障害者の人権を守り 社会福祉教育の礎を築いた パイオニア

ある薄暗い部屋の中に長い間ひっそりと眠っていた古いピアノ。故障し、ほこりをかぶったまま雑然と置かれ人々から忘れられていた。そして、いつか廃棄される運命であった。しかし、そのピアノに宿った元の持ち主の魂がそうさせたのだろうか、突然人々から注目されることになる。
1996年(平成8年)、ある女性ボランティアが部屋に入った。そしてそこにあったピアノにただならぬ気品のようなものを感じ、すぐさまそのことを音楽関係者に伝えた。鑑定の結果、横浜でピアノ普及のパイオニア的存在だったドーリング商会が販売したもので、日本で現存する最古のアップライト型のピアノであることが分かった。幻のピアノとも言うべきとても貴重なものだったのだ。そのピアノは正面中央に天使のガラス絵が施されていることから「天使のピアノ」と呼ばれている。
「天使のピアノ」を所蔵しているのは、東京都国立市谷保にある社会福祉法人、滝乃川学園。1891年(明治24年)に出来た日本最古の知的障害者の学校・施設である。ピアノが置かれていた部屋は旧本館2階、学園の創立者、石井亮一が当時使っていた部屋。ピアノは亮一の妻、石井筆子が愛用していたもの。「天使のピアノ」は現代の私たちに何かメッセージを伝えようと誰かが見つけてくれるのをじっと待っていたのかもしれない。
創立120年を超える滝乃川学園。その裏には学園存続に奔走した夫婦の並々ならぬ想いと波乱に満ちた人生における苦労があった。石井亮一、筆子夫婦の軌跡をたどることで滝乃川学園継承の核とも言える創立時からの精神が浮き彫りになった。 ※以降、当時の用語、表現をそのまま用いているため、現在において適切でない用語、表現が含まれています。
いと小さきものに 為したるはすなわち 我に為したるなり
社会福祉法人 滝乃川学園 常務理事 米川 覚
滝乃川学園の設立者、石井亮一は1867年(慶応3年)佐賀藩主鍋島家の家臣の家に生まれた。1884年(明治17年)に立教学校(現、立教大学)に科学者を目指して入学。そこで学長兼日本聖公会初代主教、C.M.ウィリアムズの教えに感銘を受け、在学中にキリスト教(聖公会)に入信した。
「いと小さきものに為したるはすなわち我に為したるなり」
聖書の聖句を大切にし、我が身を顧みることなく、より小さきもの、より弱きものに愛情を注ぐことが神に従うことだと考え、神の道を追求するようになった。
その後、1890年(明治23年)、24歳で立教女学校(現、立教女学院)の教頭に就任する傍ら、「いと小さきもの」のために東京救育院(孤児院)を起ち上げ、孤児救済活動に取り組んでいた。その矢先、1891年(明治24年)、岐阜県を震源とする濃尾地震(マグニチュード8.4、死者7000名以上)が起こった。被災地で親を失った多数の孤児が発生した。その中でも、少女たちが人身売買の被害を受けていることに亮一は衝撃を受け、約20名の弧女を引き取ることにした。私財を投じ、日本聖公会等からの援助を受けて「聖三一弧女学院(滝乃川学園の前身)」を創設し、弧女たちへの教育を開始した。
「弧女院」ではなく「弧女学院」。亮一は、「弧女学院設立の告白」としてこう述べている。
「今まで、一般の女子教育をする人は多々いたが、弧女の教育に至っては環境を悪用するものばかり。弧女1人ひとりに合わせて学びを与え、保母となり、女工となり、産婆となり、看護婦となり、教師、伝道師となって更にその能力を伸ばし、女性たちの先駆者となってもらいたい。」
一般女子に「学び舎」をつくるという教育への熱い想いが読み取れる。そして、その保護した弧女の中に更に小さき弱きものがいた。知的な発達の遅れが認められる女児1名。亮一は深く関心を抱き、知的障害児教育の必要性を感じた。しかし、当時はこれらの児童に対する対処や研究は皆無。この時から亮一は終生に亘って障害児教育に力を注ぐことを決意したのであった。
当時の日本では、重度の知的障害がある児童は差別や偏見の対象とされることが多く、「白痴」と呼ばれ人権侵害が甚だしい時代だった。そこで亮一は、障害児教育の先進国アメリカに1896年(明治29年)と189 8年(明治31年)の2度渡り、見識を深めた。また1897年(明治30年)には「聖三一弧女学院」を当時学院があった東京都北区滝野川の地名に因んで「滝乃川学園」と改称。その理由を亮一は子供たちにこう述べている。
「自分たちは心無いことをした。親がいない『弧女』だという身の上は十分に分かっているのに、君たちの学び舎に『弧女』と看板をつけてしまいました。とても申し訳ない。これからは、『滝乃川学園』で一緒に学ぶ園にしましょう。『学園』という言葉は他にそうないと思うから、覚えてもらいやすいでしょ。」
こうして亮一は知的障害児教育を本格的に始めた。
因みに「学園」と名のついた組織は滝乃川学園以前には存在しないことから、滝乃川学園が「学園」の発祥となっている。亮一が渡米した際に視察した知的障害者学校の庭が緑豊かなガーデンだったことから「学園」と名付けたと言われている。
「鹿鳴館の華」から一転 神が与えた幾度もの試練
石井亮一、筆子の肖像画。記念館の入り口に飾られている
亮一の妻、石井筆子。旧姓は渡辺筆子。1861年(文久元年)、討幕を推進した肥前(現、長崎県)大村藩士、渡辺清の長女として生まれた。維新という社会の変革を肌身に感じて育った筆子は、幼い頃から外国に関心を持つようになった。
1872年(明治5年)、筆子が11歳の時、明治政府で上級官史となった父の元へと上京し、翌年に日本初の官立女学校で外国語に力を入れた「東京女学校」に入学。そして語学力の更なる向上のために、1877年(明治10年)、アメリカから来日していたウィリアム・ホイットニー家の英語塾、バイブル教室に通うようになった。そこでホイットニーの娘クララと出会い、キリスト教と外国文化、自立した女性の生き方を教えられた。この出会いが後の筆子の生き方に大きな影響を与えたのだった。
1879年(明治12年)、筆子18歳。第18代アメリカ大統領グラント将軍が退任後、国賓として来日した際に、語学力を活かして父の清と共に英語で会談し、華やかな外交デビューを飾っている。当時の日本人女性の多くが教育を受けられない中、筆子は先端の教育を受けた稀有な存在であった。
その頃の日本は西欧先進国への仲間入りを果たし、明治政府は不平等条約の改正のため極端な欧化政策を推進していた。そのため他の先進国と肩を並べるために上流階級子女の教育に力を入れる必要があった。外国人接待用の「鹿鳴館」でダンスや園遊会、バザーなどが繰り広げられ、筆子は盟友の津田梅子(現、津田塾大学の創設者)らと共に「鹿鳴館の華」として生涯で最も輝いた時期を過ごしていた。そして、グラント将軍との会談の翌年には、皇后陛下(明治天皇婦人)の命で、国際的な見識とマナーを身につけるためにオランダ、フランス、デンマークに約2年留学することになった。
こうして、日本と比べてはるかに民主主義が充実していた欧州で、自由、平等、博愛の精神を学び、女子教育の充実と自立を目の当たりにした筆子は、新鮮な感動と共に帰国した。しかしそこには日本の古い封建的習慣に縛られるという現実が待っていた。結婚である。
筆子には生まれながらにして親同士が決めた許嫁(いいなずけ)がいた。大村藩で代々家老を務めていた小鹿島家の長男、小鹿島果(はたす)である。果は会計検査院勤務のエリート官僚。傍目には格好の良縁であったが、女子の自立、そして親が決めた結婚という点からも筆子の心は複雑だった。しかし覚悟を決め1884年(明治17年)に入籍した。この時、果27歳、筆子23歳。「天使のピアノ」は、この時結婚祝いとして贈られたものと言われている。
気の進まない結婚ではあったが夫の理解もあり、筆子は華族女学校(女子学習院の前身。皇族と華族子女の教育を目的に設置された)のフランス語教師に就任するなど、留学経験を活かして西欧社会で活躍できる女性の教育を目指した。
結婚して2年後、筆子に待望の長女が生まれ、幸せを祈り「幸子」と命名した。しかし幸子は生まれつきの虚弱体質だった。そして更に知的障害を持って生まれてきたのである。時に知的障害児の母は恥とされ蔑まれた時代。希望を奪い取られた筆子はどんなに苦しんだか。ましてや「鹿鳴館の華」と呼ばれ、表舞台にいた筆子の立場を考えれば想像を絶する。
「どうかこの子にご加護を」
直後に、母子共にキリスト教の洗礼を受けている。心の支えを神に求めたのだろう。ところが、この幸子の誕生は筆子を試練の人生へと導く序章であった。
幸子が4歳の時、次女の恵子が誕生。一筋の光が挿したのも束の間、誕生後5ヶ月で病死。翌年、三女の康子が生まれるも病弱で、結核性脳膜炎を患い、知能と身体に障害を残した。そして追い打ちをかけるように、三女、康子誕生の翌年、夫の果が結核によって35歳という若さでこの世を去った。1892年(明治25年)、筆子31歳。2人の知的障害児を抱え、未亡人となった。