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【特別対談】次代へつなぐ、襷と想い

【特別対談】次代へつなぐ、襷と想い

2025 年 11 月 28 日(金)、「次代へつなぐ、襷と想い」をテーマに特別対談が実現。お迎えしたのは、水戸徳川家 15 代当主の德川 斉正 氏(以下、德川 氏)と、NSGグループ会長の池田 弘 氏(以下、池田 氏)です。(ファシリテーター:株式会社チエノワ 代表取締役社長 田中 雅也)

―― 連綿と続く歴史の重みを背負い、精神を繋ぐ者。変化の激しい現代社会で、新たな価値を創造し続ける者。一見、交わることのない別々の道を歩んできた 2 人がいま交錯する。

時代を超えて受け継がれる「襷」の正体とは何か。形式や手法は違えど、その根底に流れる哲学は共鳴する。対話を重ねる中で 2 人が辿り着いたのは、事業や仕組みを超えたあるひとつの真理だった。

目次

人が道を弘めるのであって、道が人を弘めるのではない

田中 池田会長のお名前「弘」は「ひろし」ではなく「ひろむ」と読むことから、水戸徳川家の藩校「弘道館(こうどうかん)」が由来になっていると想像していたのですが、なにかご関係があるのでしょうか?

池田 氏 直接的な関係はありません。男の子に恵まれなかった祖父が、孫の私が誕生した時には大いに喜び、名前をつけてくれたそうです(笑)祖父に「なぜ『ヒロシ』ではなく『ヒロム』なの?」と聞くと、「弘(ひろむ)とは、自動的に広がるのではなく、自ら広めていくことだ」と教えられました。

直接の由来ではありませんが、私も弘道館とは縁を感じていました。実際に弘道館を訪れたのは、2010 年です。身分の壁を越え、最高学府への立身出世を可能にする道が、江戸時代の終わりにすでに構想されていることを知り、その思想に大きな衝撃を受けました。時代を切り拓く人材を育てていく場所がそこにはあり、時空を超えて出会えたことを未だに鮮明に覚えています。

德川 氏 弘道館にいらしてくださって、ありがとうございます。弘道館ができた当時 1841(天保 12 )年仮開館式、1857(安政 4 )年、日本には庶民の自発的な学びの場である「寺子屋」と藩が設置・奨励し、寺子屋と連携・補完しながら藩校の教えを庶民向けにアレンジした「郷校(ごうこう)」があり、その上の階級として「藩校」がありました。そのため、寺子屋の成績優秀者が藩校に願書を出し、口頭試問で合格した人だけが入学できる場所でした。

また、歴史的に見ると、実は「弘道館」が設立されたのは非常に遅かったのです。日本初の藩校は、1669 (寛文 9 )年に岡山藩で設立された岡山学校とされています。その後、藩政改革を進めていく中で、例えば九州では 1755 (宝暦 5 )年熊本藩の時習館、1773 (安永 2 )年薩摩藩の造士館、1781 (天明元)年佐賀藩の弘道館、1796 (寛政 8 )年中津藩の進脩館等々の藩校が次々と設立されました。そこで藩士の子弟に向けた教育が行われていました。

一方、その様子を見ていた水戸藩 第 9 代藩主 德川斉昭公は、「教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興す」という建学の精神のもと、全国の藩校のいいとこ取りして創立したのが「弘道館」です。

池田 氏 藩校としては日本最大規模で、学問・武芸から医学・薬学・天文学等の幅広い分野の教育を行い、現代の総合大学のような存在だったということから、德川 斉昭 公の教育への熱意や志がうかがえます。そして、「弘道館」には卒業という概念がなかったようですね。

德川 氏 一般的に藩校では定められた年齢、もしくは、仕事が決まった時点で卒業でした。しかし、弘道館では、生涯教育を原則とし、卒業がなく、40 歳以上になると通学は任意としていました。当時の平均寿命は 50 歳。足腰立つ内は勉強することを義務付けられ、百姓でも技術者でも仕事が終わった後に疑問に思ったことを弘道館で学ぶことができるシステムになっていました。人間国宝(重要無形文化財保持者)の方々が「芸道に終わりはない」と語り、最高峰に達してもなお続く、絶え間ない精進の姿勢と同じですね。

池田 氏 あの時代に、自ら学び続けられるシステムが構築されていたことに共感しました。実は、新潟の本部に「弘道館記碑拓本」(こうどうかんきひたくほん)を飾らせていただいています。

德川 氏 弘道館が独特なのは文武、つまり学問と武術だけでなく、精神面も含めた総合的な教育を目指した点です。德川 斉昭 公の書で、「游於藝(げいにあそぶ)」と刻まれた額があります。これは、『論語』の一節より抜粋されたものです。「藝」とは礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)の六芸を指します。「文武にこりかたまらず、悠々と芸をきわめる」という意味です。藩士がさまざまな教養を身につけられるよう、今でいう総合大学の側面を強調していたわけです。

さらに、弘道館と対になる施設として「偕楽園」をつくったのです。この 2 つで「一張一弛(いっちょういっし)(弓を張ったり、弛めたりすること)」を表わし、弘道館は一張、偕楽園は一弛に例えました。その背景には儒学の教え「時には厳格に、時には寛容に生きるべき」があり、詰め込み式の勉強を好まず、人間としての才能が開花するよう、情操を重視して藩士たちの教育を行なったのです。当時の封建社会においては開放的で進歩的な思想でした。この理念は、多くの藩士に影響を与え、教育の重要性を広めました。

茨城県水戸市にある弘道館の正面写真
早春の梅が満開の偕楽園を上空から撮影した画像

田中 士農工商という身分の分け隔ては教育の世界では一切ないことも示され、欧米でいうところのカレッジではなくてユニバーシティーということですね。その上で、「弘道館」という名称は、「論語」衛霊公(えいれいこう)第十五「子曰く、人能く道を弘む。道人を弘むるに非ず(人が道を弘めるのであって、道が人を弘めるのではない)」からつけられましたね。今回お二人をつなぐ「弘」という文字。まさに德川さんと池田さんがこれまで歩んできた道と重なり、必然のご縁を感じます。

創業と継承、地域と歴史 心に刻む想い

田中 池田会長のNSGグループは、1976 年 11 月の創立以来、「人々の幸福と豊かさを実現すること」を目標に 50 年間歩まれてきました。新潟県、福島県、東京都を中心に、35 校を数える専門学校、大学院大学、大学、高等学校、学習塾、資格試験スクールなどの教育機関と、病院や高齢者入所施設などの医療・福祉機関。さらに、専門教材・資格検定事業や、給食事業、商社、広告代理店、建設業、ゴルフ場、ホテル、アパレル、IT・ソフトウェア、給食、飲食、起業支援・アウトソーシング、コンサルティングなどの 101 法人へと広げられてきました。その原点には、どのようなきっかけがあったのですか。

池田 氏 実は私は新潟市の古町にある、1609 (慶長 14 )年創建「古町愛宕神社」と927 (延長 5 )年「延喜式」神名帳に式内社として名を連ねる船江神社を合祀する「古町神明宮」の後継者として生まれ、神社を守らなくてはいけない立場にありました。

以前は神社がある古町は大変な繁華街でしたが、シャッター通りになってしまい、お宮だけで生活していくことが難しくなりました。そこで、愛宕神社の宮司を継承するとともに、「何かをしなければいけない、第二創業をしよう」と 27 歳で決意しました。神社やお寺は昔から地域の教育機関(寺子屋)の機能もあり、その精神をベースに「人が育つ場」をつくろうと考え、境内の一角に学習塾など4つの教育事業を行う新潟総合学院を開きました。

神社というベース(基盤)があったからこそ、地域の方々から信用され、利用して貰えたと思います。それが、教育事業のはじまりで、現在に至るまでの私自身のコア(ブレない軸)を築きました。

德川 氏 池田さんといえばトレードマークのオレンジ色が印象的です。プロサッカーチーム「アルビレックス新潟」も立ち上げたと伺いました。こちらも「人づくり」の一環だったのでしょうか。

池田 氏 5 年、10 年、20 年と事業は拡大してきましたが、新潟県は優秀な若者がこぞって東京へ流出する「人材供給県」となっていました。「若者がいなくなれば、まちは滅びる」。「新潟県をもっと活性化し、魅力を生み出していかなくてはいけない」。

この危機感と使命感を抱く中、「アルビレックス新潟というプロサッカーチームをつくる。その社長を引き受けて欲しい」という依頼があり、スポーツチームが地域にとって物凄くインパクトのある事業になると感じ、お受けしました。結果的に観客動員日本一( 2002 〜 2005 年)まで育てることができましたが、そこまでの道のりは険しいものでしたね。

その後、サッカーだけでなく、バスケットボールや野球、レーシング、スキー、スノーボード等あらゆるスポーツへと発展しました。日本で初めて、アルビレックスという統一ブランドの総合型スポーツクラブをつくり、地方創生や地域活性化に少しでもお役に立てたことは大変うれしいことでした。スポーツを通して地域・地元が活性化し、新潟県に足を運ぶ方々の増加にもつながったのではと感じています。

アルビレックス新潟の試合を観に来た人たちで満席のサッカー会場

田中 Jリーグでの共通点もありますね。クラブ史上初のJ 2 リーグ優勝とJ 1 昇格を達成した「水戸ホーリーホック」です。ホーリーホックは英語で「葵」の意味であり、水戸徳川家の家紋「葵」を引用し、德川さんも後援会(葵龍会)の会長として、スポーツの力で街を元気にされていますね。それでは、德川さんはいつ家督を継がれたのでしょうか。

德川 氏 社会人 5 年目の 27 歳( 1986 年)で結婚し、二人三脚のスタートを切ったばかりのときでした。第 14 代当主であった父・德川 圀斉(くになり)公が亡くなり、突如として水戸徳川家を引き継ぐことになりました。もちろん何をすればいいか、どのように振る舞うべきかも全くわかりませんでしたが、当主としての初仕事が葬儀でした。あの日の情景は、今も鮮明に覚えています。

徳川ミュージアムには德川 家康 公から水戸家に贈られた茶器や刀剣、『大日本史(※ 1 )』を編纂した德川 光圀 公ゆかりの品々など、水戸徳川家伝来の美術品・工芸品約 3 万点と、旧水戸藩の史局彰考館収蔵の古文書類約 3 万点がございます。書物や衣類は温度や湿度を適正に保たないとボロボロになってしまいます。たたんである衣類を広げようとすると崩れ落ちるなんてこともありますから。膨大な数がありますが、徳川家というよりも日本の宝なのです。それを未来に受け継いでいくのが私の仕事だと思っています。

もし災害が発生した際には、真っ先に守るべきものが『大日本史』の「赤入(朱入本)」です。250 年近くにわたる壮大な事業として引き継がれ完成したものではなく、幾度となく修正を加えた「赤入(朱入本)」には、真実への探究を突き進めた覚悟と歩みが記されています。さらに、「彰往考来(しょうおうこうらい)」過去を明らかにして、未来をひらくという水戸徳川家が受け継いだ水戸学の精神が、そこには込められています。

幾度となく修正を加えた赤入(朱入本)の大日本史
※ 1 大日本史:1657(明暦 3 )年に水戸藩第 2 代藩主・德川光圀公が、全国の歴史家を集めて編纂させ、249 年の月日を経て 1906 (明治 39 )年に完成した全 397 巻(本紀・列伝・志・表・目録含む)の大規模な日本史書

池田 氏 いつ起きるかわからない天災の脅威、そして厳格な税制度。世界でも稀に見るこの厳しい日本という土壌で、6 万点を超える宝物を守り抜くという使命は、想像を絶する重圧との闘いでしょう。その 1 つの手段として、ファンドを組成して事業会社をつくり、その企業を上場させていく方法は取られてはいないのでしょうか。

私自身、「エンジェルファンド(エンジェル税制の優遇を受けたファンド)」や「旦那ファンド(ベンチャー投資促進税制の認定ファンド)(※ 2 )」 、「独立系ベンチャーファンド(財政優遇なしのファンド)」等を組成し、新潟での起業やイノベーションを支援する座組みを築いてきました。さらに、「(仮称)オレンジマーケット創設(日本の未上場株式市場)」に向けての挑戦も重ねているところです(※ 3 )。

德川 氏 「お殿様の家計」と言われることもありますが、実際は相続税が非常に大きく、決して楽なものではありません。池田さんがおっしゃったように、『新しいファンドを組んで、投資しながら拡大しないのですか』とよく聞かれますが、先祖代々伝わってきた文化財を守り、維持していくだけで精一杯です。そのため、東京海上日動の仕事で 45 年間もお世話になり、それだけでは足りず、常陸で林業も営んでいます(笑)

何よりも困難を極めたのが、2011 年の東日本大震災です。国指定史跡である水戸徳川家墓所(日本最大規模 15 万㎡、4.5 万坪の広さの大名家墓所)で 2 万 7 千個の石が壊れてしまいました。2016 年の熊本地震によって甚大な被害を受けた熊本城よりも修復箇所が多かったのです。落下した石がどこに位置していたものか、一つひとつ石材調書を作成しながら、崩れた部分は 3 Dで測量し、型紙を作ってパズルのように復旧予想図を制作していきました。

国や支援者の皆さまのお力によって 26 億円が集まり、改修することができました。先代からは「引き継いだときのまま、次の世代に継承せよ」と言われましたが、事業を続け、繋いでいくことの難しさを実感する日々でしたね。

国指定史跡、水戸徳川家墓所、茨城県水戸市、水戸、改修

※ 2 旦那ファンド:産業競争力強化法に規定された「企業のベンチャー投資促進税制」の認定ファンドの呼称。主として事業拡張期にあるベンチャー企業に投資するファンドであって、産業競争力強化法に基づき経済産業大臣から投資計画の認定を受けたファンドを通じて出資する企業が、出資額の 8 割を限度として損失準備金を積み立て、損金算入できる制度

※ 3 JNB政策提言:プライベートエクイティマーケット、日本の未上場株式市場「(仮称)オレンジマーケット創設」に向けた制度改革のお願い

日々の決断が人生の覚悟をつくる

田中 お二人とも、1609 年に創立された大名家と神社を守り、その精神と文化をつなぎ、今日まで 40 〜 50 年の月日が流れました。その挑戦と葛藤の連続の中で、お二人の心に刻まれたものとは、一体何だったのでしょうか。

德川 氏 私の曽祖父である德川 慶喜 公が、1867(慶応 3 )年に大政奉還をしました。その時、水戸徳川家 第 13 代当主の祖父 德川 圀順(くにゆき)公は家臣全員を再就職させたのですが、家臣が就職を決めるまで全員を養っていました。そのために、家宝や伝来品をどんどん売っていきました。

一般的にはガラクタから売るのですが、祖父は良いものから売っていました。当時売ったもののうち、3 点が国宝になっています(笑)父が祖父に「なぜ良いものから売るのか」と聞いてみたところ、「いいものは誰が見たっていいものなんだ。だから誰の手に渡っても大切にするから、その品物は心配しないでいい。ところが、自分たちにしか理解できないもの、もしくは、自分たちの家のターニングポイントになったものは自分たちにしか理解できない。だから自分たちが守るしかない。だから売らないんだ」と。

名古屋には豪華なものが飾られている徳川美術館がある一方、水戸には地味なものが飾られている徳川ミュージアムがあります。展示されている品物で家の歴史を語れるのは徳川ミュージアムだと思っています。

池田 氏 代々続く神社の当主となることを決意した際、非常に厳しい環境でした。しかし、継承だけではなく創業にも同時に挑戦し、「お宮を守っていく」というブレない軸を持ち続けました。だからこそ、「新潟で生き切る」という私のビジョン、自らの人生をかけていく使命に気づくことができました。現在、100 年以上の歴史を誇る長寿企業の事業再生も手掛けていますが、その方向性として、地元・地域をベースにして生き切る。もしくは、その地域の中核として事業を発展させ、グローバルに成長させていくことを考えています。私自身の軸も、長寿企業の軸(アイデンティティ)も地元・地域にあるということは間違いないです。

途切れることなき継承の系譜 私たちが未来へ運ぶもの

田中 2027 年、德川さんは財団設立 60 周年&徳川ミュージアム開館 50 周年、池田会長はNSGグループ創業 50 周年という大きな節目を迎えます。それぞれが未来へつなぐものとは何でしょうか。

池田 氏 「地方の衰退」が叫ばれる遥か以前から、「地方にこそチャンスがある」「民間が公(パブリック)を担う」という信念のもとに行動してきました。そして、「人づくり」こそが、地方の活性化、ひいては人々の幸福と豊かさの源泉であると確信しています。

教育によって人を育て、その人が活躍する「仕事」をつくり、生活を楽しむ「魅力」を生み出し、「安心」して暮らせる環境を整える。人づくりからまちづくり、そして未来づくりへ。この循環こそが人口減少と地方衰退に苦しむ現代日本の道しるべの 1 つになると願っています。そして、教育はコストではなく未来への投資です。

「人材」を「人財」へと変化させていくには 3 つの秘訣があります。1 つ目は、感謝と恩返しです。今ある自分は、先祖や地域社会、多くの人々のおかげです。その恩に報いるために働くことが、人間の務めなのです。

2 つ目は、「私」を捨てて「公」に生きることです。 私利私欲の追求には限界がありますが、他者や社会のために尽くす喜びには限界がありません。諸説ありますが、「働く」の語源は「傍(はた)を楽にする」だといわれていますからね。

3 つ目は、不可能を可能にする精神です。 「できない理由」を探すのではなく、「どうすればできるか」を考え抜いていくことです。これは神職としての祈りにも通じる、強烈な「念(おもい)」の力があれば、辛いことから幸せへつながる第一歩が見いだせるのだと思います。

德川 氏 池田さんは既に優秀な御子息(NSGグループ代表 池田 祥護 氏)へ事業承継されていますが、我が家はこれからです。德川幕府は勿論、室町幕府も 15 代将軍 足利義昭公で滅亡し、1955 年の結党以来続いていた自民党の単独政権が終焉したのも第 15 代 宮澤 喜一 氏で終了しています。15 代とは滅亡の星ですので、一日でも早く襷をたくしたいのです(笑)先人から受け継ぐべき精神と、次代へ託すべき使命。その答えは誰かに教わるのではなく、自身の足で歩み、己の人生をもってその意味を問い続け、経験の中で見つけ出してほしいです。

田中 2017 年に開催した「第 2 回地方創生経営者フォーラム 伝燈と志命in新潟」の襷は、「新潟燈火会」( 2018 年発足& 2019 年継続開催)へとつながり、全国を巡った上で 6 年ぶりに「第 16 回 地方創生経営者フォーラム 伝燈と志命in新潟 2025 」として戻ってきました。「ご縁の輪」 と「知恵の和」の積み重ねが新たなイノベーション(伝統と革新)を興し、時代や世代、そして地域から世界へとつなぐ土台(かけ橋)となる』と信じて、これからも挑戦を続けていきますので、ぜひ応援メッセージをお願いします(笑)

池田 氏 2016 年に初めて田中さんと出会って以降、幾多の困難を経て人間の成長とともに、事業も本当に大きく成長していると実感しました。今回のフォーラムで感じたのは、これだけ地元・地域を愛し、人づくりを通して幸せ(誇りとやりがい)と豊かさを生み出している方々が新潟にいると心強いということです。それぞれの知恵をお互いに学び合うことは物凄く大切であり、ノウハウや知見は世界共通です。まさに、数少ない日本が輸出できるソフトであると確信しています。

だからこそ、本プロジェクトには地域の宝であり、日本の財産である長寿企業の知恵を発掘し、その知恵を地域の未来を担う経営者に伝承し、地方創生の一助となるよう、突き進んでほしいです。日本のみならず、世界へと発信すべき教育事業となるので、初志貫徹でチャレンジし続けていってください。生涯応援しています。 

德川 氏 本当にその通りですね。東京海上日動をうまく活かして、30 名程度の小規模でもこまめに開催し、地域内における連携を強め、座組づくりと場づくりをしていってほしいです。同時に、日本の上場企業や大手企業の方々にも、もっともっと興味・関心を持って応援いただきたいと考えています。株式を持っている、持っていないに関わらず、日本の上場企業の約半分はファミリー企業です。世界的な躍進を遂げた企業、その根底を支えているのが地域の中小・中堅企業とそこで働く人々であることは、紛れもない事実です。

だからこそ、「世界規模の成長という果実は、地域のパートナー企業と人材による、見えない毎日の尽力のおかげ」ということを改めて感じていただければと思います。それでは、最後は德川家康公の言葉をお伝えしたいと思います。「われ志を得ざる時、『忍耐』この 2 字を守れり。われ志を得んとする時、『大胆不敵』この 4 字を守れり。われ志を得た後、『油断大敵』この 4 字を守れり」これからも応援しています。

【対談者プロフィール】

水戸徳川家 第15代当主 德川 斉正 氏

水戸徳川家 第15代当主 德川 斉正 氏

1958 年生まれ。1980 年慶應義塾大学商学部卒業後、東京海上火災保険株式会社(現・東京海上日動火災保険株式会社)入社。執行役員総務部長、常勤顧問を経て、2025 年よりエグゼクティブアドバイザー就任。公益財団法人徳川ミュージアム理事長、公益財団法人斯文会会長、一般社団法人漢字文化振興協会会長等を務める。「徳川ミュージアム」は、德川家康公の遺品である駿府御分物(すんぷおわけもの)をはじめ、歴代藩主やその家族の遺愛の什宝約 6 万点を所蔵する。そのほか、史跡建造物などの管理や歴代藩主の守り伝えてきた祭礼や歴史文化を伝承。2027 年の財団設立 60 周年・博物館開館 50 周年記念偉業に向けて推進中。

NSGグループ 会長 池田 弘 氏

NSGグループ 会長 池田 弘 氏

1949 年生まれ。國學院大學で神職を学び、1977 年に愛宕神社宮司就任。同年、新潟総合学院を開校し、理事長に就任。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了。アルビレックス新潟取締役会長、日本ニュービジネス協議会連合会会長、新潟経済同友会特別幹事等を務める。2006 年藍綬褒章受章、2013 年渋沢栄一賞受賞、2019 年旭日重光章を受章。NSGグループは、101 法人、従業員 13,020 人、国内外拠点 808 ヶ所、海外提携校 37 カ国 269 校 、学生・生徒・受講者 68,000 人以上、医療・介護・福祉施設利用者 15,000 人以上、総売上高 1,351 億円。2027 年にはグループ 50 周年を迎える。