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〈前編〉「萬燈照国」特別対談 榮太樓總本鋪 細田安兵衛

老舗企業とのご縁が深い東京日本橋の地において、「安兵衛氏なくして、老舗を語ることはできない」と多くの方に助言をいただき、たくさんのご縁とご協力のもと、榮太樓總本鋪6代目 細田安兵衛氏の取材が実現しました。

取材をさせていただいた2018年は、榮太樓總本鋪が創業200年を数えた記念すべき年であり、私どものプロジェクトに賛同いただいた皆様より、平成の終わりにふさわしい、素晴らしいお声をたくさん頂戴しました。本映像を通じて、日本橋の歴史やそこに生きる人々の想いが次代へと繋がっていくことを切に願います。

企業プロフィール

1、株式会社榮太樓總本鋪(リンク)

2、株式会社チエノワ 代表取締役 田中 雅也
2008年筑波大学卒業後にPR会社へ入社。「メディアウェーブ=発掘力(ネタ)×アイディア力(工夫)×継続力(仕組み)」理論を用いたメディア露出・話題づくりに従事し、年間180社以上の広報・PRを手掛ける。
2013年に独立し、チエノワを設立。テレビ各局でビジネス番組、経済番組等を企画。PR・ブランディング手法としてピラミッド戦略を提唱し、年間200社超の企業を手掛ける。2015年、長寿企業との出会いをきっかけに、現在の「智慧の燈火」プロジェクトを発足する。

「萬燈照国」特別対談インタビュー 榮太樓總本鋪6代目 細田安兵衛〈前編〉※本記事
「萬燈照国」特別対談インタビュー 榮太樓總本鋪6代目 細田安兵衛〈中編〉
「萬燈照国」特別対談インタビュー 榮太樓總本鋪6代目 細田安兵衛〈後編〉

〈第1部〉最後の大旦那・榮太樓總本鋪 6代目 細田安兵衛の歩み

江戸の粋

田中:細田さんは、江戸の粋を体現している男だと伺いましたが、江戸の粋とはどのようなものでしょうか?

細田:ご承知のように、「粋」という字を関西では「すい」と読むのに対し、江戸では「いき」と読み、同じ漢字でありながら、その価値観は大きく違っています。江戸っ子としてのアイデンティティは「いき」にあるのです。
「すい」は行動原理を表し、なにかに精通していることなんだよね。「すいじん」という言葉があるように、粋を極めた人物というのは、通人を差します。
一方、江戸の「いき」は美意識を単独で表しています。「詫び、錆び、綾錦」というような京都で使われるような美意識に通じる「おつ」「いなせ」というような美しさが「いき」なんだね。
自分のことを粋だというのは「粋がっている」だけで本当の粋な江戸っ子じゃないね。本物の粋な人は、粋だとは自分では言わないものです。

田中:とても勉強になります。それでは、粋になるにはどうすればよいのですか?

細田:野暮なことをしなければ、自然と粋になります。野暮とは「粋がる」奴のことです。つまり、自分がどう他人に見られるのかに意識している人は野暮で、相手にさりげない気配りをすることが粋だと言えるでしょう。
粋の言葉の深さは、エレガンスとかいう言葉も相応しない、外国の言葉では表せないですね。
高級な店はどちからというと「粋がっている」んだな、一流な店は「粋な店」なのですよ。高級はお金をかければ出来るけど、一流は「技と味」で勝負していてお金で買えるものではありません。うちなんかはとくに「味」を大事にしているので。

祖父の思い出

田中:細田さんは、日本橋にお生まれになったのですね。

細田:僕は、地元の小学校に行かず慶應の幼稚舎に行っていたから、地下鉄に乗って田町まで行っていて。地下鉄に毎日乗れるということで仲間からは羨ましがられたよね。

田中:お父様はどんな方だったのですか?

細田:酒と女が好きだったということは分かっているけど、それ以外のことは知らないな。その面は、父親から譲り受けた自覚はあります。(笑)

田中:お祖父様との思い出はありますか?

細田:男の子の一人の孫だったから、祖父にはとても可愛がられました。他の人には厳しいが僕には優しかった。ただ、そろばんを右足につけてスケートのようにして滑っていたときには、怒鳴られたことは覚えています。普段優しい爺さんに、呼びつけられて酷く怒られので。そろばんは商売の大事な道具を足下にするとは何事だ!ということでした。

榮太樓總本鋪 入社

田中:家業を継ぐということは、どう考えていらっしゃたのですか?

学生時代は、何がお好きだったのでしょう?

細田:学生時代は、中学のときはサッカーをしていたけど、そのうち戦争で大会自体がなくなってしまった。日本中で道具がなかったのかな。全国大会でも最低でも10位が取れたような時代だった。相撲も好きでよく見ていたな。
オリンピックの開会式にも行きました。そのときは、仙川の工場長をやっていたときで、工場は午前中で休みにして甲州街道沿いでマラソンを皆で応援しましたよ。

田中:家業はどのように目に映っていたのですか?

細田:この日本橋で生まれて育って1人息子だったし、製造から販売を見て育っているので、継ぐのが当たり前だと思っていたのですよ。店の2階で生活していて、小僧さんたちとも一緒に生活していたので。忙しいときは工場を手伝ったりもしていたので、疑問も一切ありませんでした。改めて継ぐんだよとも言われずに、当然そうするものだと思ってきましたよ。

田中:学校を出てすぐに、家業に入られたのですか?

細田:慶應大学経済学部を出てすぐに、製造工場に入り営業にも出ました。親父が体が弱かったもので、助けるのが当たり前で、すぐに即戦力になるように働きました。工場長、専務、社長というように仕事をしていきました。
戦後の日本経済が右肩上がりの時期だったので、経済が安定しているといえば安定しました。甘いものも不足していたから、出せばすぐに売れるという状況でしたね。幕末の頃や、明治維新、東京大震災の頃の苦労に比べたら、恵まれているよき時代だったと思います。

影響を与えた男たち

田中:百貨店全盛時代には、お父様ともに業績を伸ばされて和菓子業界の発展にも尽力されてきたわけですが、そのときに影響を受けた人物はいらっしゃいますか?

細田:山本海苔店の先代の惠造さんには色々教わりました。虎屋の黒川さんのご先代には、弟のように可愛がってもらいました。わたしは1人息子だったから、兄のように慕っていましたね。

田中:黒川さんは6代にわたってのお付き合いだとおっしゃっていましたが。

細田:黒川さんには、和菓子の和の字は仲良しの和なんだよ。虎屋と榮太楼の2社が仲良くすると和菓子業界は安泰だと言われました。
確かに、お互い競い合って仲の悪い業界もたくさんあります。そういうことには、したくないと思っていました。共に繁栄していく道を選びました。

田中:山本さんと黒川さんも、よくお酒の席で議論を戦わせていても、次の日には言いすぎたかなと折れて最終的には、とても仲がよかったとおっしゃっていました。

細田:主義主張の違うところはあっても、のれんを守るのではなく、磨き育て続けないといけないというところでは意見は一致していました。新しいものをなんでも取り入れたらいいということではなく、本当の意味で時代に必要なものを取り入れなければならないのです。正しい方法で育てるという気持ちが大切だと思います。

襲名への想い

田中:昭和47年代表取締役社長に就任、同時に安兵衛の襲名もされていますが、大きく変わったところはどのようなところだと思われていますか?

細田:襲名の方が私にとっての意味は大きかったと思いますね。社長になることとは別の種類のものでした。どこの家にもある事ではないし、襲名しなくてもいいわけだから迷いましたね。
決断に至ったのは、当時若かった娘が「普通の家じゃできないし、格好いいと思うから是非継いでください」と背中を押してくれたことが大きかったです。古臭いことは止めておけと言われるのかと予想していたので、そんな若い人の意見はインパクトがありました。
代々継がれてきた安兵衛という名前によって、自分を鞭打つ覚悟で受けたのもあります。社員や一族へも特別な家柄を伝えるのが大切な役目だと、気概を持って襲名しました。

田中:日本橋の他の長寿企業にも襲名の重要性を伝え続けていらっしゃいますが、それははどうしてですか?

細田:わたしも若い頃にお世話になったことを返しているだけです。そうやって続いていくものだと思っています。
もう一つ、茶道の宗徧流時習軒(そうへんりゅうじしゅうけん) 11代目の家元も受け継いでいますが、この襲名のときも大変悩みました。300年繋がっているお茶の流儀で、元をただせば千家で江戸で流行ったお茶です。もともと各大名などのスポンサーがいたのが幕末に状況が変わり、茶坊主が路頭に迷ったところに、うちに声がかかったんだ。大伯母が習っていて筋もよかったのもあるし、資産のある家に譲りたいということで、そこから代々引き継いできたものです。
でも襲名するときは、心底迷った。当方がお茶の道を極めているわけでもないので、山本海苔店の山本惠造さんに相談したんだ。
「総理大臣や社長や有名人には努力でなれるものかもしれないけど、天皇陛下や家元だけは努力でなれないから、やったほうがいい」とユーモアを交えて言われ、お茶の家元の襲名を後押しされたわけです。
今は、伝統ある茶道の流儀を守れただけでも良かったと思っています。

田中:今、息子さんが会社を継がれていますが、何か継ぐようにお話しされたのですか?

細田:特別には何も言っていないです。僕も親父や祖父に言われたことはなかったけど、そういうものだと思っていたので、息子も同じだと思います。
ただ、僕は学校を卒業してすぐに家業に入りましたが、息子は外の会社で経験を積んでからうちへ戻しました。「そろそろ戻ってきたらどうだ?」というように話して、工場長から営業までを経験させました。
のれん継承の戒めである、一族の和が大事
だというのは理解しているからこそ、スムーズにいったのだと思います。骨肉の争いで、良いお店も潰れてしまうことがあるので、ファミリー企業というのは和が大事なのです。兄弟の仲は良くないといけない、長男だからと偉そうにしないで、頭を下げていないといけないですね。
わたしは今でも会社と呼ばず、店と呼んでいます。社業じゃなくて、規模が大きくなっても家業だと考えています。女房にも社長夫人でなく女将だと言ってきました。のれん会の二世の結婚式でも、新婦にそういう話をよくしますよ。

「萬燈照国」特別対談インタビュー 榮太樓總本鋪6代目 細田安兵衛〈前編〉※本記事
「萬燈照国」特別対談インタビュー 榮太樓總本鋪6代目 細田安兵衛〈中編〉
「萬燈照国」特別対談インタビュー 榮太樓總本鋪6代目 細田安兵衛〈後編〉

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