長寿企業の知恵を、
次の世代・時代へ継承する
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株式会社 ういろう〜小田原で存続する最古の企業

オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~

今回のゲストは、ういろう25代目代表 外郎藤右衛門(ういろう とうえもん)。
創業は1368年。ういろうは外郎家が営む、老舗の薬局・和菓子屋であり 小田原で存続する最古の企業である。
初代は、医薬に長けた渡来人。元朝滅亡時に日本に帰化し、北条早雲の招きで小田原に移住。以来、室町時代から一子相伝で作られている薬とお菓子はどちらも“ういろう”と呼ばれている。
また、2代目市川團十郎が「透頂香」を愛用した縁から歌舞伎十八番「外郎売」が創作される。
その伝統の店構えや伝統文化を伝える博物館は、観光名スポットとして認知され、近年は自家製の和菓子が味わえる甘味喫茶を併設し、街歩きの休息場所になっている。
ものづくりのこだわりを放棄し、販売を拡大する選択はあり得ないとし、地域の健康を守り、小田原と共に歴史を歩み続ける。
今回は、25代目代表 外郎藤右衛門の言葉から次代へ継承すべきういろうの持つ長寿企業の知恵を紐解いていく。

外郎:現在小田原市で薬と御菓子を製造販売している企業なんですけれども。創業は1938年、約650年続く老舗です。
ういろう家が母体となりまして、代々経営をしてきておりまして。ういろう家にまつわる歴史・文化を共有しながら営みを続けてきております。

もともと諸曽が医学に長けていた人間だったということもありまして、ずっと家伝薬を作り続けてきておりまして。
‟透頂香(とうちんこう)”というのが正式な名前なんですけれども、家の名前から“ういろう”薬のういろうと呼ばれて。あと室町時代におもてなしの菓子として作った御菓子、これが家名からいつの間にか‟ういろう“と呼んでいただけるようになりまして、その御菓子のういろうと。その二つを作り続けてきておりますね。

私共のこだわりというかずっとこれまでも丁寧に薬も御菓子も自分たちの目の届く範囲で丁寧にしっかりと作るということを続けてきておりまして、今でも人の手と時間をかけて薬も御菓子も作ることに精進しております。

店構えがですね、ちょうどお城みたいな白壁に瓦屋根で、棟が塗装になってますので。これ実は、小田原城と競い合っているわけじゃなくて、私ども伝統の店構えで、八棟造りと呼んでますけども、まぁ小田原に1500年初頭に来ましたけど、その時に多層棟の屋敷を構えまして、それが一つのこだわりになってですね、建て直す時はそういった八棟造りを建替えるということで今もその店構えを守り続けて来ております。

やっぱり小田原の市内の方、もしくは観光でいらっしゃる皆様に、なぜこういう店構えなんだろう、ういろうの歴史ってどうなんだろう、そういった興味を皆さんたくさんお持ちになっておられたので、活字のパンフレットではなく、もう少しこう見ていただく、体感していただく、そういう場が必要だろうと感じましたので。

明治18年の約130年前の家蔵がありましたので、それを改装して、ういろうの歴史だったり、小田原の歴史をご紹介するような、または、日本人の持っているものづくりの気質が分かるようなそういう資料を展示して、皆さんにこう感じていただく、または知ってもらうそういう博物館を作りました。

やはり日本人っていうのは、手先が器用なんだな、それから物をつくるという観点においては、長く使えるようにしっかりした物をつくってきたんだなと。それから、使う側がやっぱそれを大事にしてきたんだな、というものをやっぱ100年以上経っても、今でも全然使えるような桶ですとか提灯とか、そういったものを見ると、そういったものをすごく感じましたね。

一言で言うと、「いいものを見せてもらった」という風に言っていただけたり、「やっぱ歴史がある小田原なんだね」という風に言っていただける、そう言う言葉をいただけると、ガイドした社員も、そして私もほんとにすごく「あぁ、こういうものを皆さんに公開して良かったな」と思いますね。

ここからは、テーマに沿って、ういろうの持つ長寿企業の知恵に迫る。
最初のテーマは「創業の精神」。
創業者の想いを紐解き、現在に至るまでの経緯・家訓や理念に込められた想いを紐解く。

外郎;ういろう家に伝わる家憲はありますけど、ここではあえてですね、ひとつひとつの家憲を語るのではなくて、概念を申し上げますと、薬と御菓子を商っておりますので、私ども代々、地域の人の健康を薬で守り、そして御菓子で皆様の笑顔を生もう、ということで、それを基本にして商いをしております。
特にですね、家憲を読むとか見せるとか掲示するということはしておりません。歴代の当主が、その家憲を知りながら、それを時代に合わせて、自分たちの営みのですね、上手くこうその時代に合わせて社員に別の形で時には行動で、時には自らの言葉でそれを誘導するという形で進めてきております。

~代表に就任して変えたもの~

社員の数も多くなってきたということもあるんですけども、もう少し風通しを良くした方がいいかなというのもありまして、一つは、社長室をですね、やめてしまいました。まぁ社長が社長室に居て、で、報告を聞くとか指示をするっていうことではなくて、自らがやはり現場に近いところに席を置いて、お客様の声だったり店員の動きだったり、時には取引先のそういった裏口から入って来られる方もお客様としてきちんと対応できているか、そういったものを自分自身がこう見て感じて、また、それを会議を一つ設けました。各セクションの人たちに情報共有させたり、もしくはお互いの情報交換できるようなそういう運営の仕方をして、みんなが同じような情報が共有できたり、言いやすい環境を作るように致しました

まず、先代が他界してから丸3年が経ちまして。昔ですと、やはりその前の代が亡くなると次の代が名を名乗ったりすることもあったんですけども、まぁ三回忌が過ぎるまでは、その名跡を継ぐのは控えようかなと思っていて。
それから更に1年経ってから名を継いだのは、ちょうど私の長男が、その昨年の4月に社会人になりまして、外で今働いておりますけども、そういう一つの私ども外郎家にとっての、一つの時期が昨年であった。それからまた、11月というのも私が好きな月だったので、その時に襲名をすることを決意致しました。

~襲名からの変化~

あの・・・ぶっちゃけた話ですけど、中身はすぐには変わらないんですね。

ただ、やはり歴代当主が名乗って来た名前ですので、幼名となりました武というときはですね、外郎武だという風にこう普通に喋れたんですけど、今は、外郎藤右衛門ですという風にこうすんなり名乗りにくくはなりましたね。

やはりそれだけ、その藤右衛門という名に対して一つの敬意があって、あまりこう自分でさらりと名乗れるというような状態ではないですね。
ですから、もう少し自分が歴代当主に恥じぬように精進をして、しっかりと外郎藤右衛門であると名乗れるようにですね、頑張らなきゃいけないのかなという風に思います。

~日本における襲名制度~

日本の僕は文化だと思いますね。代々ものを受け継ぐということ。それが名前であったり、それから物であったり、精神であったり。受け継ぐっていうのが日本のこう一つの文化だと思いますね。

そしてやはり、資源の乏しい国だったということもあるんでしょうけれども、物を大切にする、また人の命を大切にするというのも、日本人の気質だと思いますので、そういう中で、名前を大切にして代々受け継いでくるということなんだろうと思います。

決断 ~ターニングポイント~

続いてのテーマは、「決断〜ターニングポイント〜」。
会社の発展とともに訪れた過去の苦難。
それらを乗り越えるべく、先代たちが下した決断に迫る。

外郎:そうですね、やはりあの歴史が長い分、いろんなところでそういう存続の危機とかあるんですけども、一番は、戦乱ですかね。ちょっと日本史の話になりますけども、やっぱり応仁の乱ですとか、これは京都に在住してた時代ですけども、そこから我々のその薬を保管していた甕が割れて、それがなんども割れて、非常に不吉な予兆が現れたことから、北条早雲と共に、この今の小田原に移ることにしたりとか。

それから、北条五代もですね、約100年、非常にこう領民の為の国造りをしてきたわけですけども、天正18年、豊臣秀吉による小田原攻めで戦国武将としての北条家は絶えることとなりました。で、北条家に仕えていた家柄でもあったので、まぁ武将としての格付けもあった家柄だったので、非常にこういうときには、小田原を追放されるとか、もしくは徳川家康の江戸の街づくりにですね、薬の商人として移住をさせられる可能性も多分にありまして、そういったところは、存続の大きな危機だったと考えております。

例えば、小田原攻めで北条五代が小田原城を開城した時もですね、地域をその後どう統一するかといった時に、やはり有力商人だったり、そういった者が新しい小田原の街のガバレンスをしなければいけない。その時に私どもがずっと長らくやってきた地域の健康を守る、もしくは文化的なそういったつながりを持ってきたこと、そういった地域との密着性そういったものがあったことによって、その地に残され、また、地元の人たちが惜しむことによって存続することが出来た、そういう風に考えております。

私ども確かに歴史ある商品を扱ってますけども、私はよく従業員にも言うんですけど、「歴史があるから、そういう商売が成り立ってるわけではないよ。」という風に言っておりまして、お客様との信頼があって、何度でもお客様が来ていただける。信頼を損ねるようなことは我々はしてはいけない。そういったときに、その信頼とは何かというと、昔ながらにきちんと手間と時間をかけてものを作っている。それが結果的には品質を維持し、まぁ大量にはつくれないんですけども、その少量でも手に渡るお客様の満足度を維持できて、そして何度でもご来店いただけてるのかなと。やはりお客様の信頼関係が私どもにとってみると、大きな支えになってるんだろうなという風に考えます。

~自身のターニングポイント~

元々は、私自身がですね、生まれたときからこの当主をいずれはという風な話にはなかったので、若い時は普通に銀行に勤めて、10年ぐらい銀行に勤めておりましたので。

それから後を継ぐべく白羽の矢が立ちましてここに来たわけですけども、その時に私も薬剤師の資格が特にあったわけではなかったので、まぁ、一旦誇示もしたりしたんですけど、経営を任せたいということで、会社の次期社長ということで来たわけですけど、やっぱり思ったのは、経営してるだけでは、自分にとって人生にとってプラスにならない。何かこう人生勿体無くするなと思ったので、薬をね、しっかりと勉強しようと思って、薬科大学に行くことにしました。それが45の時ですけども、それが私にとってみると大きな転機ですね。

まず、一様に、明日からまぁ実際には4月からですね、薬科大学に行くことにしたからって言った時に、周りがまず信じないし、えっ?!て感じになりますし、もう6年制ですので、6年間大学に通わなければいけない。
あの理系なので、私にとってみると初めての理系っていうことなので、多くの人が続くのか、まぁ僕自身も続くのかっていう想いで門を叩きましたけれども。

先代が当時でもう93だったかな・・・ですので、もっと先代の側にいるべきじゃないかっていう風に、例えば先代の主治医の先生は、お父さんが生きてる確率は1パーセントもないから、その時は大学を辞めて戻って来なきゃいけなくなるから時間の無駄になるんじゃないかっていう風にこうやめた方がいいっていうアドバイスをいただきました。

ただ、私は、1パーセントでもその可能性があるんだったら、それにかけてみたいと思いましたし、やっぱり逆に長く先代の側に居ることではなくて、立場を同じ薬剤師になって、同じ視点でものを見ることによって、しっかりとこの家と会社の責任を受け止めると思ったので、自分が最後責任を取れる体制をきちんと敷きたかったので、まぁ周囲の反対というか周りが呆れる中、大学に通いました。

だいたい45のおやじがね、大学に行っても周りは18歳ですからね。ほとんど親子の歳の差があるそういったところに行くことになりますし、僕自身もいい人生の経験にはなりましたけども、最初はかなりこう緊張しますよね、友達出来るかなとか(笑)

今でもそう、試験がやっぱ嫌なんですよ。勉強するってことは、1日行くと本当に新しい知識がこう加わってくるので、それは自分が45歳を過ぎても成長してるなっていうのが分かるんです。

でもやっぱり当然定期試験もあるし、最後は国家試験がありますので、その試験というのはやっぱ・・・何歳になっても、結果出さなきゃいけないのでね、僕が一番努力したことはとにかく無遅刻無欠席で大学に通うということと、それはあの若い学生さんよりも知識も薄いし記憶力も弱いですから、そのハンディをカバーする為には、一言も先生のこう話は聞き漏らさないということと、あとは体調管理ですね。体調を崩してやっぱり試験を受けられない、そういうことは絶対にあってはならない。追再試になったら私は大学を辞める決意で大学に通ってましたので、まぁそういう気を張った6年間でした。

ただ結果的には、大変だったけども、若い学生さんとも多くの友達が出来ましたし、それから、自分にとってみるとすごい充実した6年間だったので、今こうして自分が色なことをお話し出来るのも、そういった自分がやるべきことを6年間やったというね、その自信があるからなんではないかと思います。

魂 ~心に刻む言葉と想い~

続いてのテーマは「言魂 心に刻む言葉と想い」。
外郎藤右衛門が家族や先代から受け取った言葉、そこに隠された想いとは?

外郎:
20歳の頃の学生時代ですけども、ゼミの先生から「人間は謙虚でなければいけない。人の為に事を成せ」って事を随分繰り返し言われました。

思春期の頃、その言葉がこのまま受け入れられたかというと決してそうではなかったと思います。ただ、非常にそのゼミの先生が、学長であり偉い方だったので、その方がすごくこう我々学生にフレンドリーに接してくれて、またそういう事を仰ってたのが印象的で、それが自分がこうサラリーマンになったりとか、徐々にこうステップアップしていく中で、その言葉が自然とこうまた頭の中によぎりましてね、あっ、やっぱり謙虚っていうのは非常に大切な言葉なんだなっていう事を感じて今でもそれを思い起こしていますね。

僕は、どちらかというと何か自分で信念を持つと、それを本当にずっとやり続けるというか、ある面ではちょっと職人気質的な、何かのものに集中して何かをずっとやっていたいっていうそういう考え方もあるんですけど、こう使命を帯びたり、そうすると本当にそれを一生懸命やる人間なのかなと。ただ、ある面では、まぁ自分でも言っておりますけど、頑固者ですかね。

一度自分でこれをやると決めたら、こうあるべきだと思うと、それを非常にこう実現させようっていう風な動きになりますね。そういう気質があったから、多分、薬科大学も6年間あの歳できちっと通えたような気はしますね。

全てにおいて責任を持つ。それが特に銀行員時代というのは、サラリーマンの域を脱しませんので、自分がこう会社の経営者になって、やっぱりそこで働く従業員の仕事だけではなくて、当然お客様との永続的な関係であったり、それから働く従業員の家族、そういったものも自分たちが責任を持つという、その想いで、常に自分たちの舵取りをどうするべきか考える。まぁそれはあえて口にすることはないんですけども、色んな事をやっぱり考える。

それは相談する相手はやっぱり自分だけなんです。そういう点では、孤独であったり、最後この責任をどう始末をつけるかっていうようになった時には、もっともっと孤独になるかなと思いますけど。それはやっぱり長としての責任として誰もが思ってる事だと思います。

~もう一つの顔~

まぁ趣味はいくつか持ってはおりますが、カメラが結構好きなので、自分でカメラを持って、特に最近は野鳥を追っかけるのが好きなので、鳥のその自然な姿をね、ファインダー越しに見て、で、こうシャッターを切る時が、一つのこう何も考える事なくそのファインダー越しに野鳥を追っかけられるので、一つの息抜きにはなりますね。 意図的に無心になる時があります。っていうのは、野鳥が、例えば来る場所がわかっていても、来るまで待つんです。その間ずーっとファインダー越しに見てたりする時は、段々こう見てるものの色が抜けてくるんです。不思議なことに。で、そういう時、自分が、あ、今これは何か無の境地に近づいているのかなって思うときがあって、それをこうじーっと見てて、で、ちょっと意識をするとまた色が付いてきて、そういう瞬間があります。

今、喫茶店に、季節感を出す為に、本店の喫茶店にそういう写真を掲示したりとかしてますね。ただ、あんまりその・・・そうだね、撮った写真の中で全ては掲示はできないので、結局自分の、今デジカメなのでね、パソコンの中でこう一人で楽しんでるっていうか、おいてあるだけで、世に出てない写真が結構あります。

貢献 ~地域、業界との絆~

地域や業界との絆。
ういろうが行なっている地域や業界での取り組み、そこに込められた想いとは?

外郎:
老舗の一つの課題として、地域に貢献すべきであるということがありますので、例えばですけど、私どもの駐車場。この駐車場を地元の催事の時にはですね解放して、小田原のお祭り、神輿が練り歩くお祭りの時には神輿の休憩所として提供したり、自治会の夏祭りの時は、全面的にそこで皆さんに屋台とかを出してもらって楽しんでいただいたり。それから私、ういろう太鼓というね、太鼓部を創設しまして、和太鼓なんですけど、せっかく和の会社なので、社員の人たちにも少し和の文化に触れてもらったらいいかなと思って、それから太鼓を打つっていうのも一つのこのエネルギーの発散になるので、そういう目的で創設したんですけども、徐々にみんなが演奏が出来るようになってからは、小田原城での催事だとか、それから地元の何かのパーティーの時に出演を頼まれれば、そこに行ってそれを盛り上げるというね、そういう太鼓部も作ったりして、地域の一つの活性化に繋がればと思ってやっておりますね。

歴史を振り返ってみると、小田原で500年以上存続できてるその大きな要因の一つは、地域に貢献したり、地域と共に営みをしてきたということがありますので、そういう意味でも、小田原の城下町・観光地として賑わいをしていかなければいけない時に、老舗が、まぁ私も観光協会の役員をしておりますけど、そういう観光・行政にも色んな形で協力をさせていただいて、全体を盛り上げて、そうすることによって小田原にお客様が来られて、また、うちのことも知って頂く。

逆にうちに来たお客様が、うちだけではなくて、小田原のそういう観光の色んなことの整備を私たちもさせていただくことによって、より小田原を回遊して頂くそういうことになろうかと思います。そうすることによって、老舗がただ1社遺るのではなくて、地域の発展と共に歴史を重ねる、これが大きなキーワードだと僕は思ってますので。

~小田原と共に歩む「ういろう」の歴史~

小田原は歴史・文化がある街です。北条時代から徳川時代まで約400年間、城郭に守られた非常に大きな都市であったと。

北条時代は、戦国の始まりが北条氏で始まり、また戦国時代の終焉も北条の五代が秀吉に小田原城を開城した時に終わってるとそういう歴史があり。

また、江戸時代は、東海道の重要な宿場、まぁ東海道の最大級と言っていいとおもいますけどそういう宿場でありましたので、非常に賑わい、また箱根越えの方々の多くが宿泊したそういう街であるという。

小田原城の天守閣、まぁ復興天守閣ですけども、天守閣の中が一昨年の5月にリニューアルをいたしまして、非常に中がこう美術館のように非常にわかりやすく見やすい施設になってるんですけども、その中にも、私どもの紹介のコーナーがあったりとか。

歴史がある分、そういうところでの展示をしていただいたりとか、あとは、昔の東海道の絵図とかそういったところには、必ずこだわりのその店構えの絵がですね地図とかそこに出てきますので、そういったところで、ういろうっていうのがここにあったんだなっていうことは見ていただけるかなと思います。

小田原の観光につながる取材であれば、本当に喜んで受けさせて頂きます。うちの店の事をこう紹介していただけるんですけども、それが小田原の観光につながればと思って受けていますし、よくそのインタビューっていうかこういうカメラの回ってるところで話をするんですけど、で、小田原の城下町の良いところとかを話したり、是非皆さん小田原に来てくださいっていう風な事をカメラの前で話しています。ただ残念ながら、だいたいそういうところはカットされる(笑)。

NEXT100 ~時代を超える術~

最後のテーマは「NEXT100 時代を超える術」。
ういろうにとっての変革・核心を、外郎藤右衛門が語る。

外郎:やはり先祖が託した想いをきちっと守り続けるという事ですね。そして、その為に、薬もお菓子も自分たちの目の行き届く範囲でしっかり手間と時間をかけて作るという事だと思います。

やっぱり身内でもそうなんですけど、社員でも、こうでなければならない、という言い方をするとやっぱり息苦しくなると思うんです。ただ、やっぱりその先輩の従業員だったり我々が経営者としてこだわる点は、所々で示すことによって、これは守らなければいけない、こうしなければいけないんだろうなって事を自分たちが受け止めてもらって行動してもらうことが大事なのかなと思いますね。

マニュアルを作るってことは簡単なんですけども、そうすると、そのマニュアルを守ってればいいってそういうことだけになってしまうと、そのマニュアルの通りにするとか、もしくは基準に合わせてやってしまえばいいということになってしまって、本質的なものを見失うことがありますので、やっぱりそこは、ものをしっかり作るというその現場の中でですね、若い人は学び、それを踏襲していってもらいたいと思いますし、私どもはそれを時には行動で示して理解をしてもらうようにやっていきたいと思います。

~ういろうの変革~

変えてもいい部分は何かというのは、その時の主が考えればいいことだと思います。というのは、その例えば100年と言わず、10年・20年でもその時の時代の流れは全く予測はできませんので、その時にきちんとさっきの先祖の想いを遺す為にどうしたらいいか、その時に場合によっては自らの身を切ることもあると思います。失うこともあると思います。

でも、存続する為にはそれはやむを得ないことだと思いますし、過去にもそうして自分たちの身を削って来たことも多々ありますから。ただ、それを今から、これはいいよ、これはダメだよということではなくて、その時の主が判断をしてやることかなと思います。

~後継者への想い~

多分老舗の経営者はみなさんね、後継者をどう育てていくのかということなんだと思います。私の長男も今社会人になりましたけど、僕は・・・身内、近いものがあまりこう育てるっていうことは難しいのかなって思っていて、養うことは出来るんですけど、子どもって養うことは出来るんですけど、本当にその人を育てるのっていうのは、実は周囲の人。周囲にどれだけいい環境があるかかなと僕は思うので、まぁそういうこともあって、外に今働きに出させてますけども。
そういうこう場所を提供してあげるっていうのがまずはありますね。後継者の為にそういう場を提供するチャンスを与える。色んなところで修行をさせる。

それから従業員の人たちが、我々にとってみると家族と同様の大切な仲間なので、彼らの働きやすい環境であったり、もしくはやり甲斐のあるそういう場を作ることによって、社内のその団結力であったり、まぁ会社っていうのは人の集合体でしかないので、それぞれのベクトルが一つの方向に向かうようなそういうこと、それが例えば地域貢献活動であると。そうすることでボランティア活動を含めてすることで、毎日一生懸命ものをつくってるだけでなくて、直接感謝の言葉をいただけるようなその場をね、受けられる場所を作っとく。まぁそういうのもいいのかなと思いますね。

高校から大学に進路を決める時には、最初に言ったのは、「自分で好きな人生を選んでいい」って言いました。薬剤師にならねばならないってことは一言もいませんでした。

さっきの話ですが、「こうでなければいけない」って言った途端にやっぱり人間窮屈になりますし、それが身内の人間から特に親子の中で言えば、時には反発したりとか甘えが起きたりとか、人に言われて、薬学とか大変なやっぱり6年間なので、そういう時に理由をつけさせてしまうことになるんです。自分で選んだ道だったらば、僕は自分で大学に行ってやっぱ感じましたけど、これは大変だな、若い学生さんよくこれやってるなと思いましたね。これを自分の子どもたちにも、うちは薬局なんだから目指さなきゃだめだぞと、行けと言っていかせるのと、自分が選んで行くのでは全然違うなと思ったので。

そういうところを本当に自分でまず選ばせて、で、薬学に行ったので、まぁそこで暗黙の了解と言いますか、あ、こいつはちゃんとうちの次をこう自分で継ぎたいんだなとわかりましたし、我々としてもそれをちゃんと意を汲んでね、親として出来ることは、次の代に渡す時にその代が困らないように、きちっと基本的なベースをね、ちゃんと作っといてあげる、経営を安定させとく。まぁ今でも安定はしてますけどね。それから、変なことに欲に手を出して傾けさしとくんじゃなくて、ちゃんとこの家を継ぎたい、継いでみたいと思わせるようにちゃんと環境を整えてあげとく。

それが場合によっては地域との関係性でもあるんですよね。地域の人が大事に思ってる家であったり会社であれば、それを経営したいと思うだろうし、それが地域からあまり縁がないと、そういう気持ちにならないかもしれないと。

~長寿経営を行う上で大切なもの~

そうですね。私が思うのは、創業者の想いだったり、自分たちがコアとして、創業始めた時一番いいと思いますけど、コアの業務をしっかり守るということを、まず芯をねしっかり持つということが大事なのかなと思いますね。

そこから、まぁ少し派生的にサイドビジネスをするとかそういうことはいいと思いますけども、段々今度、時代の流れに合わせて、サイドビジネスの方が利益が上がるということで、サイドビジネスにこうシフトしていく。まぁそれも勿論、正解であったり大切なことだと思うんですけども、コアを失ってしまうと、継続性という観点で希薄になる可能性はあるので、そうすると分社化しちゃったりとか、全く業種が違うので、次の代を受ける人間が、じゃあ自分のやりたいことを一からやりたいという気持ちになるかもしれない。同族でその経営をされていく、それをずっと長く続けるということがもしも根底にあるんであれば、そういうコアをどうもっていくか。

それから、私どもが今こう非常に有難いのが、文化的な繋がりが、例えば京都の祇園祭であったり、歌舞伎の世界であったり、そういう文化的な繋がりがありまして、それはやはり長く続いているものなので、そういうとこと一緒に合わせてね、自分たちも歴史を重ねていこうという、そういう一つの道しるべだったり、一緒にこう同走するね、そういう繋がりのあるもの、こういうのをもしも持てるとすごく継続には繋がるんじゃないかなと思います。

ういろう25代目外郎藤右衛門が次代へ届ける長寿企業の知恵。
先祖が託した想いをしっかりと受け取り、薬もお菓子も時間と手間を掛け作る。
地域や文化の繋がりとともに、歴史を歩み、想いを伝え続けていく。
この想いは100年先の後継者に受け継がれていく。

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