匠 向じま梅鉢屋 江戸砂糖漬

「食」は人が生きていくために欠かせないものである。
現代では基本的に1日3食が当たり前になっているが、この3食が定着したのは江戸時代中期のこと。経済が発達し、様々な産業の生産性が高まり、流通が盛んになったからで、それまでは1日2食(朝・夕)が普通だった。1日3食になったことで食事の時間帯が変わり、生活スタイルが変化した。手に入る食材が少しずつ増え、「食」の楽しみ方も大幅に広がった。
現在は、ハウス栽培や物流の高速化によって多くの野菜が1年を通して店頭に並んでいるが、その昔、その時季にしか採れない貴重な食材をいかに長持ちさせるか、人は飢えから逃れるようにその保存方法を追求してきた。冷蔵庫がない江戸時代では冬場に氷を蓄えたり、食べ物は干物、塩漬、酢漬、発酵、煮物などにして保存したりと、知恵と経験を活かし「旬」と向き合った。
本来の収穫時期に採れる旬の野菜は生命力にあふれている。美しく、美味しく、そして栄養価も高いため、私たちの目や舌を魅了し、幸福感をもたらしてくれる。そんな旬の野菜を、江戸時代から変わらぬ製法で砂糖漬にして仕立てた野菜菓子「江戸砂糖漬」を今に伝えるお店が東京の向島にある。その名は梅鉢屋。
江戸の中心地であった神田、日本橋、浅草などから少し離れ、墨田川を挟んだ対岸に位置する向島は、江戸時代から花街として栄え、小粋な料亭が点在し、風雅の道に携わる多くの文人墨客が集ったことから江戸文化発祥の地とも言われている。そんな向島の文化と共に「江戸砂糖漬」を提供する梅鉢屋は、春のフキ、夏のミョウガ、秋のサツマイモ、冬の大根など季節により13~15種類程の野菜の砂糖漬を取り揃えている。時間をかけて野菜本来の色や形を崩すことなく美しく仕上げるのはまさに匠の技である。
「滋養」の薬としても
重宝された砂糖漬、
現在は絶滅に瀕している?!
「うちが徳川将軍みたいに万世一系だったら分かりやすいのですが、直系で言うと祖父からを創業の始まりとしています。」と語るのは、梅鉢屋3代目店主の丸山壮伊知(そういち)氏。
江戸時代より日本橋人形町で「伊勢一」という砂糖漬を製造する菓子店があった。その「伊勢一」には田中豊作と内田安太郎という腕のいい職人が2人いた。田中豊作と内田安太郎は「伊勢一」にて砂糖漬の製法を伝授され、後にそれぞれ独立し、明治時代の砂糖漬の製造販売を二分した。その範囲は東都一円に及んでいた。
内田安太郎は神田にて「内田商店」を構えた。そして1901年(明治36年)に「内田商店」に奉公に上がり、砂糖漬の技術を学んだのが内田安太郎の従兄弟にあたる丸山林之助。梅鉢屋の初代で、現店主、壮伊知氏の祖父にあたる。丸山林之助は内田安太郎の下で技術習得に磨きをかけ、1915年(大正4年)に独立し、現在の御徒町辺りに店を構え、「丸山商店」の屋号でスタートした。これが梅鉢屋の前身である。「祖父の従兄弟を創業の系列に入れると江戸時代まで遡るのですが、うちは別に創業年数が長ければいいと思っていないので、祖父が独立した1915年(大正4年)が創業元年。ですから、2018年(平成30年)で創業103年ですね。」
その後、1923年(大正12年)に関東大震災で被災し、東へと逃げる途中、亀戸天神にて家族全員の無事を祈願したところ願いが叶ったことから、亀戸天神の紋「梅鉢」に因んで今の屋号「梅鉢屋」を命名することになった。商売のゲンを担いで現在でも毎年欠かさずお参りに行くのだそうだ。
元々の「伊勢一」、「内田商店」と前出の田中豊作はと言うと、それぞれ廃業。故に関東で砂糖漬の製法を伝える会社は梅鉢屋のみとなった。たった1人で作り続けている壮伊知氏は自身の立場を「絶滅危惧種」となぞらえる。
砂糖漬そのものは、江戸の「伊勢一」だけではなく全国にあった。日本では北九州や長崎、山口など南の辺りが砂糖漬発祥の地と推測される。
「江戸時代頃の関東の気候は、柑橘類などの栽培にはあまり適していなかったのに対し、九州や四国の一部、山口辺りでは砂糖漬になる野菜や果物の名産地が多いことから、当時から素材が豊富にあったのでしょう。現在も長崎県は『ザボン漬け』で有名ですよね。それに、砂糖の原料となるサトウキビは沖縄県が言わずと知れた名産地。その沖縄県から島伝いにサトウキビが運ばれたとすると、砂糖漬がやはり九州や山口県の辺りで発祥したというのも頷けますよね。そんな素材と砂糖が揃った南の地域に、中国から砂糖漬の技術がもたらされたのではと私は推測しています。
砂糖には、食品を加工して長期保存させる役割の他に、疲れた身体を癒す『滋養』の働きがあります。薬効という程ではないにしても、当時にしては数少ない栄養価の高い食品ということで、漢方薬のように薬として扱われていたのだと思います。今で言う薬剤師みたいな人たちが、中国から朝鮮半島を経由して様々な技術を日本にもたらすときに、漢方薬だけでなく貴重な砂糖を使った砂糖漬の製法なども一緒に伝えた可能性があるわけです。だから砂糖漬を江戸の菓子と呼ぶのもある意味ではおこがましいのですが…。しかし、それぞれの地域で独自の発展をしたので、他の地域の砂糖漬と江戸独自の『江戸砂糖漬』とでは少し風合いが違います。関西の方は少ししっとり。江戸はドライな感じで、もっとサラっとしている感じですね。」
朝鮮半島を経由して中国から九州に伝わり、それが大坂や伊勢志摩の辺りまで北上し、最終的に江戸に伝わり独自の発展を遂げたとされる砂糖漬。現在、砂糖漬を製造販売する会社は沖縄、九州、山口、大阪などに1~2軒、そして関東唯一の梅鉢屋を合わせても全国で数軒ほどしか残っていない。さらに、江戸独自に発展した「江戸砂糖漬」と区切ると、日本では梅鉢屋のみ。確かに「絶滅危惧種」である。