鳥料理 玉ひで 「軍鶏鍋」や「親子丼」など軍鶏料理の老舗

鳥料理 玉ひで
オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~
今回のゲストは、鳥料理 玉ひで 8代目代表 山田耕之亮。1760年(宝暦10年)創業。
白いお城のような外観と、伝統的で長い歴史を感じる内観が特徴的な玉ひでの軍鶏(シャモ)鍋は、醤油と味醂の割下でいただく軍鶏のすき焼きである。
徳川将軍家に仕えていた初代が、大飢饉が訪れた中で、醤油と味醂を入手し、砂糖を使わずに醤油と味醂の割下で作る軍鶏のすき焼きを江戸時代から綿々と作り続け、現代に至っている。
そして、この軍鶏すき焼きをベースに誕生したのが、「玉ひでの元祖親子丼」。
今では、全国に名をとどろかせる「玉ひで」の看板商品となっている。
今回は、8代目山田耕之亮の言葉から歴史と伝統の裏に隠された物語、玉ひでの持つ長寿企業の智慧に迫る!
石田:今回のゲストは、玉ひで 代表取締役社長山田耕之亮(やまだ こうのすけ)さんです。よろしくお願い致します。
山田:よろしくお願い致します。
朝岡:もうね、玉ひでさんと言うとね、テレビなんかで紹介されてる行列のお店として有名ですけど、あの勿論親子丼がやっぱすごく有名なんですけども、お店としては鳥料理のお店ということなんですね?
山田:そうですね。そもそもがですね、軍鶏鍋と言って鳥のすき焼き屋なんですね。で、それが、江戸時代から続いております。
朝岡:はぁー!そうですか。
石田:ふーん、えー!素晴らしい!江戸時代と仰いましたけれども、創業、今何年でいらっしゃるんですか?
山田:今年で257年になります。
石田:257年ですよ!えー!
朝岡:257年ってすごいな!そりゃね、鬼平犯科帳のね、あのほら、鉄の軍鶏鍋ったら、玉ひでさんがモデルだっていうふうに伺いましたけども?
山田:ええ、池波先生に確かめたわけではないので、はっきりとは言えないんですが、おそらくうちが…はい。モデルだと言われております。
朝岡:今、山田さんが何代目に?
山田:私、8代目です。
朝岡:8代目ですよ! このお店のその強みって言いますか、素材へのこだわりって特別なものがあると思いますけども、
山田:もともとうちは、軍鶏鍋屋でございまして、で、その軍鶏鍋屋って簡単に言えば、最高級の鶏肉のことなんですね。それを鍋という表現ですけど、今では、鶏のすき焼きというふうに言ってるんですが、その鶏のすき焼きの最高級バージョンである軍鶏肉をいかに手に入れるかというので、非常に苦労した経緯あります。
朝岡:軍鶏肉って、あの軍鶏ってのはもともとね、あの…こう…闘わせて、軍鶏って言いますけどね、そのお肉だから、ものすごく筋肉質っていうか歯ごたえもあって、旨みもあるっていうことですけど、なかなかその軍鶏のお肉って言ってもね!
石田:はい!やっぱり手に入れるのが難しいんですか?
山田:そうですね、戦前までは、闘鶏がかなり色んなところで行われていたので、さほど手に入れるのが難しかったわけではないんです。ただ、戦後、闘鶏が禁止された後はですね、その軍鶏っていう鳥がほとんど激減しまして。それと、やはりアメリカから「ブロイラー」という鶏肉が入って参りまして、そのブロイラーが養鶏が盛んになってですね、日本古来のそういう所謂地鶏みたいな鳥を生産する農家が激減しまして、それで軍鶏の入手が非常に困難になった時期が一時期ありました。
朝岡:あぁ、そうですか。
石田:その時、どのようにしてじゃあ仕入れてらっしゃったんでしょうか?
山田:戦後ですね、おそらく昭和…40年くらいまでは、何とか手に入ってたんです。ただ、昭和40年以降はですね、本当にブロイラーの大量生産の方式が入ってきまして、で、所謂手のかかる鳥は大変だから、農家さんが育てるのはやめようということになってですね、それで、昭和50年代くらいに、昔から日本で食べるのに美味しいと言われてる鶏をもう一回見直そうじゃないかと。高品質開発事業と言いますか、農林水産省と東京都とそれで玉ひでが三尾一体になりまして、それで、「昔ながらの軍鶏をもう一回作り直そう」ということで、「東京軍鶏」という鶏をですね、作ったんですね。
朝岡:これは、今あれですか?鶏肉の店、お料理のねお店だと、解体してね、各こう腿だとか色々分けたものをお店に持って来て、で、調理なさるのが殆どだと思います。
山田:そうですね。
朝岡:玉ひでさんの場合は?
山田:うちの場合はですね、「丸ト体(マルトタイ)」と言いまして、ほとんど今日本の中ではないと思うんですが、鶏から毛を取った状態だけで、うちの方に運んでもらってます。
石田:丸々一羽ということですか?
山田:えぇ。美濃部さんが東京都知事をやられてた頃に、東京23区内で鶏の毛をむしってはいけないという法律ができまして、鶏の毛をむしることは出来ないんです。ですから、鶏の毛をむしった丸ト体のまんま、うちの店には持ってきていただいて、それでうちの店で全部さばいてるということになります。
朝岡:はぁー、そうですか。そうすればそのね、素材の全てをこう知り尽くして、
山田:そうですね。
朝岡:さばいて、提供する。お料理にする。
山田:はい。
朝岡:かぁー、珍しいですねでもねー!なるほど。
石田:では、その玉ひでさんのご商品を改めて紹介頂けますでしょうか?
山田:はい。まぁうちは、もうもともと軍鶏鍋。鶏のすき焼きですね。の専門店ですので、当然、鶏のすき焼きがメイン料理になります。それと、あとですね、その鶏のすき焼きから派生したお料理が、皆さんがよくご存じの親子丼になるんですね。で、これはですね、たまたま明治の24年の頃だと思うんですが、5代目の“とく”という女将がですね、お客様がですね、鶏のすき焼きをお召し上がりになられた後に、そのすき焼きですから、卵をつけてお召し上がりになりますね。で、その残った卵をすき焼きの残りの汁の中に入れて、固めて、ご飯と一緒に食べると。
で、これはですね、まぁ明治の24年というのはそれを商品化した年なので、そのお客様自体が、その卵とじをご飯に乗せてまぁシメで食べてらっしゃったのがいつ頃っていうのはちょっとわからないんです。
ただ、それを商品として売り出したのが親子丼というものであって、それは明治24年頃だと思います。
朝岡:じゃあ、もっとずっと前からお客様はそうやって
山田:そうでしょうね。おそらく、そういう食べ方はあったんだろうと思います。
朝岡:あぁ、そうなんだ。
山田:えぇ。ただ、これが、ですから、最初は「玉丼」ですよね。お肉の入っていない。だけど、お肉の入ってないものだと、商売として売れませんから。で、お肉の入れたもので一品料理としてお客様に提供すると。ただし、その明治の24年の頃なんですけども、まだその玉ひでは江戸時代から創業して、しかも日本橋という東京の真ん中でしたから、その「汁かけ飯のようなみっともないものは店では出せない」ということで、明治の24年頃に作ったものですが、実は90年間ずっと出前だけという。
朝岡:あっ、出前だけだったの?!あぁ、そうですか!
山田::90年間出前だけなんですよ。
石田:へぇー
朝岡:あらー、そうだったんだ…
山田:で、5代目の女将のとくがですね、まぁ亡くなる時に…ではなかったかもしれませんけど6代目に、「これを店で出してはいけない」と。半ば遺言のようなものなんでしょうけども。で、まぁ6代目は私の祖父になりますが、祖父はそれを守りまして、自分が生きている間は出さないと。自分が亡くなったらそれは勝手にしていいよと。いうことで、7代目は、6代目の三回忌の命日を待って出したんです。
朝岡:あっ、そういう歴史があるんですか。
山田:はい。ちょうど91年目なんですね。
朝岡:あらー、わかんない。また、聞いてみないとわかんないですね。
石田:ねー!
朝岡:だって、玉ひでの親子丼ったら、もうその昔からその親子丼が有名でね、それでもうその為に一生懸命一生懸命長い歴史があったと思いきや、実は、本当は、お客さんが鶏の肉を全部食べちゃった後に、シメでご飯を食べていたものをお店で出し始めて、出前だけでやってて!
山田:そうなんです!
石田:へぇー!
朝岡:
知らなかったなぁー!
石田:ねぇー!
朝岡:老舗にね、知らないStory有りですね。
石田:ですね!
ナレーション
ここからは、各テーマを元に、玉ひで 8代目代表 山田耕之亮の言葉から
歴史と伝統の裏に隠された「物語」、玉ひでが持つ「長寿の知恵」に迫る。最初のテーマは、「創業の精神」
創業者の想いを紐解き、現在に至るまでの経緯を8代目 山田耕之亮が語る・・・。
山田:うちの店はですね、代々まぁその当主…任された人間がですね、好きにやっていいという風潮がかなり強いんですね。で、おそらくですね、初代から3代目までは、徳川家に仕えている「鷹匠」をしておりましたので、
朝岡:ほぉー!
山田:徳川家に仕えている鷹匠のことだけ、“御”が付いて「御鷹匠(おたかじょう)」と呼ぶんです。鷹匠じゃないんです。御鷹匠って言うんです。
石田::御鷹匠…
山田:それをしておりました。で、どんなことをしてたかといいますと、鷹狩りに行くわけではなくてですね、鷹狩りで将軍様が捕ったであろう獲物を鶴に見立てて、その鶴を切る儀式を授かっていたんです。
朝岡:ほぉー!
山田:それで、で、あのまぁ…これは推測の域は出ないんですけども、「徳川さんの御前で刃物を抜ける唯一の存在」といってもいいような人間だったんであろうと思います。ですから、その頃はですね、色んな諸大名の方のところに出張料理に行っているような、そういうお店だったと思います。まぁ店舗は店舗で構えておりまして、ただ仕事の大半は出張料理。で、生きてる軍鶏を持って行って、御前で捌いてお出しすると毒味もいらないので、大変重宝がられたんではないかと思われます。
朝岡:はぁはぁ!
山田:で、3代目の途中くらいからですね、その出張料理の方が減ってきまして、店舗にお客様をお招きして、まぁ所謂軍鶏鍋屋。鶏のすき焼の最高級店をやっていたようです。明治になって、しばらく経ってからですね、ちらし弁当をやるようになりまして、
朝岡:ほぉー!
山田:まぁ、もともと出張料理のお店ですから、そういう鶏のお料理を出したりとか、で、今度、戦後はですね、まぁ第二次世界大戦の後ですね、もう完全にお弁当屋になっておりました。で、店舗がですね、すぐに構えられなかったんですね。それで、鶏のその…所謂商肉と言っていたんですけど、まぁ鶏のお肉を売ってる商売と、それとちらし弁当をしておりまして、当然すき焼屋はずーっとやってるんです。ただその他にそういうことをやってますね。それで、親子丼を店で売るようになったのが昭和54年なんですけど、昭和54年にそのちらし弁当を全てやめて、店舗で親子丼を出すようになったと。
石田:ふーん!
山田:ですから、明治の24年に親子丼を開発したんですが、店で出したのが昭和54年です。
朝岡:はぁー!そういう!
石田:はぁー!すごいずーっとね!
山田:それで、親子丼と鶏のすき焼屋になりまして。
石田:それで、親子丼と鶏のすき焼屋になりまして。
山田:一応ですね、神棚の上に、家憲というのがかけてあってですね、十箇条あるんですけど、色んなことが書いてあるんですけどね、要は「ずっと玉ひでやっていきましょう」と。簡単に言えばそんなところなんです。
朝岡:ほうほうほう。
山田:それで、その家憲をね、どういう風に解釈するかってのもあるんですけどね、一つ例に取るとですね、「我が家は累代の家業により家を起こしこれり、ゆえに決して他の事業に心をてんぜんざること。」っていうのがあるんですね。で、これは、私の祖父・父・僕とですね3人、三者三様の考え方がありましてね、おじいちゃんは、「支店を出しちゃいけない」って言ってたんです。で、7代目はですね、そうじゃなくて「他の事業をメインにしてはいけない」って意味だと。で、私はですね、「玉ひでさえやっていれば他何しても良いよ」っていう。
一同:笑
石田:全然違いますよね(笑)
朝岡:ほんと三者三様ですよね(笑)
山田:はい。で、まぁそういう風にですね、うちの家憲はですね、どういう風に解釈しようが、その代の自由かなっていうような書き方をしているんです。
朝岡:その家憲っていうのは、いつ頃できたものなんですか?
山田:えーっとですね、5代目の時じゃないかなと思うんですけども、あのですね、5代目は支店なんですね、4代目までの。うちはですね、初代から4代目までは“玉鐡(たまてつ”という屋号だったんですね。
朝岡:ほうほうほう。
山田:で、5代目から“玉ひで”という屋号になるんですけど、4代目が5代目に支店を出すんですけど、その支店がですね、もともとは“玉ひで”ではなくて、“玉鐡秀吉店”という。
朝岡:ほぉー!玉鑯の秀吉店。
山田:どうやらですね、本人が「玉鐡の秀さん」って呼ばれてて、それで、玉鐡の秀さん長いから、まぁ玉秀さんになっちゃって、それで、そのあと、屋号自体も「玉秀」になったと。
朝岡:玉秀になった。あぁそっかー
山田:はい。で、6代目はですね、漢字が嫌だとひらがなに変えてるんです。卵の玉にひらがなでひでで玉ひで。で、7代目はですね、ロゴマークを全て変えてですね、代々ここんところ看板が違うんですよ。
一同:笑
山田:4代目・5代目・6代目・7代目と看板が違うんですよ、うち。で、僕もですね、変えたいなって思ってるんですけど、ちょっといつにしようかなと思ってまして、で、そんな遠からず変えようと思っています。
朝岡:この辺がね、一代毎にね、まぁその鶏のすき焼という本線は同じなんだけども、やっぱり色々な考え方があって、それをまた実際にね、やってきて、こう歴史が重なってるっていうところがとてもユニークな気がしますね、玉ひでさんのね。
山田:おそらくですね、代々直系男子で繋がってるってこともあるかもしれない。だから、いいんですよ、親は親で。自分は自分で。
朝岡:それが出来るのもね、直系がずっと続いていらっしゃるから。
石田:だからこそなんですね。 そして、玉ひでさんというと、白壁で城壁のような外観だったり、あとそういった長い歴史ということもあって、海外のお客様も多いんじゃないですかね?
山田:海外のね、旅行代理店の方に聞いた話なんですけどね、上海ですとか、それから台北、それからソウル、北京、まぁその辺の旅行代理店の方がね、日本に行ったら、ここで食事をしてくれっていうお店の、何年かわかりませんけど、連続でうちがトップに入ってるという風に教えて頂きましてね。で、僕もちょっと意外だったんですね。
日本に来たら、寿司だとか天ぷら、あと日本蕎麦とかね、そういうものがあるんじゃないかと思ったらですね、その寿司も天ぷらも日本蕎麦も日本中に至るお店があると。で、日本に行くのに慣れているお客様は、そういうところを紹介すると、「あそこは高かったよな」とか「あそこの雰囲気は俺には合わない」とかいうことを言われるそうなんです。それで、ただ、玉ひでさんを紹介するとそういう方は「あぁ、これ、日本の文化だったんだね」って言ってくれると。
それで、初めて、外国の方に聞いて初めて分かったんですけど、「玉ひでさんはオンリーワンだから」って言われたんですね。他に親子丼の老舗なんてないから。で、日本の食文化の中に、その寿司・天ぷら・蕎麦の他にも丼があるじゃないかと。で、玉ひでさんはその中のしかもオンリーワンなんで、玉ひでさんを紹介して苦情を頂いたことがないという風に旅行代理店の方に聞きました。で、その時たまたま、その何でしょうね、中国と韓国のその旅行代理店の総会みたいなんをうちでやったんです。その時に聞いたんです。
朝岡:そうですかー。でもそうやって、玉ひでさんはオンリーワンだからって言われるとやっぱり嬉しいとお思いになるでしょうし、でも逆に、オンリーワンだからなかなかその他と比べてこうした方がいいなとかそういう考えってできませんよね?
山田:そうなんですよね。私もですね、オンリーワンと言われたのは、せいぜい5年くらい前なんですけども、それまでそういう意識が実はなかったんですね。日本中に親子丼なんていくらでもあるという風に思ってましたから、その時改めて思い直したことなんですけども、親子丼は90年間出前だけでしたよね。
で、実はですね、親子丼の普及っいうのは、玉ひでの親子丼が日本中に普及したんではないんです。関西の方で、鶏肉の入ってる卵とじをご飯の上に乗せたものが親子丼として世の中に広まるんです。まぁ椎茸だとか玉葱だとか筍、その他に色んなものが入った、それをですね、大きな鍋でとじて、で、白いご飯の上にお玉ですくって、で、それを食べると。で、それがですね、簡単に出来て、栄養価が高いというので戦後ものすごく日本中に普及したんです。
で、玉ひでが昭和54年に店で親子丼を解禁して、お出しする一生懸命ようになった後に、玉ひでのテレビの取材が非常にありまして、で、1こ1こ作るんですね、うちは。で、玉葱も椎茸もそういう余計なものは入れない。その鶏肉と卵だけの親子丼。それを1個ずつ作る親子丼をテレビでやってですね、毎日数時間の行列が出来るようになりまして。
で、それをこうテレビ見た家庭の方もそれからお店の方も、皆さんが玉ひでの親子丼を作るようになってしまったんですね。それまでは、日本は家族が大家族でしたから、大きなお鍋で10人分とか15人分とか作って、それを分けた方が楽だったんですね。で、どうも昭和50年代後半から核家族が進んできて、その家庭でも1個ずつ作ったほうが無駄がなくて良いんじゃないかっていうことで、今ネットをご覧頂ければ分かると思うんですけど、親子丼の作り方、全部1個ずつです。で、全部味付けも玉ひでの味付けになっちゃったんです。
ですから、オリジナルがスタンダードになるのに100年かかったんです。で、僕はオリジナルが100年かかってスタンダードになってたのはわかってたんです。
ただ、外国の方から見てそれがオンリーワンだということに気づいてなかったんです。今気づいてみたら、親子丼っていう食べ物は、玉ひでの親子丼なんです。だから、玉ひでの親子丼を基本にした親子丼、今日本中の親子丼なので、まぁ僕のちょっと昔から知ってるお店があるんですけども、そこも親子丼というものを出してるんですが、そこのお店は、卵と鶏肉は別々です。それでも親子丼だったんです昔は。だけど、玉ひでの親子丼があまりにも広まったおかげで、今は玉ひでの親子丼が親子丼で、そういう親子丼は、変わり種親子丼とか言われるようになってしまって。だから、そうなってくるとオンリーワンだったのかなっていう。そんな流れでそういう風になってしまったのかという風に思います。