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大川硝子工業所〜墨田の地で変化を恐れず、挑戦を続ける

オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~

石田:本日のゲストは株式会社大川硝子工業所代表取締役社長 大川岳伸さんです。

朝岡:今おいくつなんですか。

大川:今37歳です。

朝岡:大川硝子さんはガラスを扱っているのですか。

大川:そうですね。硝子の瓶を扱っています。瓶と名のつくものは全て扱っています。

朝岡:最近は、カラフルな蓋のついた瓶も最近は多いんですか?

大川:実は最近というよりも、40年くらい前からこの色で展開しているんですよね。色合いもよく見ると昭和レトロな感じですよね。一時期廃れた時期もありましたが、時代が巡ってきて、今受け入れられています。

朝岡:家庭はもちろんですけど、お店などでも見ますよね。

大川:そうですね。こちらはハチミツ養蜂場のお客様向けに作られた商品もあります。ただ、使い勝手がいいので、一般向けにキッチンウエアとして販売されてもいます。

朝岡:蓋に穴が開いているものもありますが。

大川:去年くらいに瓶で飲み物を飲むのが流行り、ストローをさせるものも面白いかなと思い作ってみました。しかし、実際そんな売上が伸びなかったんです。

瓶と蓋の穴で他に何かできないかと考えたとき、編み物する人って毛糸がコロコロ転がって不便だろうなって思ったんですよね。そこで編み物関係のお店に営業をかけて、編み物と瓶のコラボレーションも実現したんですよね。

朝岡:改めて、大川硝子の強みは何ですか。

大川:私たちはもともと製造業から始まっています。60年くらい製造業をしていたので、卸から始めている他の会社さんと違い、製造のノウハウが豊富にあるのが強みですね。依頼があって、ただ予算はあまりないって時に、専門的な知識を活かしたより良い提案ができますね。

石田:大川硝子さんの創業から現在に至るまでの経緯をお教えください。

大川:大川家のルーツは長野県にあります。初代大川清作が明治5年に長野で誕生して、18歳の時大志を抱いて上京したんです。鐘ヶ淵紡績(現在のカネボウ)に火夫見習いとして入社しました。

その後、硝子工場に入社し、硝子業に従事し始めます。その後、2代目となる大川清造も硝子業に従事し、親子で硝子業に取り組みました。大正5年に、現在のスカイツリーがある場所の目の前で、大川硝子工業所を創業しました。

朝岡:大川硝子で受け継がれている社訓などはありますでしょうか。

大川:熱心は事業の精神なり 常に笑顔で親切に 努力なくして発展無し”という言葉が創業当時ありました。これを見ると古くから続いている会社なんだなと実感しますね。

朝岡:事業形態はどのような形になっているのですか。

大川:もともと手で造るとこから始まり、徐々に機械化が進み生産量も増えてきて、規模も生産も拡大しました。

しかし、昭和50年頃、全国的に公害が社会問題のひとつでした。硝子を造る際、火や燃料を使い、煙や排ガスが出ることもあって、硝子工場も規制の対象のひとつになってしまいました。移転したり、設備を整える手段もありましたが、昭和54年に工場は閉鎖しているんですよね。

石田:製造業から販売へ移り、社員さんの求められるスキルも変わってきたんですか。

大川:今までは、お客様から受ける仕事で賄ってきたが、今後は自社から発信する能力が問われると近年痛感しています。発信することができる基礎となる人材が確保できればと思います。

営業力もそうなんですけど、硝子瓶は見方によって色々な使い方が出来るんですよね。一個の使い方に限られない、柔軟な発想があればなと思います。しかし、アイデアだけでは商品として成り立たない時代なので、まとめるような、デザインする力、魅せる力が必要だと思います。

決断 ~ターニングポイント~

「決断・ターニングポイント」会社にとっての転機、経営者自身のターニングポイント。その裏側に隠された物語とは。

大川:長い間製造業で(従事してきて)ちょっとずつこれからよくなっていこうという時に、公害問題があったりとかして操業を停止せざるを得なかったんですけれども。

単に公害問題ということではなくて、色々移転というのも国とか行政の指導で移転していたんですけれども、移転できなかった理由の一つとして、その当時僕も思い出せば歴史でそんなの聞いたかなと思うんですけど「持ち家制度」というのがあったんですね。

朝岡:持ち家?

大川:はい。従業員の方に家を持たせて、仕事と家庭をうまく両立できるようにというか、そういうのがあって家を持っている社員が多かったんですよね。

その中で移転となると、従業員の了解を得ないと、要は職人がいないと瓶は造れないので違う場所に行って(素人を)採用するってわけには行かないんです。技術がどうしてもね。従業員の了解を得ることもできずに、移転もできず操業停止せざるを得なかったというのが理由で、そこはなかなかつらい決断だったと思いますね。

朝岡:工場があって、働いている職人さん達にお家を持ちなさいと、だからわりと工場に近い所にお家持ってて、移転するとなるとお家をどうしようかって言うことになっちゃって、結局移転が難しくなって、じゃあ操業停止だねっていう…それは会社にとってすごく大きなことでしたね。

大川:あと当時、そっちのほうが主流になってきてしまっているんですけど、樹脂容器ペットボトルとか新しい包材がどんどんあったので、ガラス瓶がどんどん売れてるかというとそこもちょっと疑問に残るところではあったんですね。

世の中の流れから見ると操業停止も一つの選択だったのかなと思いますね。

朝岡:確かにね、大きなポイントでしたね。

続いては大川硝子の5代目大川岳伸にとっての、ターニングポイント。現在37歳という若さで長寿企業の代表を務める男が、家業を継ぐまでの経緯、その決断の裏側に迫る。

大川:僕は大学まで出させてもらってその後すぐ家の仕事に入ったわけではなくて、外で働いている期間があったんですね。若いんで、野望じゃないけど夢もあって飲食店で働いてみたいやってみたいなって言うのもあったんで、勢いで脱サラをして飲食店で2年間くらい調理場で働いている時期があったんです。

でもやりたいこととできることっていうのは違うってことにぶつかったりして、その中で僕は4人兄弟で僕以外全員女なんですね。姉2人に妹1人で。僕しか(家業を)継ぐ人が居なかったんです。

父も当初は長男なんだから継ぐのは当たり前という考えだったので会社に入ったんですけれども、自分の子供にはそういう思いをさせたくないというのがあって、「継ぎなさい」というのは一切言われなかったんですね。

だけど、考えていく中で他の仕事もうまくいかない、家は誰も継ぐ人が居ないとなると自分が継いでここで頑張るしかない、頑張ろうと言うふうに思いが変わって家の仕事に入ることになりました。

朝岡:いざ大川硝子入ってそこからまた色々ご苦労もあったりしました?

大川:入社当時は何十年もしている下町なので、上に家があって下に会社があったので、物心ついた時から硝子を扱っている会社という事はよくわかっていたんです。

ただ、どういう風に仕事が回っているかは幼いので全く理解できてなかったんです。入っても、会社がどのように運営されているのかがわからなくて見てるだけというところがあったんです。

入社して2~3年の間にメインの製造を委託していた工場が閉鎖してしまったりメインの取引先が倒産してしまったり、入社して数年がすごく激動の年だったんですね。入社して間もないので自分もどうすることもできなかったんですね。

当時社長、今は会長の自分の父が日々奔走している姿をただ見ているだけで自分は何もできなくて、自分はここで何をすべきなんだろうかとその2~3年の間は葛藤してましたね。

朝岡:入社した途端に荒波に揉まれちゃってるわけですよ。溺れそうになっちゃったでしょ?

大川:溺れそうになりましたね。大変な時期もあったんですけど、後継者問題が深刻な中、家業に入ったこともあり、お客さんも仕事を依頼したくてもいつ潰れるかわからない会社に依頼できないですよね。ですが、「どうやら大川さんのとこには跡継ぎがいるらしい」「とりあえず続くことは確かだから仕事を頼んでも大丈夫だ」という感じで、そういった依頼は増えてきたことは事実なんです。

その時に、同業各所に思われているのであればその期待にちゃんと答えなければいけないと、だんだん自覚が芽生えてきたところはあります。

石田:最初から大川硝子さんではなくて前職の経験を積んでらっしゃったんですけれども、そこでの経験が活かされた出来事は何かありますか?

大川:大学時代もそんなに勉強はできなかったんですけれども(笑)食品製造工学という理系の学部だったんですよ。食品と言っても所謂調理師とかではなくて、例えば瓶詰めの方法とか食品工場で働く人のために勉強する大学で学んでいたので割りと近いことを学んでいたんですね。

大学出てすぐの時は営業職で、ルートセールスではあったんですけれども、お客さんのところに行って値段の交渉とかしたり、また飲食店では料理をする仕事をしたり食べ物を扱ったりしていたので、会社に入って数年間はよくわからなかったんですけれども、だんだんこれまで勉強してきた知識が結構活かせるなと途中で気づいたんですよね。

自営業は「良くも悪くも好きなようにやっていい」というところがメリットなんじゃないかと、それで人様に迷惑をかけず仕事として成り立つのであればそれはどんどんやっていくべき何じゃないかということに気づき始めてから自分の過去の経験とかそういうのを活かして仕事に取り組めるようになりましたね。

朝岡:結果的にはいいタイミングで入社していいタイミングでいま社長におなりになっているということがあるんじゃないですか。

大川:楽して(社長に)ならなくてよかったと言うのは思いますね。色々自分で経験して疑問に思ったりとか壁にぶち当たったりとかがあった中で自分で解決策を見つけていく、そういう仕事の取り組み方みたいのがやっと家の仕事に入ってから学べたかなと思います。

言魂 ~心に刻む言葉と想い~

「言魂」心に刻む、言葉と想い。先代家族から受け取った言葉そして現在自らが胸に刻む言葉とは。

石田:続いては言魂ということで、先代や祖父母から言われた印象的な言葉そこに隠された思いを伺ってい行きたいと思います。

大川:父か母だったか記憶は定かで無いんですけどこのまま継いでほしいということで継いだんですけれども、ある時「硝子業にこだわらなくても構わない」と言われたような気がするんです。別のことでも良いけど今ある「この土地で仕事を継続してもらえたら良いな」という旨は言われたことがあって。

家業を継いで100年くらいの企業になると伝統みたいなところがくっついてきて、重圧(伝統)に負けてしまう部分もあると思うんですけど、その一言が今ある土地・今ある会社が違うものに変わってしまう方が先代の人は悲しいんじゃないのかなと思う。

その場所で新しい事業でもなんでも続いていく方が大事なんだよと言うことを言いたかったんじゃないかなと思って、その言葉で少し自分も楽になって少し前向きに仕事に取り組めるようになったなと思いますね。

石田:実は私今4ヶ月の娘がいるんですけど、哺乳便はプラスチックではなく絶対「びん」なんです。安心して使えるのもあるし煮沸もできて清潔感がありますので、便の良さをぜひこれからも引き継いでいただきたいと思いますし。

大川:海外だとプラスチック容器とびんの容器は上手に棲み分けできているんですね。日本もいずれそういう時代が来るんじゃないかと思ってて、そういう時にいつでも迅速に対応ができるように準備はしていたいと思っている。

朝岡:いろんな対応をするって意味では、今までの対応じゃない対応なんかもお取りになると伺ったんですけどね。

大川:去年くらいに個人のお客様からメールでお問合わせが来て、近々結婚するけどオリジナルの硝子の写真立てを引き出物として用意したい、それに江戸切子を施したものを用意したいと。江戸切子の職人は自分のところで知り合いがいるので大丈夫なんですけど、切子を入れる前のプレーンの硝子の写真立てがどこを探してもないので、1から作りたいのでそういう製造をお願いできますか?という話が来たんですね。

全然びんじゃないのですが、硝子ということに変わりはないので製法としては色々ありますから、びんというのは手吹きという方法、機械で作る方法、その間に半人工で作る方法といってたい焼きの型を使って作るような硝子の製法もあるんですね。

その製法だとロット数も少なくできて希望の形が作りやすく、近隣に硝子の町工場があるので、協力して依頼を受けて無事引き出物として使っていただいて。

後々その方から手紙を頂いて、お礼の手紙が来たんですけれども実は10社ぐらい問い合わせたけど全部断られたけど、最後、大川硝子さんだけが引き受けてくれて今回形にできて本当に有難うございますと手書きの手紙をくれたんです。ほんとにいい事したなと言う思いになりましたね。

貢献 ~地域、業界との絆~

地域や業界との絆。企業が事業を続けていく上で欠かせないもの、それは地域との関わり。長寿企業が行っている地域貢献、そして業界で行っている取り組みとは。

石田:今、大川さんご自身が行っている地域貢献活動みたいなものはございますか。

大川:地域貢献ほどではないんですけれども、墨田区は僕みたいに跡継ぎ問題がある中で事業継承する方が多いんですね。墨田区が跡を継いでいる若手経営者のためにビジネススクールを開講していて、1年間毎月1回講義を受けてレポートを提出したりグループワークをしたりして1年間でリーダシップを学んだり経理のこととか経営戦略のこととかを勉強する授業うけてます。

そこには同じような年の事業継承している同じ世代の人たちが居て、その中で異業種の交流も図れて、先輩後輩かわりなく仕事の話をできるような環境がある、そういったところで地域との関わっております

朝岡:下町の中小企業はこれからどう生きていくか問題と感じている方が多いんだけど、そういうビジネススクールとかあるいはこの場所で続けるっていうのは大川さんにとっても感じることが多いと思うんだけど…

大川:町工場に跡継ぎが居ない元気が無いと聞くわりに、結構みんな熱くて、懇親会という名の飲み会ではケンケンカクカクのこともありますし。ビジネスが生まれたりして異業種と絡み合って新商品を作る、「墨田フロンティア塾」というんですが、私で13期生になるんです。

本当に皆さん熱くて、こんなに熱かったら日本の景気も良くなるんじゃないかと思うくらい、皆さん熱心にやってますね。

朝岡:そうですか。

NEXT100 ~時代を超える術~

「NEXT100年」時代を越えるすべ、次の100年に向け長寿企業が変えるべきもの、変えないもの。会社にとってコアになるものとは。100年先の電伝承者へ届ける思いとは。

石田:最後に、次の100年に向けて変えるべきもの変えないもの会社になってコアになる部分を教えていただけますか。

大川:今100年続いてるっていうのは色んな事情があれど、先代たちが頑張ってきてくれているから続いてきているわけなんです。100年やってきているから得られる仕事というのもあるので先代たちへの感謝の気持ちはすごくあります。

ただ感謝の気持ちがあればこの先というのは自分が思ったように、自分が考え抜いてやる新たなことであれば僕はどんどんやればいいと思っているので、この先どれだけ100年200年と続くかわからないですけど一生懸命好きなようにやればきっとうまくいくんじゃないかなって思っています。

朝岡:お話を伺っているとね、大川さんご自身が大川硝子工業所の中でものすごく転換する時期に5代目になって、今変えている真っ只中だと思うんですよ。だから100年後って言われても実感わかないし、今変えてるからちょっとそれ待ってて、というところが本当かもしれませんね。

大川:(笑)そうですね。今本当にその事で頭がいっぱいというか、本当に一生懸命やっていかないとと思ってます。

これまでの歴史・伝統への感謝を忘れずに今後も墨田の地で変化を恐れず、挑戦を続ける。大川硝子工業所5代目大川岳伸。

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