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鳥料理 玉ひで 「軍鶏鍋」や「親子丼」など軍鶏料理の老舗

オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~

今回のゲストは、鳥料理 玉ひで 8代目代表 山田耕之亮。1760年(宝暦10年)創業
白いお城のような外観と、伝統的で長い歴史を感じる内観が特徴的な玉ひでの軍鶏(シャモ)鍋は、醤油と味醂の割下でいただく軍鶏のすき焼きである。
徳川将軍家に仕えていた初代が、大飢饉が訪れた中で、醤油と味醂を入手し、砂糖を使わずに醤油と味醂の割下で作る軍鶏のすき焼きを江戸時代から綿々と作り続け、現代に至っている。
そして、この軍鶏すき焼きをベースに誕生したのが、「玉ひでの元祖親子丼」
今では、全国に名をとどろかせる「玉ひで」の看板商品となっている。
今回は、8代目山田耕之亮の言葉から歴史と伝統の裏に隠された物語、玉ひでの持つ長寿企業の智慧に迫る!

石田:今回のゲストは、玉ひで 代表取締役社長山田耕之亮(やまだ こうのすけ)さんです。よろしくお願い致します。

山田:よろしくお願い致します。

朝岡:もうね、玉ひでさんと言うとね、テレビなんかで紹介されてる行列のお店として有名ですけど、あの勿論親子丼がやっぱすごく有名なんですけども、お店としては鳥料理のお店ということなんですね?

山田:そうですね。そもそもがですね、軍鶏鍋と言って鳥のすき焼き屋なんですね。で、それが、江戸時代から続いております。

朝岡:はぁー!そうですか。

石田:ふーん、えー!素晴らしい!江戸時代と仰いましたけれども、創業、今何年でいらっしゃるんですか?

山田:今年で257年になります。

石田:257年ですよ!えー!

朝岡:257年ってすごいな!そりゃね、鬼平犯科帳のね、あのほら、鉄の軍鶏鍋ったら、玉ひでさんがモデルだっていうふうに伺いましたけども?

山田:ええ、池波先生に確かめたわけではないので、はっきりとは言えないんですが、おそらくうちが…はい。モデルだと言われております。

朝岡:今、山田さんが何代目に?

山田:私、8代目です。

朝岡:8代目ですよ! このお店のその強みって言いますか、素材へのこだわりって特別なものがあると思いますけども、

山田:もともとうちは、軍鶏鍋屋でございまして、で、その軍鶏鍋屋って簡単に言えば、最高級の鶏肉のことなんですね。それを鍋という表現ですけど、今では、鶏のすき焼きというふうに言ってるんですが、その鶏のすき焼きの最高級バージョンである軍鶏肉をいかに手に入れるかというので、非常に苦労した経緯あります。

朝岡:軍鶏肉って、あの軍鶏ってのはもともとね、あの…こう…闘わせて、軍鶏って言いますけどね、そのお肉だから、ものすごく筋肉質っていうか歯ごたえもあって、旨みもあるっていうことですけど、なかなかその軍鶏のお肉って言ってもね!

石田:はい!やっぱり手に入れるのが難しいんですか?

山田:そうですね、戦前までは、闘鶏がかなり色んなところで行われていたので、さほど手に入れるのが難しかったわけではないんです。ただ、戦後、闘鶏が禁止された後はですね、その軍鶏っていう鳥がほとんど激減しまして。それと、やはりアメリカから「ブロイラー」という鶏肉が入って参りまして、そのブロイラーが養鶏が盛んになってですね、日本古来のそういう所謂地鶏みたいな鳥を生産する農家が激減しまして、それで軍鶏の入手が非常に困難になった時期が一時期ありました。

朝岡:あぁ、そうですか。

石田:その時、どのようにしてじゃあ仕入れてらっしゃったんでしょうか?

山田:戦後ですね、おそらく昭和…40年くらいまでは、何とか手に入ってたんです。ただ、昭和40年以降はですね、本当にブロイラーの大量生産の方式が入ってきまして、で、所謂手のかかる鳥は大変だから、農家さんが育てるのはやめようということになってですね、それで、昭和50年代くらいに、昔から日本で食べるのに美味しいと言われてる鶏をもう一回見直そうじゃないかと。高品質開発事業と言いますか、農林水産省と東京都とそれで玉ひでが三尾一体になりまして、それで、「昔ながらの軍鶏をもう一回作り直そう」ということで、「東京軍鶏」という鶏をですね、作ったんですね。

朝岡:これは、今あれですか?鶏肉の店、お料理のねお店だと、解体してね、各こう腿だとか色々分けたものをお店に持って来て、で、調理なさるのが殆どだと思います。

山田:そうですね。

朝岡:玉ひでさんの場合は?

山田:うちの場合はですね、「丸ト体(マルトタイ)」と言いまして、ほとんど今日本の中ではないと思うんですが、鶏から毛を取った状態だけで、うちの方に運んでもらってます。

石田:丸々一羽ということですか?

山田:えぇ。美濃部さんが東京都知事をやられてた頃に、東京23区内で鶏の毛をむしってはいけないという法律ができまして、鶏の毛をむしることは出来ないんです。ですから、鶏の毛をむしった丸ト体のまんま、うちの店には持ってきていただいて、それでうちの店で全部さばいてるということになります。

朝岡:はぁー、そうですか。そうすればそのね、素材の全てをこう知り尽くして、

山田:そうですね。

朝岡:さばいて、提供する。お料理にする。

山田:はい。

朝岡:かぁー、珍しいですねでもねー!なるほど。

石田:では、その玉ひでさんのご商品を改めて紹介頂けますでしょうか?

山田:はい。まぁうちは、もうもともと軍鶏鍋。鶏のすき焼きですね。の専門店ですので、当然、鶏のすき焼きがメイン料理になります。それと、あとですね、その鶏のすき焼きから派生したお料理が、皆さんがよくご存じの親子丼になるんですね。で、これはですね、たまたま明治の24年の頃だと思うんですが、5代目の“とく”という女将がですね、お客様がですね、鶏のすき焼きをお召し上がりになられた後に、そのすき焼きですから、卵をつけてお召し上がりになりますね。で、その残った卵をすき焼きの残りの汁の中に入れて、固めて、ご飯と一緒に食べると。

で、これはですね、まぁ明治の24年というのはそれを商品化した年なので、そのお客様自体が、その卵とじをご飯に乗せてまぁシメで食べてらっしゃったのがいつ頃っていうのはちょっとわからないんです。
ただ、それを商品として売り出したのが親子丼というものであって、それは明治24年頃だと思います。

朝岡:じゃあ、もっとずっと前からお客様はそうやって

山田:そうでしょうね。おそらく、そういう食べ方はあったんだろうと思います。

朝岡:あぁ、そうなんだ。

山田:えぇ。ただ、これが、ですから、最初は「玉丼」ですよね。お肉の入っていない。だけど、お肉の入ってないものだと、商売として売れませんから。で、お肉の入れたもので一品料理としてお客様に提供すると。ただし、その明治の24年の頃なんですけども、まだその玉ひでは江戸時代から創業して、しかも日本橋という東京の真ん中でしたから、その「汁かけ飯のようなみっともないものは店では出せない」ということで、明治の24年頃に作ったものですが、実は90年間ずっと出前だけという。

朝岡:あっ、出前だけだったの?!あぁ、そうですか!

山田::90年間出前だけなんですよ。

石田:へぇー

朝岡:あらー、そうだったんだ…

山田:で、5代目の女将のとくがですね、まぁ亡くなる時に…ではなかったかもしれませんけど6代目に、「これを店で出してはいけない」と。半ば遺言のようなものなんでしょうけども。で、まぁ6代目は私の祖父になりますが、祖父はそれを守りまして、自分が生きている間は出さないと。自分が亡くなったらそれは勝手にしていいよと。いうことで、7代目は、6代目の三回忌の命日を待って出したんです。

朝岡:あっ、そういう歴史があるんですか。

山田:はい。ちょうど91年目なんですね。

朝岡:あらー、わかんない。また、聞いてみないとわかんないですね。

石田:ねー!

朝岡:だって、玉ひでの親子丼ったら、もうその昔からその親子丼が有名でね、それでもうその為に一生懸命一生懸命長い歴史があったと思いきや、実は、本当は、お客さんが鶏の肉を全部食べちゃった後に、シメでご飯を食べていたものをお店で出し始めて、出前だけでやってて!

山田:そうなんです!

石田:へぇー!

朝岡:
知らなかったなぁー!

石田:ねぇー!

朝岡:老舗にね、知らないStory有りですね。

石田:ですね!

ここからは、各テーマを元に、玉ひで 8代目代表 山田耕之亮の言葉から
歴史と伝統の裏に隠された「物語」、玉ひでが持つ「長寿の知恵」に迫る。最初のテーマは、「創業の精神」
創業者の想いを紐解き、現在に至るまでの経緯を8代目 山田耕之亮が語る・・・。

山田:うちの店はですね、代々まぁその当主…任された人間がですね、好きにやっていいという風潮がかなり強いんですね。で、おそらくですね、初代から3代目までは、徳川家に仕えている「鷹匠」をしておりましたので、

朝岡:ほぉー!

山田:徳川家に仕えている鷹匠のことだけ、“御”が付いて「御鷹匠(おたかじょう)」と呼ぶんです。鷹匠じゃないんです。御鷹匠って言うんです。

石田::御鷹匠…

山田:それをしておりました。で、どんなことをしてたかといいますと、鷹狩りに行くわけではなくてですね、鷹狩りで将軍様が捕ったであろう獲物を鶴に見立てて、その鶴を切る儀式を授かっていたんです。

朝岡:ほぉー!

山田:それで、で、あのまぁ…これは推測の域は出ないんですけども、「徳川さんの御前で刃物を抜ける唯一の存在」といってもいいような人間だったんであろうと思います。ですから、その頃はですね、色んな諸大名の方のところに出張料理に行っているような、そういうお店だったと思います。まぁ店舗は店舗で構えておりまして、ただ仕事の大半は出張料理。で、生きてる軍鶏を持って行って、御前で捌いてお出しすると毒味もいらないので、大変重宝がられたんではないかと思われます。

朝岡:はぁはぁ!

山田:で、3代目の途中くらいからですね、その出張料理の方が減ってきまして、店舗にお客様をお招きして、まぁ所謂軍鶏鍋屋。鶏のすき焼の最高級店をやっていたようです。明治になって、しばらく経ってからですね、ちらし弁当をやるようになりまして、

朝岡:ほぉー!

山田:まぁ、もともと出張料理のお店ですから、そういう鶏のお料理を出したりとか、で、今度、戦後はですね、まぁ第二次世界大戦の後ですね、もう完全にお弁当屋になっておりました。で、店舗がですね、すぐに構えられなかったんですね。それで、鶏のその…所謂商肉と言っていたんですけど、まぁ鶏のお肉を売ってる商売と、それとちらし弁当をしておりまして、当然すき焼屋はずーっとやってるんです。ただその他にそういうことをやってますね。それで、親子丼を店で売るようになったのが昭和54年なんですけど、昭和54年にそのちらし弁当を全てやめて、店舗で親子丼を出すようになったと。

石田:ふーん!

山田:ですから、明治の24年に親子丼を開発したんですが、店で出したのが昭和54年です。

朝岡:はぁー!そういう!

石田:はぁー!すごいずーっとね!

山田:それで、親子丼と鶏のすき焼屋になりまして。

石田:それで、親子丼と鶏のすき焼屋になりまして。

山田:一応ですね、神棚の上に、家憲というのがかけてあってですね、十箇条あるんですけど、色んなことが書いてあるんですけどね、要は「ずっと玉ひでやっていきましょう」と。簡単に言えばそんなところなんです。

朝岡:ほうほうほう。

山田:それで、その家憲をね、どういう風に解釈するかってのもあるんですけどね、一つ例に取るとですね、「我が家は累代の家業により家を起こしこれり、ゆえに決して他の事業に心をてんぜんざること。」っていうのがあるんですね。で、これは、私の祖父・父・僕とですね3人、三者三様の考え方がありましてね、おじいちゃんは、「支店を出しちゃいけない」って言ってたんです。で、7代目はですね、そうじゃなくて「他の事業をメインにしてはいけない」って意味だと。で、私はですね、「玉ひでさえやっていれば他何しても良いよ」っていう。

一同:笑

石田:全然違いますよね(笑)

朝岡:ほんと三者三様ですよね(笑)

山田:はい。で、まぁそういう風にですね、うちの家憲はですね、どういう風に解釈しようが、その代の自由かなっていうような書き方をしているんです。

朝岡:その家憲っていうのは、いつ頃できたものなんですか?

山田:えーっとですね、5代目の時じゃないかなと思うんですけども、あのですね、5代目は支店なんですね、4代目までの。うちはですね、初代から4代目までは“玉鐡(たまてつ”という屋号だったんですね。

朝岡:ほうほうほう。

山田:で、5代目から“玉ひで”という屋号になるんですけど、4代目が5代目に支店を出すんですけど、その支店がですね、もともとは“玉ひで”ではなくて、“玉鐡秀吉店”という。

朝岡:ほぉー!玉鑯の秀吉店。

山田:どうやらですね、本人が「玉鐡の秀さん」って呼ばれてて、それで、玉鐡の秀さん長いから、まぁ玉秀さんになっちゃって、それで、そのあと、屋号自体も「玉秀」になったと。

朝岡:玉秀になった。あぁそっかー

山田:はい。で、6代目はですね、漢字が嫌だとひらがなに変えてるんです。卵の玉にひらがなでひでで玉ひで。で、7代目はですね、ロゴマークを全て変えてですね、代々ここんところ看板が違うんですよ。

一同:笑

山田:4代目・5代目・6代目・7代目と看板が違うんですよ、うち。で、僕もですね、変えたいなって思ってるんですけど、ちょっといつにしようかなと思ってまして、で、そんな遠からず変えようと思っています。

朝岡:この辺がね、一代毎にね、まぁその鶏のすき焼という本線は同じなんだけども、やっぱり色々な考え方があって、それをまた実際にね、やってきて、こう歴史が重なってるっていうところがとてもユニークな気がしますね、玉ひでさんのね。

山田:おそらくですね、代々直系男子で繋がってるってこともあるかもしれない。だから、いいんですよ、親は親で。自分は自分で。

朝岡:それが出来るのもね、直系がずっと続いていらっしゃるから。

石田:だからこそなんですね。 そして、玉ひでさんというと、白壁で城壁のような外観だったり、あとそういった長い歴史ということもあって、海外のお客様も多いんじゃないですかね?

山田:海外のね、旅行代理店の方に聞いた話なんですけどね、上海ですとか、それから台北、それからソウル、北京、まぁその辺の旅行代理店の方がね、日本に行ったら、ここで食事をしてくれっていうお店の、何年かわかりませんけど、連続でうちがトップに入ってるという風に教えて頂きましてね。で、僕もちょっと意外だったんですね。

日本に来たら、寿司だとか天ぷら、あと日本蕎麦とかね、そういうものがあるんじゃないかと思ったらですね、その寿司も天ぷらも日本蕎麦も日本中に至るお店があると。で、日本に行くのに慣れているお客様は、そういうところを紹介すると、「あそこは高かったよな」とか「あそこの雰囲気は俺には合わない」とかいうことを言われるそうなんです。それで、ただ、玉ひでさんを紹介するとそういう方は「あぁ、これ、日本の文化だったんだね」って言ってくれると。

それで、初めて、外国の方に聞いて初めて分かったんですけど、「玉ひでさんはオンリーワンだから」って言われたんですね。他に親子丼の老舗なんてないから。で、日本の食文化の中に、その寿司・天ぷら・蕎麦の他にも丼があるじゃないかと。で、玉ひでさんはその中のしかもオンリーワンなんで、玉ひでさんを紹介して苦情を頂いたことがないという風に旅行代理店の方に聞きました。で、その時たまたま、その何でしょうね、中国と韓国のその旅行代理店の総会みたいなんをうちでやったんです。その時に聞いたんです。

朝岡:そうですかー。でもそうやって、玉ひでさんはオンリーワンだからって言われるとやっぱり嬉しいとお思いになるでしょうし、でも逆に、オンリーワンだからなかなかその他と比べてこうした方がいいなとかそういう考えってできませんよね?

山田:そうなんですよね。私もですね、オンリーワンと言われたのは、せいぜい5年くらい前なんですけども、それまでそういう意識が実はなかったんですね。日本中に親子丼なんていくらでもあるという風に思ってましたから、その時改めて思い直したことなんですけども、親子丼は90年間出前だけでしたよね。

で、実はですね、親子丼の普及っいうのは、玉ひでの親子丼が日本中に普及したんではないんです。関西の方で、鶏肉の入ってる卵とじをご飯の上に乗せたものが親子丼として世の中に広まるんです。まぁ椎茸だとか玉葱だとか筍、その他に色んなものが入った、それをですね、大きな鍋でとじて、で、白いご飯の上にお玉ですくって、で、それを食べると。で、それがですね、簡単に出来て、栄養価が高いというので戦後ものすごく日本中に普及したんです。

で、玉ひでが昭和54年に店で親子丼を解禁して、お出しする一生懸命ようになった後に、玉ひでのテレビの取材が非常にありまして、で、1こ1こ作るんですね、うちは。で、玉葱も椎茸もそういう余計なものは入れない。その鶏肉と卵だけの親子丼。それを1個ずつ作る親子丼をテレビでやってですね、毎日数時間の行列が出来るようになりまして。

で、それをこうテレビ見た家庭の方もそれからお店の方も、皆さんが玉ひでの親子丼を作るようになってしまったんですね。それまでは、日本は家族が大家族でしたから、大きなお鍋で10人分とか15人分とか作って、それを分けた方が楽だったんですね。で、どうも昭和50年代後半から核家族が進んできて、その家庭でも1個ずつ作ったほうが無駄がなくて良いんじゃないかっていうことで、今ネットをご覧頂ければ分かると思うんですけど、親子丼の作り方、全部1個ずつです。で、全部味付けも玉ひでの味付けになっちゃったんです。

ですから、オリジナルがスタンダードになるのに100年かかったんです。で、僕はオリジナルが100年かかってスタンダードになってたのはわかってたんです。

ただ、外国の方から見てそれがオンリーワンだということに気づいてなかったんです。今気づいてみたら、親子丼っていう食べ物は、玉ひでの親子丼なんです。だから、玉ひでの親子丼を基本にした親子丼、今日本中の親子丼なので、まぁ僕のちょっと昔から知ってるお店があるんですけども、そこも親子丼というものを出してるんですが、そこのお店は、卵と鶏肉は別々です。それでも親子丼だったんです昔は。だけど、玉ひでの親子丼があまりにも広まったおかげで、今は玉ひでの親子丼が親子丼で、そういう親子丼は、変わり種親子丼とか言われるようになってしまって。だから、そうなってくるとオンリーワンだったのかなっていう。そんな流れでそういう風になってしまったのかという風に思います。

決断 ~ターニングポイント~

続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
玉ひでの発展とともに訪れた苦難、それらを乗り越えるべく先代達が下した決断とは?

石田::まぁその長い玉ひでさんの歴史の中で、ターニングポイントっていうのはいくつかあったと思いますけども、伺えますでしょうか?

山田:先程お話した、戦後に軍鶏がなくなったということが、まぁー、一番大きいのかもしれませんね。軍鶏料理専門店ですから、軍鶏がなければ営業ができないんです。ですから、相当6代目・7代目の代は苦労したんだと思うんですけど。私はですね、昭和36年生まれなんですけど、36年の時にはですね、うちは軍鶏すきだとか軍鶏料理って書いてませんでした。

朝岡:ほぉー

山田:“鶏すき 玉ひで”って書いてあったんです。

朝岡:あぁー

山田:で、ですから、軍鶏が全く手に入らなかったっていうことがあると思うんですね。で、その頃、ちょっと言葉の漢字の語呂合わせみたいなもので、鶏すきって書くんですけど、すは寿です。きは喜です。それで鶏すきと読ませて、看板の“鶏寿喜 玉ひで”って書いてありました。で、おそらく20年近く軍鶏は手に入らなかったんじゃないかと思います。ただ、まぁね、一般的なブロイラーみたいな鶏ではなくて、それでもちゃんとした鶏を使ってたことは使ってたとは思うんですが。で、まぁ、先程申しあげたように、昭和52年ぐらいかれですね、東京軍鶏を使うようになりまして、で、昭和54年に、店で親子丼を出すようになって

ただ、うちの父がですね、すき焼に使う為につくった鶏だから、親子丼にこの東京軍鶏を使いたくないと。それは、僕は未だに真意はわからないんですけど、まぁ親子丼はね、大衆的な食べ物だから、こんな高級な軍鶏の肉を親子丼に使うようなんて勿体なくてできないって言ったんですよ。自分でつくっときながら。だから、それがわかんないんですよ。未だになんだか(笑)

朝岡:はっはっはっは(笑)

山田:僕はそれが、非常に嫌で、もうその「とにかく軍鶏肉を使った親子丼を出したい」と父に言ったんですけど、「俺の代なんだから、お前の言うことなんか関係無い」とハッキリ言われました。だけど、父が亡くなってからわかったんですけど、父もまぁおじいちゃんっていうか6代目が生きてる間は、全く自由がなかったみたいなんで。で、6代目も5代目が生きてる間は、全く自由がなかったようなので(笑)

一同:笑

山田:で、まぁ、そういうことだったのかなーとは思ってますけど、ただ、そのまぁ軍鶏を使った親子丼を出したくないっていうのは言われてました。軍鶏を使った親子丼を出したくないと言ってたので、父が生きてる間は出せなかったんですけど、それで、ただ、その先程のターニングポイントになりますけど、玉ひでがどんどんどんどん大衆店化してしまうのが非常に嫌で、幼心におじいちゃんが玉ひでを大衆化するのが嫌なんだと言ってたのを覚えているんですよ。で、なんとか僕の代になったらもう一度高級店化したいなと。ただ、親子丼が600円では、これはちょっとなかなか難しいことなので、で、親子丼を値上げしなければいけないかなという風に思ってたんですね。で、まぁ600円という値段はですね、その当時でもかなり安い金額でした。で、今だから言えますけど、赤字でした

石田:ふーん。

山田:で、それともう一つ。もっといけないことがですね、従業員が、お客様にお召し上がり頂くというよりも、食べさせてあげてるというそういう気持ちが蔓延してまして、

石田:あぁー

山田:「はいそこ座って、はいよっ」っていうような感じで、もういらっしゃいませですとか、ありがとうございます。そんなことが一切ないんです。まぁ実際に、その当時の玉ひでに来て頂ければ、そういう雰囲気が非常に似合ってる店づくりをしていたかもしれません。「下町の大衆食堂で良いんだと」父は言っていましたから、接客と言うよりも料理をただ出してる。で、よく冗談なのか本気なのか分かりませんけど、配給と一緒だって言われてましたから(笑)

石田:ほぉー(笑)

山田:だから、それはね、ほんとに飲食店としてあってはならないんことなんじゃないかなっていうのが、子ども心にずっと思ってたんですよ。で、それにはね、やっぱり、ある程度お値段頂いて、親子丼で利益が出るような形にしないとですね、従業員の意識改革は出来ないのかなという風に思ってですね、実は僕、200円だけ値上げしたんです。

石田:はい

山田:で、それはやはり父が亡くなって三回忌を待ってやったんですけども、実際には値上げをしたのはその一度だけですね。600円から800円に変えたんですけど、前の日に状行員を集めまして、「明日から200円値上げします」と。で、「その200円の分の利益は全部、従業員の給料にまわします」と。「ですから、サービスを良くしてくれ」と。それから、「作ってる方も200円分真剣に作ってください」と。それから当然、材料も良くして、それから店も全部改装したんです。

石田:ふーん。

山田:で、所謂リニューアルオープンですね。

石田:はい

山田:で、それを新聞に、折込広告で、ほぼ全紙に「玉ひで値上げします」。と。それで「材料も良くしました。サービスも良くします」と、入れたんです。ただ、前の日に、「もううちの行列は今日で終わるかもしれない。明日、うちの店に行列はないかもしれないけど、いいサービスをしていいものを出せば、2年後3年後に必ずお客さんは戻ってきてくれるから、それまでしばらくの間行列のない店かもしれないけれど、一生懸命一緒にがんばりましょう」と。って言ってですね、まぁ僕は店に住んでますから、店の中にずっと居たら、うちの従業員が「社長!大変なことになってます」『何ですか?』って言ったら、「昨日の倍並んでます」って。

石田:すごい!

山田:えぇー?!って思って店の表に出たら、それまでの最高待ち時間がですね、おそらく1時間ぐらいだったんです。そのチラシを出して値上げした次の日からですね、そうですね、平均2時間待ちくらいの。

石田:もうテーマパークのように並ばれてる

山田:1ヶ月後には、最高記録が4時間待ちになりました。

朝岡:ほぉー!ねぇー

山田:それはちょっと異常な(笑)

石田:あはは(笑)でも、値上げしてまでお客様がついて

山田:だから、どんなものが出来たんじゃないかっていうご期待感があったんじゃないですかね。

言魂 ~心に刻む言葉と想い~

続いてのテーマは、 「言魂、心に刻む、言葉と想い」
強い想いと信念が込められた言葉には魂が宿り、 人生に大きな影響を与える・・・
山田耕之亮が家族や先代から受け取った言葉、そこに隠された想いに迫る。

山田:ちょうど私が高校1年生の時に祖父が他界したんですが、その時にですね、おじいちゃんの所謂お友達の方から、「耕之亮くんちょっとこっちにおいで」って言われて、『何ですか?』「君は鶏肉が食べられないんでしょ?」って言われたんですね。いや正直ですね、こう何と言うんですか、身の凍る想いみたいな…玉ひでの8代目でここまでやってて、孫が鶏肉が食べれないってことをおじいちゃんは何でそんなに吹聴してたんだろうってびっくりしました!で、これは隠さなきゃいけないことだと思ってたんですね。鶏肉が食べられないってことを。

ところがですね、それを複数の方から同じことを聞かれまして、それで『はい、食べられません』と、正直に言ってしまったんですね。そしたら「おじいさん喜んでたでしょ?」って言われたんです。で、僕もですね、祖父が喜んでたっていうのを正直忘れてまして、そういえば小さい頃『鶏肉食べたくない』って言うと、「食べなくていいよ、よしよし」って言われてたなって思ったんですね。それで、「あっ、そういえば、子どもの頃、食べなくていいよって言われてました!」って言ったら、『そうでしょ』って。

おじいさんはね、今の鶏肉はとても不味いと。こんな美味しくない鶏肉をね、美味しい美味しいって食べてる人が世の中に大勢いるけど、これは自分が子どもの頃…まぁ明治時代ですよね。食べた鶏肉とは全く違うものだと。で、こんなに美味しくない鶏肉を孫が食べて美味しいって言うようだったら死んでも死にきれないけど、この子はこの不味い鶏肉をはっきり不味いって言うから、この子は自分の隔世遺伝で、鶏の味の分かる子だから、その孫に玉ひでを託して死ねるのは幸せだ!みたいなことを。

朝岡:ほぉー

山田:で、それで、自分が他界したら孫に伝えろと、どうも数人に言っていたようで、私はほんとに数人から言われました。で、その時に、「あっ、鶏肉をいいものに変えていかなければいけない」っていうのが心の中に芽生えたんだと思います。

朝岡:はぁー!

山田:だから、自分の食べられる鶏肉だったら、他の方も美味しく食べられるんではないかって思ったんですね。そしたらですね、その1ヶ月後くらい、祖父が他界して1ヶ月後ですよ、父が「この鶏だったら食べられるか?」って、東京軍鶏の最初の試作品を持ってたんですね。

石田:へぇー!

山田:だけどね、今から気づいてみるとですね、ひどい奴ですよね。祖父には食べさせてないんですよ。

朝岡:あぁー!

山田:確執ですね!

朝岡:あっはっはっは(笑)お父様がね!

石田:あったんですね!(笑)

山田:だから、祖父は父だったら「あいつは店潰す」って言ってたんですよ。きっと。

石田:あぁー…

山田:自分の周りには。何かあの、そういう家ですね。ですけど、その時に僕もまたもう一回びっくりしました!父の前では食べてたんですよ実は。鶏肉を。
ただ、噛まないで全部水で飲み込んでたんでましたけど。噛んだら気持ち悪いんで。全部水で飲み込んでたんですけど。父の前では、食べるそぶりを見せてたのは間違いないんですよ。だけど、おじいちゃんの前では誉められるから、全部捨てて、鶏肉は一切食べないで。

朝岡:そっかー

山田:で、だけど、父にバレてたようで、「この鶏だったら食べられるのか?」って言われて東京軍鶏を食べてみたら、『あっ、この鶏だったら食べられる』って言ったら、「じゃあ、この鶏をこれから玉ひでのメインにしよう」ということになりまして

朝岡:そうですかー

山田:父の想いと祖父の想いを嫌々ながら、引き継いではいるのかなという風に(笑)

朝岡:いやいやいやいや、それはね、やっぱりおじい様とお父様のそれぞれのね、孫であり子どもなんだけども、そこへ対する色んな愛がね重なっているように僕は受け止めましたけどね。

NEXT100 ~時代を超える術~

NEXT100、時代を超える術。
革新を続け、100年先にも継承すべき、「玉ひで」とって、核となるモノ・・・
そして、8代目 代表 山田耕之亮が語る 次代へ届ける長寿企業が持つ知恵とは?

山田:やはりですね、玉ひでは鶏のすき焼屋ですから、親子丼屋ではなくてすき焼屋だって言われるようなそういう店作りにしていきたいなっていうのが一つありますね。それと、これは玉ひで代々続いてることなので致し方のないことかもしれませんけど、まぁ当然私も息子に代を譲ると思うんですが、その時に息子がどういうお店にするかですよね。

朝岡:あぁー!

山田:で、ひょっとすると、7代目みたいな大衆店がいいという風に思うかもしれませんし、昔のように出張料理の店がいいと思うかもしれませんし、わからないですけど、息子にとって魅力のある店にしたいとは昔から思っておりまして。もう息子も28なんですね。
前回、家族全員でテレビに出てるんですけど、その時に、娘が継ぐのか、長男が継ぐのか、次男が継ぐのかわからないみたいなテレビの編集のされ方をしまして、

石田:えぇえぇ。

山田:で、子どもたちが何を言ってたのか、僕はオンエアまで見てないんですよ。

朝岡:あぁー(笑)

山田:で、テレビのディレクターに隠されて僕はインタビューをずっと答えてたんですけど、

石田:えぇえぇ。

山田:オンエアを見たらですね、三者三様のことを言ってまして、みんな自分が継ぎたいって言ってるんですね。

石田:おぉー!

朝岡:素晴らしいじゃないですか。

山田:これ、すごい良かったなと思ったんですけども、逆に言うとですね、失敗したなと思いまして、全員継ぎたいって言ってるから、選べないんですよ。

石田:うーん。

山田:ただ、もう長男に代を継がせようって決めましたので。長男にやらせようって風にちょっと前に決めました!えぇ。

石田:でも、三兄弟毛利家の様に三本の矢がくっつくと強くて太い。

朝岡:そうねー

山田:だけど、三本の矢でも、折れたら1回で折れちゃいますから(笑)

朝岡:あっはっはっは(笑)

山田:別々であった方が良い気がするんですよね(笑)

朝岡:まぁでもあの、ご長男が代表になるにしても、ご兄弟が一緒になってやっていくという形はね、決まってると思うんで、これから100年後の玉ひでというものをちょっとこう考えた時には、やっぱり鶏のすき焼の鶏すきの店なんだということが、まず一番大事な核で、

山田:そうですね。はい。

朝岡:
あとはその、代毎に自分の思うところをやってみなさいと、こういうのも引き継がれていく部分ですか?

山田:そうですね。うちがですね、鶏のすき焼って言ってるプライドが一つあってですね、確かめようのないことなので、正直本当かどうかもわかりませんけど、これは、まぁ僕は6代目から、おじいちゃんから聞いた話ですけど、うちの店は初代からずーっと醤油とみりんを使ってて、砂糖と味噌は一切使っていないと。で、他のお店は砂糖と味噌と日本酒で割り下を作ってると。玉ひでは醤油とみりんをずっと使い続けられて、それは、初代から徳川家に仕えてたから、醤油とみりんが優先的に貰えたからなんだって。

石田:へぇー

山田:だから、他の店はできないんだって。だから、玉ひでは醤油とみりんだけの割り下を使い続けるんだと。これがうちの伝統なんだってことを代々伝えて聞いてるんですね。で、今の時代になって、親子丼の発祥の店っていう風に言われてますけど、実際には親子丼を作った5代目のとくもまぁ6代目のおじいちゃんも玉ひでが発祥の店だって知らないんですよ。

その頃はこういう風に今みたいにネット社会でも何でもないですから、そのマスコミだとかそういうものもなかったので、5代目の女将のとくにしてもおじいちゃんにしてもですね、ひょっとすると玉ひでが親子丼発祥の店かもしれないと。だけど確証がなかったんです。だけど、7代目の代になって初めて親子丼発祥の店だってわかったんですね。ただ、その頃もまだ、まぁ今もそうかもしれませんけど、すき焼の発祥の店ってのはわからないんです。だけど、逆の言い方をすれば、うちより古い店はないんです。

朝岡:うん。そうですね。

石田:250年…

山田:だからひょっとすると、すき焼っていう、今日本中の方々がすき焼って仰って食べてる食べ物の発祥の店が玉ひでなんじゃないかなという風に思っているんですね。だとすれば、その親子丼発祥も良いんですけど、すき焼発祥っていの方がもうちょっと良いかなと。

朝岡:うーん。

山田:で、これあと100年間言い続ければ、玉ひでが発祥の店になりますから(笑)

朝岡:あっはっはっは(笑)なるほどなー

山田:えぇ。

朝岡:所謂、老舗でいらっしゃるわけで、会社風に言えば長寿企業という形になるんですけども、長く続けていく上で色んな大事なものがあると思いますが、山田さんがお考えになる、その老舗が老舗としてこう続いていくのに必要な大事なものっていうのはあげていただけますかね?

山田:私は、「変わらないように変えていく」と必ず言っているんですね。で、これはですね、うちは飲食店なので、その時代時代によって流行廃りの味ってのがあると思うんですね。で、まぁ極端に変えなければ大概は大丈夫なんでしょうけど、それでも、まぁ簡単に言ってしまえば、濃いものが流行ってる時代に薄いものを出して、薄いものが流行ってる時代に濃いものを出したら、何だこの店って言われるんですよ。だったら味を、多少なりとも時代に合わせて変えてもいいんではないかと思うんですね。

まぁ、要はお客様と店の方向のベクトルが同じ方向に向かっていればいいんじゃないかと思ってまして。で、お客様が「あっ美味しいね、また食べに来たい」って仰って頂けるようなものを常に出していくのが飲食店の仕事で、うちは100年間、200年間味は変えてないんだよっていうのは、それは口ではそう言って、お客様にいかに合わせていくかってのが本音なんじゃないかっていう風に思います。

鳥料理 玉ひで8代目 代表 山田耕之亮「変わらないように変えていく」
お客さまが美味しいねと言ってくれるものを、提供し続ける事が飲食店の志命であり、その中で、時代が求めるモノを感じ取り、時には味を変える勇気も必要である。
この想いは100年先の後継者へ、受け継がれていく・・・

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