長寿企業の知恵を、
次の世代・時代へ継承する
Webメディア 智慧の燈火

MENU

語り継ぐべき日本の逸品   江戸趣味小玩具

日本有数の観光地として長い歴史を持つ台東区浅草
日本情緒に溢れた文化・景観を持ち合わせるその街は、国内の観光客のみならず多くの外国人観光客をも虜にし、年間五千万人もの人々が訪れている。(台東区観光課調べ)
なかでも江戸時代から続く日本最古の商店街の一つである「浅草仲見世通り商店街」には、伝統的な文化・技術が色濃く施された商品が立ち並び、観光客の視線を掴んで離さない。
浅草寺の宝蔵門近くに店を構える江戸趣味小玩具店「助六」もまた、独特の味わい深さを持つ商品で、多くの観光客を魅了してきた。

浅草の歴史とともに歩んできた「助六」

1866年(慶応2年)に創業した「助六」は、絵草紙や小玩具の商いを主とし、次第に江戸趣味の玩具を扱うようになった。現在では日本唯一の江戸趣味小玩具の店となった「助六」であるが、百年以上に渡って小玩具にこだわり続けているのには理由がある。

徳川幕府の勃興と共に歩んできた浅草の街は、享保時代(1716~36年)に、第八代将軍徳川吉宗による幕政改革が始まる。そこでは、贅沢禁止令などの断行により、裕福な町民に嗜まれてきた豪華で大きな玩具はご法度とされてしまった。その結果生まれたのが、小さいながらも細かな細工と工夫を凝らした小玩具である。
「助六」では、幕府や社会に風刺をきかせた玩具や、浅草寺の観音様に由来する縁起物の玩具など、見た目のみならず深い意味や想いが込められた玩具を作り、町民に嗜まれるようになった。

また「助六」という屋号の由来にも、長い歴史と共に刻まれた大きな意味がある。その屋号には、主に二つの意味合いが含まれている。一つは、代々住まいが花川戸にあった為に、歌舞伎十八番のひとつ「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」に登場する花川戸の〝助六〟にちなんで名付けられたもの。

そして二つ目が、観音様への想いである。浅草寺に伝わる「浅草寺縁起」によれば、隅田川で漁をしていた最中に発見された黄金の仏像を祀ったことが機縁となり、浅草は発展を遂げてきた。以来観音様と共に歴史を刻んできた町民は、常に観音様への感謝を忘れない。浅草の街で長年商売を続けてきた「助六」もまた同様である。縁起の良いとされる浅草寺の辰巳の方角に店を構え、「観音様あっての浅草」、「観音様が五臓六腑をお助けしてくださる」という意味を込めて「助六」という屋号が生まれた。だからこそ、観音様の年中行事や縁日などに結びついた玩具が多く作り出され、今なお観音様への信心を重んじている。

そんな、伝統ある店を継承しているのが、五代目主人の木村吉隆(よしたか)である。
大学卒業後、42歳までサラリーマンとして働き、その後四代目である父から店を受け継いだ。戦前に東京に生まれ、生粋の江戸っ子として育った吉隆は、1945年7歳の時に東京大空襲で被災した。浅草寺本堂や五重塔と共に仲見世は焼失し、浅草の街は焼け野原と化した。敗戦後の混乱の中で、浅草再興に奮起する町人の姿を見て育った吉隆は、浅草の街、そして「助六」に強い想い入れを持つ

戦後、復興を目指す浅草は、闇市が盛況であった。〝もの〟がない時代であった為に、あらゆる物資が不足しており、逆に言えば店頭に物を置いておけば何でも売れる時代であった。それにも関わらず、江戸趣味小玩具のみを商売していたのが、父である四代目主人木村卯三郎(うさぶろう)であった。

戦前の主人ならではの気骨を持ち、先祖代々から続く自身の商売に対する誇りから、易々と扱う商品を変えることはなかった。
そんな父の姿を見て育った吉隆であるが、四代目が85歳を迎えたのを機に、代々繋いできた「助六」の暖簾を受け継ぐことになる。「もう一度来たい店」をモットーに、それまで先祖代々が受け継いできた玩具に加え、新たな商品も手掛けている。

また、吉隆はとりわけ職人との付き合いを重んじる。「助六」の玩具は小さいながら精巧な作りが魅力であり、世界に一つしかないオリジナリティを誇る。そこには主人の力だけでなく、職人の伝統を重ねた技術が不可欠である。中には三代続いて仕事をする職人もおり、主人と職人が一体となって暖簾を繋いでいくことの必要性を、吉隆は誰よりも理解しているのだ。

今回は、歴史と伝統の街・浅草で、先祖代々からの商売を受け継いできた〝小商人〟、「助六」五代目主人木村吉隆から長寿企業の知恵と伝統のルーツに迫る。

観音様の恩恵あっての浅草

約40年に渡り、「助六」五代目主人として浅草の街を見守ってきた吉隆。そして浅草を語る上で欠かすことが出来ないのが「観音様」である。助六の主人である「商人」として、あるいは浅草の街で生まれ育った「町人」として「観音様」への想いを語る。

吉隆「僕はサラリーマンとして18年働いて、その後昭和52年に店を継いだ。当時の浅草は斜陽だって言われてね。浅草は歓楽街だった、吉原も浅草ロックもあった。それが全部ダメになったんだ。だから今は、健康な歓楽街と言えるね。でも斜陽だと言われていた当時もね、人は来てたんだ。
だからやっぱり、観音様がある限り浅草は大丈夫だと思う。僕の信条としてね、観音様と警察は逆らっちゃいけない(笑)。観音様を大切にしないと、観音様がなかったら誰も来ないよ。

明治の大火、関東大震災、東京大空襲など幾度となくおとずれる危機を乗り越え発展を遂げた浅草。窮地からの復興を遂げ、現在まで浅草が栄えているのも「観音様」の恩恵に預かっているからだという。

吉隆「これはね、どこでも一緒だと思う。鎌倉や京都、奈良も神社とお寺があってのこと。ヨーロッパもそうだろ?イタリアやフランス行ったって(人の集まるところは)教会なんだよ。だからね、観音様あっての仲見世なんだ。でも仲見世あっての観音様なの。わかんないけども、僕は観音様も仲見世を大事にしてると思う。」

>>生きてる人を大事に 先代から受け継がれた思い