)、ついに新しい「眞浩蔵」が完成した。「眞」は「永遠、不変」を表し、「浩」は「つきることなく水がこんこんと湧く」という意味。清水寺貫主で、毎年「今年の漢字」を大書する森清範(もりせいはん)貫主によって命名された「眞浩蔵」。敷地内の井戸で汲み上げられている仕込み水は、長岡市を見下ろす東山連峰の雪解け水と信濃川からの伏流水が地下で混ざり合った「天下甘露泉」。このミネラルバランスのよい軟水で仕込まれた酒は、口当たり柔らかで淡麗な味になるという。

こうして大地震から見事に立ち上がって、未来への飛躍を決意した「眞浩蔵」はまさに平成における「振興」の象徴となった。

吉乃川=川上、川上=吉乃川 を一旦断ち切る


吉乃川農産は酒米「五百万石」と「越淡麗」を中心に栽培している。

2016年(平成28年)、川上家19代当主の川上浩司前社長の急逝に伴い、社長に就任したのが峰政社長。川上家以外からの社長就任は、実に470年の歴史をもって初めてのことだった。

峰政社長は東京で育ち、大学卒業後は食品のマーケィングがしたいと1996年(平成8年)、マーケティング会社に就職。その時に担当したのが吉乃川だという。初めて飲んだ吉乃川の酒が「普通に飲む酒なのにうまい。」と驚き、感動したという。そしてその感動をもっと世に発信するべく2008年(平成20年)に吉乃川に入社したのだった。しかし東京にいたからこそ、そして約10年間ずっと外側から見守ってきたからこそ湧き上がる吉乃川への想いがあった。

峰政社長:「新潟県の人はすごく真面目で勤勉です。雪国で育んだ辛抱強さがあります。言われたことは着実にきっちりできるという反面、辛くても言い出せず、我慢して耐え抜くというマイナス面もあります。だから吉乃川で働く人を守るために『私はお酒が好きで、新潟の働いている人たちも大好きです。しかし、吉乃川という会社の好きになれない部分があるから、そこを直すために来ました。』と前社長に言ったことがあります。

酒造りに関して言うと、蔵人が通勤制になったことで、職人さんは長く勤めてくれています。その分、お酒は良い切れ味になって強さに繋がっていると同時に、逆にその造り方しか知らないという脆さにもなっています。川上家が右向けと言ったら、職人が左かなと思っても右を向くというファミリーカンパニーであるが故の脆さがあるのです。

次の世代に繋ぐということを考えると、組織として厚みを作らなければなりません。規模が大きくなった家族経営は全体の組織として間延びしてきているので、そこの引き締めが必要。僕は川上と川上の途中を一旦継いでいるわけです。前社長ができなかった強さを作って、太く、強くなった吉乃川をまた川上の元に戻す。それが僕の仕事です。」

浩子夫人:「ずっと吉乃川=川上、川上=吉乃川でやってきました。ここで峰政くんが継いだということは、マンネリ化への1つのテコ入れだと思うんです。激動の時代に入ってきて、川上という名があってはできない改革をやってくれるのだろうと期待しています。」

蔵元が家業から企業へ。新しい吉乃川に生まれ変わるために峰政社長自らが土台となる。そのためには、「吉乃川を継いだ自分」と「組織としての吉乃川」を常に冷静な立場で判断できなければならない。

峰政社長:「今、僕の拠点は今まで通りの東京です。外からずっと吉乃川を見てきた僕が、長岡に移り住んで吉乃川に入り込み過ぎてしまうと、僕が一旦継ぐ意味が無くなってしまいますからね。」

常に片足だけを突っ込み、俯瞰的な目で見て、言うべきは言う。だからこそ、川上家と意見が食い違うこともあるという。特に、川上浩子氏の夫で18代目の社長であった川上眞司会長と口論になることもしばしばだという。

川上会長:「峰政くんとは、今でもしょっちゅう喧嘩をします。(笑)しかし、我々と違って視野が広いですよ。またビックリすることに、酒の味や造りに意外とうるさいんです。(笑)」

峰政社長:「会長はお婿さんとして川上家に入ったので、外から来た僕の気持ちを分かってくれると思ったのですが…(笑)。川上家は蔵元であって、オーナー。小さな蔵元さんはオーナー自らが酒を造っていますが、吉乃川は蔵人である職人に製造を任せています元々職人の世界だからと任せっぱなしにしておくと、若い子たちが潰れてしまいます。働き方改革です。

これからの時代に会社の中で酒造りをやっていこうと思うと、経営サイドは任せていた酒造りというブラックボックスに切り込まないといけませんからね。実は社内で能力向上のため唎き酒テストをしているんですが、杜氏や研究室を除くと僕も常に成績上位にランクインされているんですよ。それくらい吉乃川のお酒が好きで、美味しいと思ってやっているので、美味しくなくなるのは凄く嫌です。造っているもの、そのものに関して文句は言いませんが、どういうところを目指しているのかだけはブレてはいけませんから。」

浩子夫人:「いろいろなことがあったけれど、峰政くんが社長を引き受けてくれて有り難いです。」

峰政社長:「僕だからできることをやりたいです。僕が鍛冶屋で、吉乃川という立派な刀を預かって、叩き直し、手入れをして綺麗に磨き上げ、切れ味を鋭くしてお返しする。そんな想いで吉乃川をいい形で繋いでいけたらと思っています。」

「~でなければならない」を排除し、日本酒の美味しさを世界中に


純米大吟醸 極上吉乃川

ここ数年、清酒がブームと言われている。以前の「おじさんの酒」というイメージは払拭されつつあるが、清酒の消費数量は1975年をピークに40年以上にわたって減少し続けている。焼酎やワイン、発泡酒、ウィスキーなどとの競争が激化し、現在は最盛期の1/3程という厳しい現実がある

峰政社長:「日本市場のシェアでいけば、吉乃川のお酒を飲んでくれている割合は0.5%くらい。人数にして200人に1人しかいません。それならば100人に1人にできるのではないか。40%のシェアを持っている斜陽産業だったら立て直しは難しいかもしれませんが、こんなにシェアが少ないなら盛り返す可能性はあります。」

浩子夫人:「日本酒は、いい日本文化を持っています。日本酒の歴史、それぞれの蔵での造り方…、ワイン同様、日本酒についてうんちく話を語る材料はたくさんあるはずです。それを若い人たちに語ってもらいたいですね。」

吉乃川には「瓢亭(ひさごてい)」という酒蔵資料館がある。かつて使用していた酒造用具や酒造風景の写真が展示されている。その瓢亭を発信の場として若者に日本酒の歴史と文化を伝えているのは、吉乃川で監査役を務める藤澤孝氏。

藤澤監査役:「瓢亭には年間で約6500人の方がお見えになります。そこで、うちがいかに美味しく一生懸命酒造りをしているかを伝えると、若い子たちが『楽しかった。』と言ってお帰りになります。業界全体において、そういう情報発信がさらに必要だと、摂田屋地域に遊びに来てくれたお客様を見て改めて実感しています。」

様々な種類の酒があるなかで、「若い人たちが普段飲む酒」の中に日本酒がランクインするには、まずは味を知ってもらわなければならない。だからこそ日本酒入門の間口を広げ、これまでの常識にとらわれない新しい楽しみ方が必要だと峰政社長は考えている

峰政社長:「日本酒の『~でなければならない』というのを排除しようと思っています。例えば、大吟醸は燗を付けてはいけないなどです。最近では、ロックで飲んだり、酒と酒を混ぜて飲んだり…。前社長の浩司さんはフードペアリングが好きでした。料理に合わせて、最初は軽い飲み口の吟醸酒から。少なくなると濃い目の純米酒を足し、メインの料理に合うように自分でブレンドして楽しんでいました。蔵の中でも味が一定になるように、新酒を混ぜたり、吟醸酒の香りが足りない時は大吟醸を混ぜたりします。だからお酒のブレンドは失礼ではないのです。広告にしても、昔の日本酒の広告はベテラン女優さんを起用していますが、今、上越新幹線の中に出している吉乃川の広告は、20代の若い女性がモデルになっています。そんな日本酒の『当たり前の概念』をぶち壊してこれからの戦略を考えるということをベースにしています。」

この「当たり前の概念」を覆すことは即ち、日本酒の可能性を拡げ、ひいては吉乃川の新たなステージへの呼び水となることだろう。

川上会長:「少子高齢化が進んでいる中で、地域性のあるものをきちんと造っていかないと、これからは成り立たないです。新潟らしい真面目な酒を造るというのをきっちりベースにして、さらに他のことにもチャレンジしていかないといけませんね。うちは酵母会社を持っているわけだから、それをうまく活用したり、海外市場を開拓したり、時代の流れに沿った対応が永続する条件です。」

浩子夫人:「近年の和食ブームは、日本酒を世界に知ってもらう良い機会です。だから、次を継いでくれる孫に私はいつも『英語を覚えたら、日本酒は日本の文化だと英語で語れるようになってね。』と言っているんですよ。日本酒は、世界の人たちにも飲んでもらえるアルコールだと思います。」

藤澤監査役:「浩子奥様のお父様にあたる17代目が酒屋さん周りをしていた時に、『吉乃川の酒は甘い酒か、それとも辛い酒か?』と聞かれうちの酒はうまい酒です。』と言ったそうです。そんなうまい酒をずっと造り続けてほしいです。」

峰政社長:「今ブームで、海外の人が好むように味を改良した日本酒を造っているところもありますが、それはしたくないです。長岡の人が飲む酒をそのまま海外に持っていきたい。ちょっと時間がかかるかもしれませんが、そこはブレずにやっていこうと思っています。」

海外での市場展開を見据えながらも、「吉乃川らしさ」を忘れず日本酒業界をも牽引する吉乃川。食卓の名脇役でありながら、時折、酒としての存在感も垣間見せる吉乃川の酒は、何気ない1日に至福という彩を与えてくれる。川上家、蔵人、そして峰政社長の想いはただ1つ、「飲み飽きしないうまい酒」を造り続けること。この変わらぬ想いが、峰政社長が吹かせる新しい風に乗って次代の川上家当主に届く日が楽しみである。

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