墨田川造船 株式会社〜高速艇のリーディングカンパニー
オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~
今回のゲストは、墨田川造船株式会社代表取締役社長 石渡秀雄。大正2年創業の墨田川造船株式会社は、高速艇をはじめ、新造船、特殊船を製造するほか、造船のみならず、進水式の際には、地域の方々にも足を運んでいただき、船や海の知識や魅力を発信することで、地域社会にも親しまれている。仕事でもプライベートでも没頭することをやりたい。そんな想いを胸に刻む石渡秀雄に、墨田川造船の長寿の知恵、そして自身のストーリーを語ってもらう。
石田:本日のゲストは、墨田川造船株式会社代表取締役社長、石渡秀雄さんです。よろしくお願い致します。
朝岡:ようこそお越しくださいました。
石渡:どうも宜しくお願いします。
朝岡:隅田川で船をつくるという会社のお名前、墨田川造船ですが、なにか屋形船かなにかをおつくりかななんて想像しますけども、色々おつくりになっているんですね。事業の内容はどんな内容なんですか?
石渡:基本的には当社創業当時からの高速艇といいまして、洋式高速艇をはじめてつくった造船所という形ですので、創業以来高速艇をメインに製造しております。
朝岡:高速艇というのは小さい船のことですよね?ということは昔軍艦に載っていたような、モーターで動くような船を専門でおつくりになっている?
石渡:そうですね。
石田:こちらの船は墨田川造船さんで造られている船ですよね?
石渡:そうです。これは北海道の羽幌町というところから、手売・焼尻島って行く離島航路の旅客船になりまして、ちょっと生活航路になるんですけど、当社で設計、製造しまして、北海道まで私も一緒に乗っていきました。
朝岡:船の大きさでいうと何トンくらいなんだろう?
石渡:重さ的には100トンくらいの船なんですけど。
朝岡:やっぱり超大型ではなくて、小回りのきく船なんですね。
石渡:そうですね。大きさ的には30mくらいの船なので、比較的小型船と呼ばれているところになりますね。
大正2年より12代続く墨田川造船。創業から現在にいたるまでの経緯、その歴史を紐解く。
朝岡:大正2年創業ということですが、石渡さんで何代目?
石渡:私で12代目になります。
石田:徳川幕府のようですね。
朝岡:でも大正2年で12代ということは、わりと代が多いですね。
石渡:そうですけども、近年私の2代前くらいの社長は、20年くらい社長をやっていたという人間が長く続いてましたので。その前の時は代替わりが結構激しかったものですから。
石田:そんな墨田川造船さんの一番の強みというのはどこですか?
石渡:先ほども申し上げたんですが、高速艇の部門でとにかくリーディングを目指すということでやっておりまして、官公庁ですとか、一般のお客様向けの高速艇を一本に絞ってやっている。
そこから派生した特殊船ですとか、小型特殊船をメインに建造するということが強みですね。
朝岡:なるほど、船の中でも特化してやっていると。会社の中では、会社の方針とくっつくかわからないけど、特別なイベント、我が社ならではのイベントや仕組みというのはありますか?
石渡:東京都内の造船所というのがほとんどなくなってきてまして、我が社がほとんど一社だけで新造船をつくっているという状況ですので、一般の方にも見せられる進水式とか、そういうものを公開して、ただ船を沈めるだけじゃなくて、船はこういう材料を使っていますよとか、例えば同じ大きさの鉄とかアルミとか木とかを並べて、重さを比べてみたりとか、あとはロープの縛り方とか。これは非常に役に立つよなんて言って。
ボーイスカウトとかガールスカウトとかでやっていることを造船の世界でもうまく教えたら結構子供が興味もってくれたりしたので。
石田:大都市でそういったイベントってないですよね。造船というと瀬戸内海とかあっちの方のイメージがあって。進水式というのは海に最初に沈める式ですよね。そういった光景が見れるというのは。
石渡:なかなか見れなくて、地元の小学生とかを呼んだりすると結構皆さん好評で。地元の小学生とか、その父兄とか、地元企業の有志の方とかをお呼びして、そういう大々的なイベントを。
先日もやらせて頂いたんですが、非常に好評で、「またやってくれ」という声が多いものですから。
朝岡:もともと会社を継ぐというか、このお仕事に入るというのは、小さい頃からの方針というのが?
石渡:まったく無かったですね。自分が社会人になったときには、「造船なんか流行らないから入らない」って反旗を翻しちゃったんですね。
朝岡:じゃあ例えば少年時代になりたいものというのは別の世界にあったんですか?
石渡:単純に電車の運転手になりたいとか、音楽をやっていたから音楽家になりたいとか。ある程度になってからは人と接する商売をしたいと段々感じてきましたね。それがあって造船なんかやらないと言っちゃったと思いますね。
ここからは四つのテーマをもとに、石渡秀雄の言葉から、歴史と伝統の裏に隠された物語、墨田川造船が誇る長寿の知恵に迫る。まず最初のテーマは「経営理念」。創業から現在に至るまでの経緯、そこから家訓や理念が生まれたきっかけと共に、今の社員へ伝え浸透させる術を石渡秀雄の言葉から読み解く。
石田:創業から現在までの御社の歴史を教えて頂けますか?
石渡:大正2年の4月に高橋新八という薩摩藩の流れのものが、西洋式の造船所を発足したのが始まりでございます。
当時の日本の船というのが船大工が経験と勘で造って、図面というものがなかったんですけども、高橋は東大出身で船舶工学を学んで、洋式の造船技術を唯一日本で取り入れたのが始まりでございまして。その中で高橋式つかさ丸型の船形特許をとったりしたのが始まりでございます。
そのあと世界大戦とかがありまして、海軍の指定工場になったりしまして、一時期鮫洲の方にも工場がございまして、500人くらいの従業員で総力をあけて軍艦につける内火艇とかそういうものを建造しておりました。
戦争が終わってからはそういった需要が一切なくなりましたので、その中で海上保安庁の発足が昭和28年にあったところから、一般向けの海上保安庁とか消防艇といったところの建造。
それからモーターボート競技の各地のレースのレース艇をつくったりとか、ヨットをつくったりするとかをしまして、その後どんどん海外の案件ですとか、そういったものが増えて現在に至っているという形でございます。
祖父は電気技師みたいなもので、電気技師の会社を起こしておりまして、墨田川造船に業者として入ってたんですけども、それから紆余曲折があったと言っておりましたが、墨田川造船の経営陣にまわったと。それから墨田川造船と石渡家が繋がったという形になります。
朝岡:墨田川造船の歴史の中で、石渡さんのおじいさまから重なってきて、今社長になってらっしゃるということですね。軍艦というのは私も好きで歴史を調べたこともありますが、明治時代はイギリスなんかから輸入するのが多くて、明治の末になって国産になってくる。
でも民間の墨田川造船の場合は最初から西洋式の高速艇でやっていくんだということですが、造船技術というのは海外に比べて日本の方が相当高いと思ってよろしいんですか?
石渡:現在は高いと思いますね。
その当時はたぶん下だったと思います。軍艦を海外から輸入したりするということ自体、レベルが低かったと言わざるをえないと思いますけど、第二次世界大戦とかそういう時期になると、日本の独自技術でいろんな有名な戦艦を造る技術が出来たと思いますので、それは日本人の良い技量ではないかと思いますね。
朝岡:今の墨田川造船がおつくりになっている小型艇とか、中型船くらいの技術は世界的なものをお持ちなんですよね?
石渡:そうですね。
石田:御社の企業理念や家訓はありますか?
石渡:企業理念というか、基本的には高速艇を造るということに特化してるので、いかに経験を開発に繋げていくかというのがメインになります。
朝岡:企業をやっていると、高速艇に特化するという会社の方針を社員の皆さんに浸透させるのが大事だと思いますが、そのために会社でやっていることとか、徹底していることはありますか?
石渡:今は技術不足というのはどこの会社でもあるんですけど、大手には無いんですが、我が社は営業でさえ設計陣でさえ、船を造るところから完成するところまで全部携われるということもありますし、あとは幸いにもまだ団塊の世代の人間が何人か残っていますので、その者と勉強会をしたりですとか、高速船はこういうものなんだという技術的な理解とかそういうものというのは、実は一般では出してないとか、これは独自のノウハウなんだというものが結構ありまして。
それを通年とおして毎週金曜日に勉強会というのをやって、上司がこういうものだというのを教えているという形です。
朝岡:会社で営業の人は営業のことは知ってるけど船のことあまり知らないとか、現場の人は船の作り方はわかるけど営業のことはよくわからないとか、そういうことじゃなくて、みんな船のことは一応わかるという社員を育てていくと?
石渡:私がそうだったものですから。最初入った頃は資材部署にいて、営業にいかされて、現場にいかされて、今度アフターサービス部門にいかされてということで、結構渡り歩いてたんで。いろんなことを学べるという形ですね。
決断 ~ターニングポイント~
「決断」~ターニングポイント~。関東大震災、世界大戦、不況による経営危機。様々な境地を幾度となく乗り越えてきた先代たちから受け継がれてきた意志とは。また石渡秀雄自身のターニングポイントにも迫る。
石田:続いては墨田川造船さんにとってのターニングポイント、転機はありますか?
石渡:まず関東大震災のとき。墨田区の向島にあったので、火災を免れる事が出来なかった。会社が全焼したという形になるんですけど。その時も会社をあげて全力で復興したということがありました。
それと昭和初期は軍需といいますか、海軍の指定工場にもなって、従業員も多かったんだけども、終戦と同時にまったく受注が無くなって、工場もほとんど解散という形になりましたので。それを乗り切るためにどうすればいいかとか。
平成に入ってからも一時期受注が全く無くなった時期が過去数年間ありまして、それも何とか乗り切ろうと試行錯誤はいろいろしましたね。
朝岡:関東大震災と戦争の被害というのは東京の会社は大体経験されているところも多いんですけど、受注が無くなっちゃう造船不況というときにどうするかというのは考えても難しいところがあったでしょうね。
石渡:ただまあ造船の技術、溶接とかですね。
その頃は木船なんていうことがありましたので、例えば戦後は家具をつくったりとか、組み立て復興住宅をつくったりとか。それから鉄のセメントタンクをつくって、それを出荷したりして。
逆に溶接技術は船の方が結構良いもんですから、それで好評を受けて、なんとか乗り切ったということもありましたね。
朝岡:船をつくる技術で、船じゃないものをつくることで会社としても維持できてきたと。
石渡:ただ根底には船を造りつづけるということが重要でございますので、他の商売には手を出さないで、船に関連することはやるんですけど、いつかはもう一回船を造るぞという意志が代々受け継がれてきたというのがありますね。
石田:石渡さんご自身のターニングポイントはありました?
石渡:前職は旅行会社だったので、スキーツアーとかを主催していたんですよ。
そこの手配を色々する責任者だったんですけど。忙しかったんで、毎日バスが何十台も出発するので、その都度バスを手配するんですけど、ちょっと忘れてまして、夜の21、22時にお客さんはいるんだけどバスが来ない、なんでだと言ったら、私が手配し忘れていたと。その時のお客さんが「どうするんだ」と。大学生とかが多かったので、せっかく楽しみにしてたのにと。
すぐそこの原宿の体育館の前でやってて。そのときは逃げたかったんですけど、逃げられない、どうしたら良いんだっていうのはありましたね。
朝岡:その時は乗り切れたんですか?
石渡:その時はたまたま上司がいて、バス会社叩き起こして、「一台なんとかせえ」って言った形で持ってきてくれたおかげで、夜中の24時くらいには出発することができて。ちゃんとやんなきゃいけないんだな、忙しくても手を抜いちゃいけないんだなというのがありまして。
造船の世界に入ってからも段取りとか準備を大切にするようにしてましたね。
石田:考えただけで胸が苦しくなりますけど。
朝岡:ターニングポイントというよりも、自分の経験から得た鉄則になりましたね。
言魂 ~心に刻む言葉と想い~
「言霊」心に刻む言葉と想い。強い思いと信念が込められた言葉には魂が宿り、人の人生を変える力を秘めている。石渡秀雄が先代や家族から受け継いだ想い。そして現在自らの胸に刻む言葉とは?
石渡:私の先代の前の社長から、入ったときに「担当した船は自分の船だと思え」と。それの意味が分からなかったんですね。
それはなぜかというと、どういう意志で造ったのか、どういう動かし方をするのか、どういったコンセプトでこの船はいるべきなのかというのを全部理解しろと。それをお客様に説明できなかったら、何のための造船マンといったようなことを言われまして。
変な話、私は大きな船の免許持ってないですけど、動かしてこういう挙動がありますよとか、こういう問題がありますよということを、わかるように説明できるようにはなりましたね。
朝岡:造船マンとおっしゃいましたけど、船のことは全部説明も出来るし、予測もある程度できるという、そのあたりに自信とプライドを持たないといかんということですか。
石渡:「わかりません」ではお客様は納得しないと思いますね。
朝岡:いろんな経営者が墨田川造船にはいらっしゃると思いますけど、ご自身が過去の経営者を観察なさって、自分が似てること、哲学的にこれは一緒だと思うことはありますか?
石渡:祖父から墨田川造船の経営に石渡家は関わってるんですけど、祖父のことは全くわからないんですよ。3、4歳の頃に他界したので。
父親も昭和生まれの明治男というんですか、家にほとんどいない。それこそ朝起きたらいない。夜寝てから帰ってくるということだったんで、全然接する機会がなかった。逆に今役員になって、社長になって、色々毎日話す機会があって、やっと吸収できるようになったかなという形ですね。
朝岡:言葉というよりも働きぶりというか。
石渡:行動態度というんですか。昔の職人さんみたいですよね。見て覚えろという感じじゃないかなと。
石田:見て覚えろとおっしゃいましたが、そういう感じで社員の皆さんにも接してらっしゃるんですか?
石渡:今は逆に見て覚えろと言ってもついてこれない方が結構いっぱいいるので、OJTじゃないですけど、「こうやってやるんだよ」とか、「こういうので悩んでるんです」といったときに、直球で答えを言わないで、「これはこうだよね、こうした方が良いんじゃないの?」とかってまわりからアドバイスして、なるべく自分で啓発して、自分で解決するようにという形で流れていくように」すると。
朝岡:船を造るうえで大切な技術者をもっと育てないといけない状況があると思うのですが、そのために人材をどう育成して、良い技術者を育てていくというのは何か考えてらっしゃいますか?
石渡:基本的に色んな業界団体で講習会があるんですけど、100%うちの船づくりに影響するかといったら、基本的なことは覚えられるんですけど、ある程度の蓄積というのは、今までうちで蓄積したデータでないと計り知れないところもありますので。
とにかく現場で教える、その場で教える、いろんなことを含めて教えるということをしないと、ただやれって言っただけでは今の若い人はついてこないので、なるべく一緒になって汗水たらそうっていう形にするようにしています。
石田:ちなみに石渡さんの趣味はそういったものをお持ちなんですか?
石渡:実はオートバイが好きで、仕事や家族もあるので乗る機会があまり無いんですけど、それに触ってるだけで、乗ってることもそうなんですが、普通に分解したり整備したりすることが大好きです。
朝岡:船もエンジンでしょ?オートバイもエンジンですよね。そのへん重なってる感じがしますけどね。
石渡:流れは同じですね。大きいか小さいかの違いだけで基本的にはあまり変わらないんですよね。
石田:オートバイも整備するんですよね?
石渡:しますね。
朝岡:ますます船のメカニックという。
石渡:いやいや、エンジンも今は電子制御とか難しくなってきたので、基本的なことしかできないですけど。エンジニアさんとか業者さんに任せた方が。
ただそこの中でも「こういう風になってるんだ」というのが理解できないとお客さんに説明できないですから。役立ってはいるんでしょうね。
NEXT100 ~時代を超える術~
「NEXT100年」〜時代を超える術〜。革新を続け、100年先にも継承すべき核となるものとはいったい。長い歴史と共に先代達が綴り、時代を超えて語り継がれてきた墨田川造船の物語。100年先の伝承者へ、石渡秀雄が次代へ届ける長寿企業の知恵とは。
石田:最後に次の100年に向けて変えるべきもの、または変えないもの、会社にとってコアになる部分を教えていただけますか?
石渡:基本的にもっと地域の人にもっと造船というものを知ってもらいたい。
東京というのは造船に対してあまり理解がない地域で。それこそ瀬戸内や九州の方行くと、街自体が造船になっているんですけど、我が社が今あるのは住宅地のど真ん中でございますんで。
もう少し造船としての魅力を地域に伝えて、もっと造船に携わってる人間を育てたいなと思っていますね。
朝岡:やっぱりその辺が大事で、会社だけ、あるいは船だけ有名なだけじゃダメで、裾野が地域を中心に広がると企業としてもずいぶん変わるんでしょうね。
石渡:一般の人からしたら、船を造るという会社は多分同じでしょうから、その中でうちの魅力というものをもっともっと出していきたいですね。
朝岡:なかなか船を造るという仕事はキツいことも多いでしょうから、そこに対する理解とか、もっと言うと憧れというか、船を造りたいと思わせるように若い世代にどう繋げていくか、これからの百年を考えたら大事なことかもしれませんね。
石渡:今我々が持っている経験値とかデータを大切に活かしてほしいなと。
時代によってニーズというのはいろいろ変わってくると思いますけど、根底にあるものは一本筋が通ったものだと思いますので。そこに積み重なってる経験を全部捨てないで、経験は経験として持って、それをもとに新しいものを見据えてほしいなと。
石田:石渡さんご自身の今後の目標を教えて頂けますか?
石渡:後継者を育てる。
社長になったばかりなので、これから後継者を育てるというのがひとつあると思います。あとはとにかく個人的には没頭できることを何かやりたいですね。
自宅の前に船が停まってて、車とオートバイがすぐ乗れるような環境で、常に何かいじくっていたいなと。
朝岡:昔はミュージシャンを志した時期もあったのに、船とか車とかオートバイとかがそばにいて、我を忘れて没頭したいというのは、やはり機械愛ですね。メカニック愛。
石田:一本筋が通ってるというのはまさにこういうことを言うんだなと思いましたし、先ほどから何度も、幾度も危機があっても船を造り続けるというのを繰り返してらっしゃって。
オートバイもお好きなんでしょうけど、これから先もやはり船への愛というのをこれから百年先も受け継がれるんだろうなと確信しました。