永島医科器械 ~信頼と信用を軸に医療界に貢献する~
オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~
今回のゲストは、永島医療機器株式会社、5代目代表 平尾泰明。
初代永島廉平(ながしま れんぺい) が東京・日本橋で「いわしや永島器械店」を創業し、耳鼻咽喉科・気管食道科の医療機器製造販売業を開始。
昭和16年には現在の社名である「永島医科器械株式会社」に改称。
終戦後の昭和21年には、現在の東京都文京区本郷にて本社業務を再開し、その2年後、東京・本郷に第一工場と江戸川区にも平井工場を開設した。
その後、昭和24年に、オージオメータを製造と販売を開始し、翌年には国産初となる、耳鼻咽喉科診療ユニットの製造販売、昭和33年には、手術用顕微鏡の国産初の製造販売を行った。
そして、平成22年には世界初の機能を持つ内視鏡手術ナビゲーターの開発により第5回モノづくり 連携大賞(中小企業部門賞)を受賞し、また、経済産業省が毎年発表している中小企業・小規模事業者に送られる「がんばる中小企業・小規模事業者300社」も受賞。
創業から受け継がれるお客様との信用・信頼を軸に、最先端技術で、日本の医療界に貢献し続けている。
今回は、そんなの永島医科器械の5代目代表 平尾泰朗の言葉から、長寿企業の持つ知恵、物語に迫る。
平尾:まぁ長い歴史の中で、相手が全部ドクターあるいは大学病院の教授なんですね。
で、当社は我が国で初めて耳鼻咽喉科の会社として107年前に創業したもんですから、その間での先生の繋がりというものがパイプとなって信用を築いてきているということが当社の強みです。
これ病院独特の商慣習ではありますけど、なかなか先生方とお付き合いし始めると、新規参入がなかなかできにくい販路なわけですね。ですから当初は長年ずーっと築いてきた、最近になって近年2番目の競合他社が創業50年、3番目の競合他社が創業20年っていうことで、その3社がビック3になるんですけれども。その107年、50年、20年その差でもって私共は早めに着手してるもんですから、その間先生方との信頼関係も結ばれているということで、新規の者が売りに行ってもなかなか先生にも会ってもらえないという感じなんですね。
で、病院はご存知の通りドクターは診療時間中は会えませんので、昼の休憩時間とか診療後の終わった後にしか営業活動できないということなんで、まあほかの業者なんかも薬屋も含めて、医療機器メーカーがみんな廊下あたりで待って待機しているわけです。何時間も。
で、先生が出てきたちょっとの合間を狙って新しいのを売り込もうとするけれども、古いうちなんかは会ってくれるけれども新規の方はみんな会ってくれない。で、書類とか名刺とかカタログとかを事務局に預けといてくれだとか、ナースに渡しておいてくれだとか言ってなかなか会えないと。そういう特殊な関係がうちの強みでもあるし。
医療現場の先生が普段使われてる、オペとかで使っていらっしゃる器具とか、そういったものを全部先生から改良・改善の情報をもらって、それをもとに共同開発して製品化して売り出す、ということを長年してきているもんですから、なかなかそういったものを崩せない先生も(いらっしゃる)。新規の方に頼みづらいということもあって。
人によって手の大きさ、体格的なもの骨格的なものが違いますので、同じもの(器具)でも先生によって、「短くしてくれ」「長くしてくれ」「軽くしてくれ」色々な要望がありますね。
で、同じようなものが海外からも入ってきますけれど、海外のものはやはり・・・外国いわゆる外人のサイズですから、やっぱりそれを日本人向きに・・・最近の日本人も大きくなってきましたけれど、まだまだそのままは使えないっていうとこがあるんで。そういった細かい微妙なものは、オプション的にオーダーメイドにしなきゃいけないというところですかね。
器械を生み出す職人の技
もうこれは供給者側と使用者側のなんですけど、いわゆる供給するのを作る方は刀職人のようなもので、いわゆるそういうオーダーメイドは本当に鍛冶屋みたいにして叩いて作って、手作りで。ある程度は最近機械で量産できるようにはなってますけど、そういうオーダーメイドのものは本当に刀職人の匠の世界に入ってるんですね。
そういう方がうちも下請けに2、30社ありますけど、そういった方々も最近高齢化している。そして次に世代に継ぐ人もいなくなってきている。これは医療業界全体的な問題になってきています。「こういう人たちがいなくなったら日本のそういう繊細な世界一と言われている医療機械のメスとかハサミ、ピンセット類がなくなるよ」と。政府はなんかバックアップしてそういうものを育成する制度なり、学校を作んなきゃいけないんじゃないかっていうのは4、50年前から言われているんだけど政府はなかなか中小企業、零細企業ですから、ほとんど5人10人の会社ですから、割とほったらかしで。
かたや世界的なIPSだのなんだ、ダヴィンチだとか世界的にアドバーの上げやすいものに、近代医療に力を入れているけれども、そういうローテクの中小企業はないがしろにされている。いずれこれは問題になってくると思いますね。我々はそれをどうしようかってことで、最後はドイツのように、あそこは制度があって大学行くとか職人になるとか、工業国ですから分かれてて。その職人がちゃんと育成される学校があり、働く場所が表敬されている。
だからドイツも刃物で有名ですけど、ああ言ったちゃんと制度が、マイスター制度があればいいんですけれども、それも我々業界で提案しているんですけれども、マイスター制度もない。だから、だんだんこう・・・そういう匠の、日本の誇る匠の技術がなくなっていくのではないかと思います。そういうことを本当に危惧してますね。
ここからはテーマに沿って長寿企業の持つ知恵、物語に迫る。
最初のテーマは、「創業の精神」。
創業者の想いを紐解き、家訓や理念に込められた想いに迫る。
平尾:創業者の永島廉平、初代社長ですね。が、「人間皆福祉のために医界に貢献する」というようなことを言っております。これを社是としているわけなんですけれども、「医界」というのは医療業界のことなんですね。
「医療業界では儲けは二の次にして社会・福祉に貢献しろ」ということを言い残しております。それを掛け軸のようにして今でも会社に飾っています。
せっかくメーカーとして医療業界に創業したので、それを通じて医療福祉のために貢献しようと。そういったことをしていれば利益は自然についてくるもんだからって。こういう時代だからまずは利益ありきじゃなくって自然にそういうことをやっていく。特に医療業界っていうのは流行とかそういう商品を売っているわけではないんで、人間の健康とか生命を維持している企業なんで、そこから理念を走っているということなんですね。
理念の浸透
いつも何かに触れて、会合とか社内の会議とか必ずそれを掲げたようなテーマを必ず表紙につけてみたり。で、社内の回覧物もつけてみたりして、常にこう社員の目に触れるようにやってます。
で、最近思ったんですが、名刺の裏にもちょっと色を変えてつぎ込むのもいいかなって思って。ちょっとさっき車の中で思ったくらいで、それも一つのアイディアだなと思って(笑)なかなか社是を名刺に入れているところも少ないと思いますので。
屋号「いわしや」の由来
医療業界といわし、魚のイワシを売ってるんですけれども、おおよそ関係のないように思われます。で、初代社長の永島廉平もはじめは「いわしや長島商店」という名前で出発して後に永島医科機械という名前に社名変更してきておりますけれども。
イワシっていうのは、もともと医学っていうのは日本の場合は昔は東洋医学いわゆる漢方だったんで。で、漢方医学で大陸から薬とか大阪の商業街・・・商業港ですか?大阪港に入って、それを帆船、当時「紀伊國屋文左衛門」っていうんですか?あの大型の帆船を持ったひとが江戸に運んで。で、江戸の街で売ってたと。そういうルートがあったわけですね。
で、そのころだんだん漢方東洋医学から西洋医学に変わって、まあその西洋医学っていうのはオランダの出島の中に初めてオランダのシーボルトという方がついてきて、そこで蘭学を始めたっていうことから始まっているわけなんですけれども。
で、国内の人たち初めてその出島に行って今までタブーとなっていた人体を切り開いて、内蔵を見たり骨を見たり・・・まだ漢方にはないですから。上から薬塗るとか飲むとかそういう医学しかなかった歴史の中に、ひとの人体を切り開くっていうのはびっくりしたわけですね。
で、そこから学んでたときに、開くメスとか刀とかやはり必要だということで。で、たまたま薬の大問屋が東京に運んでいたときに、ちょうど大阪の境港が今でも刃物関係が盛んな商業地なんですけれども、そこに匠の職人たちがいて、そういうものを作り出した。
で、これからはもう東洋医学は西洋医学に変わっていくんだということで、そういったものを作ってやはり売れるかどうかわかんないって、とにかくたくさん船に積み込んで江戸に向かったと。で、その時にイワシの大群が、イワシっていうのはこうたくさん、何万匹となって群れをなして表面をこう・・・泳いでますよね。それに当たったときに、太陽に当たったように閃いて、まるでそれが昇り龍のように虹のように光ったんで、「これは縁起がいい、きっとこの医療器械は、江戸に持ってったら売れるぞ!」っていうことで、事実本当に売れ始めたんで、縁起のいいイワシということで名前をつけて。
で、関西・京都・それから東京・・・大体6系統くらいその漢方薬から転身して、東洋医学から西洋医学へ移っていった商店がいわしや何とか、いわしや佐々木商店、いわしやなんとか・・・松本商店とか色々みんな付けて始まってるんですね。そのくらい今は全部医療器科に最近は名前変わってますけど、そんなとこからイワシ、縁起がいいってことで付けたんですね。まあそれを知らないって人たちはいわしやいわしやって本郷でも未だに全国に30社くらいイワシの名前をつけてる会社があります。メーカーではなくほとんどがディーラーです。それは。
で、未だにその看板付けてるんですけども。知らない人、イワシっていうのは、ある見方は、ちょうどメスかなんか店頭に並べてあるとピカピカ光って、長さがこーゆー長さなもんですから、いわゆるイワシをめざしを干してあるふうに見えるから、それでイワシって言うふうに見えるんだと言うように一般の人は誤解してたようですけど。それは俗説であって本音はそういうことだと言う事ですね。
企業ロゴに込められた想い
私どものロゴというか社章ですか?あのマークを見てわかりますけど、象なんですね。で、よく見たら象の顔の部分を昔は絵の描くパレットはこのくらいの形をしてましたね。ピカソの絵なんかに出てくる。あのパレットの上に象のマークを乗せたと言うイメージでできているんですね。
象はご存知の通り「哺乳類で鼻が長くて大きくて、耳が大きな」ということで耳鼻科と言うことの象徴になる、と言うことで、しかも大きくて力持ち、だけど優しくておとなしくてインドなんかだと神様扱い、尊ばれてますけど、そんなイメージで非常にいいんじゃないかと思って、初代の社長がマークにした。って言うことになっております。現にあれがうちのマークになってから、街の耳鼻科の先生方でも、それをもじって象のマークを看板に何とか耳鼻科って言うのをつけているお医者さんも結構いますね。
行った改革
古い会社なだけに私が入ったとき非常に定年制がなかったんでしょうか。35年前に入りましたけれども、70歳80歳の人がいっぱい働いてるんですね。おじさんたちが。その人たちが電話をとっているような状態の会社だったんです。いつもドクターから怒られて。
普通会社にかけたら交換手の女性の若い声が聞こえるのに、おじさんでボケたような声が「何やってんだ」と随分と怒鳴られたことがありました。
私どもが入ってきて、「受付ぐらいは女性を置きましょうよ」と上の方に言ったくらいで、非常に改革もなくで。当時はうちの1社しかなかったですから。本当に殿様商売で「売ってやる」と日の丸親方で「売ってやるから買いに来い」って言う営業をしてたんです。そんなことを2代目の長島二郎課長は感じて、私の入るきっかけになったわけなんですけれども、とにかくこの古い体質、ぬるま湯の体質を改革してくれと、違った分野で働いた人に入ってもらって、「新風を巻き込んでくれ」と言うことで入ったんですね。
そういった状態の会社でしたから、何もなくて当時は皆さんお分かりかわかりませんけれども、コピーなんかはみんな青紙で液体の中を通すようなものだったり。それからタイプライターと、今みんなパソコンですけどその当時はみんな漢字タイプライター。ガッチャンガッチャンってこうやる・・・そういうもんだったんで、他の会社とかは逆に、電話は変える、コピーは入れるワープロは入れる。ありとあらゆることで近代化していきました。
で、もっと大きなことをやったんですけど、古い高齢の方がいっぱいいらっしゃるんで、「うちは大会社一流会社じゃないんだからそんな制度は要らないよ」と言うことで、みんなほとんど反勢力で潰されちゃうんですね、計画が。で、また1人で戦ってもなかなかどうしようもないので、あまり他部門の合理化はせずに当初はそういう周辺機器、インフラ職場環境を変えていくようなところから、だんだん改革していった。その後私の代になってからいろんな抵抗でできなかった事、一気に30年できなかったことを3年の間に全部やろうと思って今どんどんスピードアップして、ありとあらゆることをやっています。
決断 ~ターニングポイント~
続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
会社の発展と共に訪れた過去の苦難、それらを乗り越えるべく先代達が下した決断とは?
平尾:私は入社前ですけれども、私が入社する5年位前に創業者が亡くなってるんですがね。
過去の話を聞くと、やっぱりカリスマ性のある創業者が亡くなった時は息子たちが3人しかいなかったので、その3人が相当な危機だったと思います。
廉平さんの子供が男性が7人女性が1人の8人兄弟。昔は多かったんですね。8人の子供でその中の1番最初の永島一郎っていうのは、早く病気でやっぱり亡くなった。で、治郎っていうのが私の義理の父になりますが、2代目として継いでいった。
3番目4番目5番目が、やっぱり病死と戦争で戦死でってことで、残ったのが2番目6番目7番目。この3兄弟でずっと戦後やってたんですね。で、まだその頃はまだ競合他社もまだ出てきなかったんで、うまく環境に支えられた、と言う感じだったんです。
で、その後私が入って、先程言ったように会社はのんびりしていて、悪く言えば会社批判になりますけど、のんびりとしていわゆるぬるま湯につかってるようなあまり競争心のない企業だったんですけれども。その中でやはり入る前だったんですけれども、1つ後で聞いてみると戦争の時、東京大空襲がありましたから、みんな危ないと言うことでみんな郡山に工場を移して疎開してたわけですね。
で、そこで乗り越えたわけなんですけれども、これはまた医療業界の特徴で戦中特需というのがあって、戦地へ行く人のために医療機械を持っていかないといけない。衛生兵とか看護婦は行きますよね戦地へ。それを持っていく医療器械が特需でぼんぼん出たんですね。
で、それを一生懸命作って供給したと言うことで、戦中特需と言うことで、ずいぶん他の業界の商売はだめな時に、非常事態に医療業界は活躍したと。それはまた相当会社の利益は出たと思います。
それは太平洋戦争の時の話です。太平洋戦争が終わって、また本郷に戻ってきて、また再開したんですけれども。
で、その中でたくさんタイムポイントがありますけれども、1番身近なのはこないだ東北の大震災3.11の時ですね。
いろいろ私どもは下請けに出しているわけですけれども。メイン商品の「ユニット」って言う治療の機械があるんですけれども、そこに患者が座る治療椅子。それを専門に作っている業者さんが、専門の業者さんが気仙沼にありまして。しかも海岸沿いにあった工場ですから、それが全部流されました。跡形もなく。
まあ人は一人も亡くならなかったんですけれども、逃げられたようですけれども。それで、それが(工場が)1社しかなかったもんですから、椅子が供給できなければ大変だと。ユニットはまた別のところで作っているからいいんですけれども、ユニットが売れても椅子がなければいけませんので。で、それは困ったと言うことで相当再起における1つの転換期だった。
それをどう乗り越えようかということで、もう向こうは被災地ですから、まず生きることが先決ですから食料を送ったり、工場を建て直すために資金がいるということで、我々は資金活動、人も助けに行ったりして現地に行ったわけなんですね。
で、今度は二度とこういうことに遭わないように丘の山の上に、前よりも大きな倍位の大きさの工場を建設した。でたまたま政府が福島の援助資金を出していたので、災害のためのその資金を使い建て直して、一年以内に無事稼働したんですね。
その一年間と言うのは椅子は無いために修理で預かっている椅子とかやむをえなく、ある意味ではさっきの3社のうちの競合他社ではないんですけれども、似たような科から調達するのが早いと言うことでそれを流用してつないだと言う事ですね。その間に工場を立て直したと。
うちのノウハウをもっている下請けですから、すぐ同じものを作るためには、いろんなものがあるわけなんで。設計何かとかもあったわけなんで他の会社に頼んで、頼んでもできない。でいくつか当たったんです。「あと半年かかります」とか言う事ですから「そんな待てない」と言うことで似たような他の科の全然違う分野の似たような椅子を買って、ちょっとアレンジをしてとりあえず供給したということがありますね。
震災の苦境から生まれた絆
経済面でも、いわゆる食糧とか生活用品何もないですよね。それから人材も送り込んで、再稼働するために努力しました。
その時にうちから出向した工場の二人の社員がそのままそっちに転職しちゃいました。その後。そのくらい工場に要員を貸したんですよね、「1年くらい出向して一緒に手伝って来い」と。そしたら向こうに気に入られた。もともと、向こうの東北の出身だったんで、そこの正社員になって活躍しています。
そういう関係があるもんですから、今は女社長になりましたけど非常に感謝されて、非常に丁寧に毎年あいさつに来られるってことでございますね、「感謝してます」ってことで。
だいたい1製品1社に100%出してるもんで、ですからまたこういう災害国であり、世界的な災害国地震国でありますから何が起こるかわからないっていうことなんで、やっぱり同じようなもの機種を変えてもいいから2か所に分ける。東北かたや九州とかってことで。こっちはだめでもこっちでっていういわゆるバックアップ的な要素で2つに分けるべきだと思いました。
同じものを作らせると競争になっちゃうので、A機種はこっちで、それに代わるB機種はこっちでというように分けて分散して生産して供給するという考えがこれからは必要だと思いますね。それがひとつの知恵になって社員も含めて全員が痛い思いをしてそれは痛感してますね。
6代目平尾泰朗のターニングポイント
平尾:なかなか特異な経歴でして、普通の文科系の大学を出て就職したわけなんですけれども、皆さんもご存知のように50年以上前の話ですから、まだコンピューター自体が入ってなくって、わたしが就職した一部上場の化学会社が日本で4番目か5番目で初めてIBMのころに360(サンロクマル)っていう機械をいれて会社の近代化に向けていたとこだったんですね。で、私がそこに入って、理科系の大学の人もいたんですけれども、ただ理数系に強いってわけじゃなくて、プログラマーとかシステムエンジニアっていうのは色んな性格を総合的に兼ね備えてなければいけないということらしくって。
ちょうど昭和41年の就職でしたから、その時は就職難でほかの会社はほとんど採用ゼロ。その会社もゼロだったんですけれども、そこで取引のある各会社の役員さんとかの息子さんだけは内密に採るってことで、その時我々の同期で10名しかとってもらえなかった。
その中に私は入ってまして、IBMの約3時間くらい試験をやらされましたね。それで判定が出たら、その国立の理系の人でなくて私が一番システムエンジニアに向いているということがわかりまして、そのコンピューター導入して近代化するって言うことで社長から指名を受けて、1年間会社に来なくていいから「国内留学」ということでIBMに行かされて。当時IBMではまだ情報処理の資格は国の国家資格ではなかったもんで、各企業がIBM・日立・富士通はそれぞれ自分の社内の資格パスポート、許可証を作ってた時代だったんですね。今はそれは国の制度になりましたけど。
でIBMで10年くらいかかって課長になるためのいろんなプログラムがあるんですが、それを1年から1年半で全部取ってこいというもんで、とにかく勉強勉強でいろんなものをすべて取って、でアメリカのIBMから完了…修了書を送ってくるんですね。それをもって徹底的にまだ22、3歳の時にそれを頭に叩き込まれたっていうことで、1年半後に自分の会社に戻って、会社のコンピューター室を作ってどんどん改革していったんですね。
その時のシステムエンジニアのノウハウっていうのが非常にずーっと今振り返ってみても生涯勉強になったことは未だに役に立ってます。
全部で3社…4社くらい転職してるんですが、それをやっている間に何があったかっていうと、その中で特異なケースといいますか、もともと私は自由人なものですから、独立しようと思っていたんですね。システムエンジニアをやっていたもんで、システムエンジニアを中心としたコンサルタント業IT関係のベンチャー企業を立ち上げようとしていたら、「経団連の友人から、ちょうど国会の秘書の話が自分のところにある先生から来ている。その(会社の立ち上げ)前に1年でいいから政界の仕事もしてみた方がいい」と言われるもんですから。「なんでか?」と言うと、「民間を散々やってきたんだから今度は行政官庁を見て民間両方学んでから、独立したら鬼に金棒だから」って言われて、じゃあ分りましたと言うことで、国会秘書をやることになりました。
1年で辞めるつもりが、まだまだと言うことで結局6年ぐらいやることになってしまった。あの世界もまた特殊な世界で、私はとても将来議員になるつもりなんて全くないですから。だから長くいる必要はないということで、そろそろこれで官民両方学んだんで独立しようと思ったら、今の長島医科の2代目の社長から「ぜひ来てくれ」と言うことで、入ることになったんですね。
毎日のように選挙区から僕のいるときは2人先生に就いたんですけれども、一人は島根県の先生、一人は栃木県の先生だった。とにかく国会に陳情にくる各役所、個人的な人たちで毎日50人へたすると100人来ますよね。それを勤務時間中に処理しなければいけない。
その中には変に先生の利権を利用しようとする、あるいは如何わしいビジネスを持ってくる人…いろんな話がある。それらを瞬時の間に、もう廊下で並んで待ってますからゆっくり聞いている場合じゃないですから、瞬間にどんどんどんどん面接して、瞬間にその人を見極めるというそれは養われましたね。瞬間に人をパッと見ると。その顔つき立ち振る舞いで何となくオーラっていうのはわかりますね。最終的にはやっぱり目ですね。目を見ると「この人は何を考えているのか」「どういう目的か」だいたい当たるようになりましたね。それは今でも役立っていますね。
言魂 ~心に刻む言葉と想い~
続いてのテーマは、「言魂」~心に刻む、言葉と想い~
平尾泰朗が家族や先代から受け取った言葉、そこに隠された想いとは?
平尾:会社でも人格者だったけど、業界でも非常に…人格者だった。この人は何にそういう事をお持ちなのかなと見てみると、やっぱり人間関係で信用と言うのは大変大切にされていて、「どんな人にもまず信用。会社にとっても信用。すべて信用って言う言葉が大切と肝に銘じておけ」と言うことで常に信用を大切にされてましたね。
まぁ1つ自分の両親のことを言うと、母親からは言われたのがいまだにずっと頭に残っていますけれども。「普通が1番。普通のままで一生を終わるのは難しいんだよ」と。「お金持ちになったり貧乏になったり、波瀾万丈な人生は、あるかもしれない。それよりも常に生まれたときから死ぬときまで、常に普通ってことが中庸(?って言うんですかね。)一番良い人生だから普通が1番」と常に母親に言われていた。それは未だに頭にあるし、出すぎないようにしようと思ったりしていますし。
母も父も明治の人ですから、父親からはとにかく「あきらめるな」ってことを年中(言われました)。特に父親は明治の人ですから、苦学生の人で、一生懸命貧乏なのを乗り越えて国立大学に入って一流企業で役員になった人なんで、とにかく「諦めちゃいけない」と「諦めるな」と言っていた言葉が頭に残っています。
続いて、平尾泰朗が現在胸に刻む言葉・・・
平尾:毎日がチャレンジだし毎日がアップデートと言うようなことを考えると、「日々新(ひびあらた)」と言う言葉を常に(実行しています)。
最近言われているような、チャレンジだとかイノベーションだとか改革だとかということにつながるんですけれども、「日々新」って言葉は常に今でも実行しているつもりですね。
NEXT100 ~時代を超える術~
最後のテーマはNEXT100、時代を超える術。
100年後にも変えない 「永島医科器械」にとっての核。
そして、未来を見据え、変える必要のあるものもの。
「革新」を平尾泰明が語る。
平尾:“伝統と歴史がある永島の良さ”というのはこれからも継承していきたいと思っていますね。
ただそれだけだと古いものだけなんで、そうゆうようなものは残しながらも先ほど言ってる改革していかなくてはいけない。変化していかなくてはいけない。っていうようなものをやっていこうかと思っております。
ですから信頼信用で歴史をもとに…基づいた変化・改革をこれをやっていかなければいけないと思って。ダーウィンの言葉にもありますように、「強いものよりも、変化するものが勝ち残る」みたいな進化論がありますけど、まさにその通りで、とにかく時代の流れに対応して、先見性のある企業としてどんどん変化して時流に乗っていかないとやがて老舗も伝統もなくなっていくと思います。
だいたい耳鼻咽喉科のドクターは各科に比べて1番少ないんですね。
全国で耳鼻科医というのは9,000人弱です。
9,000人弱の耳鼻科医の中で3分の2が勤務医でほとんどが大学病院。そういう大きな大学病院に勤めてる。
でそれ以外の3分の1が個人の開業医、ということなので、なかなか街を歩いても耳鼻科の看板、開業医を見つけるのは少ないですね。
小さなマーケットを、うまくローテーションを組んで食べていくためには、耳鼻科だけではなく関連分野、耳鼻科の関連分野いわゆる脳外科、眼科それから歯科というようなところ。首から上は頭頸部と医学的には呼んでますけど、頭頸部、頭の部分首から上の部分を頭頸部の分野としてみんなその関連してくるもんですから、耳の治療したからと言って、根本は脳から来てたとか、目の方から来てたとか関連してるんですね。
ですからその頭頸部という領域で捉えて、今後は商品開発していかなければいけないと思ってます。
今それで脳外科、耳鼻咽喉科、眼科、皮膚科みんな縦割りの縦割りになってますけど、みんないろんなところで接点があるわけですね。
だからその接点を見つけ出して今後は大きな手術になってくると、今流行の‟チーム医療”と言う、学科の先生が来て本当の根本の原因はどこにあるのかと言うことを耳鼻科じゃなくて、これは脳から来てるのか眼科の方から来ているということやチーム医療とか、トータル医療の時代に入ってきてます。これは世界的な傾向ですね。
自らの使命
昔からよく言われている…僕は今の社員に言ってますけど“5S”と言われている「整理・整頓」それから「清掃」それから最後「躾」ですか?そういうのがありますけど、その5Sはもちろんのことですけれども社内でも整理整頓できてない社員はやっぱり仕事できないです、僕から見ると。それはできなきゃいけないけどそれにプラス私は最近“3S”っていう。
何かっていうと、「スピード」と「センス」「スマイル」このSですね。
とにかくこの時代には世界的にも勝ち残っている企業にはスピード感があります。だからもたもたしていたらどんどん抜かれて置いて行かれる。やっぱりスピードが勝負ですからこれを理解できる人。それで人格者でありある程度仕事ができて健康。この3つのバランスがとれる人を後継者として選んでバトンタッチしていくのが私の使命だと思っています。
事業を長く続ける上で一番必要なもの
今回長寿企業というテーマでインタビューを受けているわけなんですけれども、日本は世界的に長寿大国だと思います。長寿大国っていうと一般の人は、いわゆる健康長寿、寿命が長いってことで捉えてますけど、長寿大国の中には今言ってる長寿企業…“世界一の長寿企業国”。あるいは“世界一の健康長寿の国”と2つあるんですね。
この2つはやっぱり日本人として自慢…プライドを持つべきことであって、これからやがて高齢化を迎える各国欧米諸国も日本をモデルケースとしてどういう社会体制をしていくのかってモデルケースとして見てます。日本がやっているもので良いことは入れ悪いことは改革してくってことで注目の的になってるんで。
日本の長寿大国、企業においても人間の寿命においても両方の大国として今後走り続ける。そういったことがさっき言ったように「変化とスピード」これがないと企業は勝っていけないと思いますんで、これをぜひ「スピードと変化」っていうのを今後バトンタッチする人、今の人たちにも言い伝えていきたいと思います。今まで共通してる企業、残ってる100年200年1000年の企業を見てると「スピードと変化」必ずどっかにあります。そういった企業がみんな勝ち残ってきてます。
それは一つの長寿企業の秘訣だと私は共通項を見出しているところです。
永島医療機器株式会社、5代目代表 平尾泰明。
「『強い』ものでなく、『変化』するものが勝ち残る」という言葉の通り、
たえず『変化』『チャレンジ』『イノベーション』を繰り返し、
時代の流れに対応することが重要である。
この想いは、100年先の後継者へ受け継がれていく・・・。