長寿企業の知恵を、
次の世代・時代へ継承する
Webメディア 智慧の燈火

MENU

向井建設 株式会社「日本を創る力でありたい」

オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~


ナレーション

今回のゲストは、向井建設株式会社
3代目代表、向井 敏雄(むかい としお)、4代目代表、遠藤 和彦(えんどう かずひこ)
創業は1908年(明治41年)
初代、向井 徳次郎(むかい とくじろう)が大阪府布施に向井組(むかいぐみ)を創業
1924年、東京に進出。
1930年には、後に2代目代表となる向井 市太郎(むかいいちたろう)らが横浜へ赴き「横浜出張所」を開設
その後、2代目代表就任と共に、1951年に株式会社向井組を設立することとなった。
時は立ち、1973年、「向井建設株式会社」に改称し
1980年には、現在会長を務める、向井 敏雄が、3代目代表に就任した。
2008年、創業100年周年を迎え、向井敏雄が黄綬褒章を受章
その翌年、現在の代表、遠藤和彦が向井建設の4代目として就任した。
現在も、日本の建設産業の中核を担い、時代の先駆けとなる「技術とノウハウ」を提供し、日本の発展に貢献するとともに、自らも成長を成し続けている。
今回は、そんな向井建設の3代目代表、向井 敏雄、4代目、遠藤 和彦の言葉から、次代へ継承すべき向井建設の持つ長寿企業の知恵を、紐解いていく。

~事業内容~

向井:当社、明治41年今の東大阪で創業以来、鳶土工を生業として今日までやってきております。専門工事業者で建築土木の両分野をやっている会社は少ないと思います。また、躯体一式施工をできるような会社はこれまた少ない
当社はそれぞれ鳶土工、また型枠・鉄筋・重機機械土工において、大変優れた技術・技能力を保持していることと、計画段階から元請けに対して有益な技術提案をしながら、大変存在感のある会社になっております。

~特徴や制度~

遠藤:専門工事業の中で当社のこれも特徴と言えると思いますが、 “新卒者の定期採用”をずっとやってきました。この新卒者の定期採用も、当時は優秀な技能集団が存在していたわけですが、新たに創り上げていこうということ。そしてまた、高卒者だけじゃなくて大卒、院卒と採用しながら専門工事業の道を極めてきたということが一つあります。

それから優秀または資質の高い人材を採用するだけではなく、それを教育していかなくてはいけない、育成していくことが会社の社会的貢献の一環であり、その教育をずっとやり続けてまいりました。
ただし、離職者が高いとか、思ったように人材が育ってないとかいろんな反省も含めて昨年一年間かけて人材開発部門という部門を作り、その新しい人材育成システムの構想を練り上げ、それを始動したというところです。

さらに、アメリカの同時多発テロがあって以来、企業存続計画“BCP”って言うのが非常に注目されてきましたが、当社はその当時からBCPに取り組み、結果として東日本大震災で大きな成果を上げることができました。
その東日本大震災の成果で満足するのではなく、さらに首都直下、東海沖、こういったところもにらみながら、私たちのBCPについて、どんどんどんどん練り直しながら訓練を続けているということだと思います。

~安全管理の必要性~

向井:当社の最も、大切な財産は“優秀な技術・技能者”でございます。その技術・技能者の現場における安全を守るのは事業者として事業主として最も重要な使命と心得ております。

もう一つは、それまでの安全管理については大変力を入れて、いろいろな取り組みをしてきましたが、兄が現場で・・・現場の事故で、亡くなって、まさに労災遺族としての立場になって、遺族がどれだけ苦しみ悲しみ悩み、そして多くの問題を抱えるのかその時に、身をもって、体験しました。それから、なお一層安全に力を入れて安全がすべて優先するということに。

この“安全がすべてに優先する”というのは経営以前の問題で、安全が確保できなければ経営が成り立たないそして、何よりも経営基盤を支える人材の、あるいは機能能力者の安全を確保なくして会社はありえないと思います。
そういう意味で今までもこれからも安全管理の向上に一生懸命に取り組んでいくつもりであります。
幸いにして遠藤社長が、先頭に立って、安全性管理を推進して労働災害が年々減少して、おかげさまで死亡事故はここ数年間起きていないという状況にあります。

遠藤:働く人の数だけ危険というのは伴うわけです。というのは建設産業というのは無から有を作り出す、それも重厚長大なものを創り出すという観点から、機械力も非常に使うということで、人のミス、設備のミス、色んなことが重なって労働災害っていうのは起こってしまいます。それが一番大切なんだなとわかったのが、その集合教育を何回重ねてもなかなか労働災害が減らなかったんです。それをやっぱり集合教育の中でも、人として教育を受けている人を捉えて、声を掛ける、名前を呼んで声を掛けながら「あなたはどう思いますか?」というこの安全管理をしなければ絶対その・・・自分自身を大切にしない人もどうしてもいて、結果として自分自身を大切にしないということは仲間も大切にできないということで、労働災害が続いてきました。
今、特にうちの会社で取り組んでいるのは“心に届く安全管理をやろう”ということで何度も何度も、我々が足を運び皆に声をかけながらやっているというところであります。

~社内のイベントとは?~

向井:建設業というのは、仮囲いの中でやっている仕事については一般の市民の人たちに、見て頂く機会が非常に少ない。建設現場の中で職人たちが毎日一生懸命ものづくりに励んでくれていて、大変、技術技能力の高い、また世界に、誇っても良いような安全と高品質な施工を必ず期日内に完成させるという高度な日本の形成生産システムがあります。
その一翼を担っている職人たちの姿を、一般の市民に見てもらいたいという思いで、荒川の河川敷のグラウンドを利用して「技能オリンピック大会」というのを今から十数年前かはじめて、今でも続けてやっています
この目的は社員ならびに協力会社の職長や技能者の人たちが日頃現場で培った技術技能レベルがどのレベルにあるのかということを競技を一緒にやることによって認識して、もし低い場合には向上心を持って自分の技能力を高めるという取り組みに繋がればいいということ。

また、優秀な人は更に高みを目指して努力を続けるということ。そしてその結果当然報いなければいけませんから、それ相当の賞状とそれ相当の副賞を出して参加意欲を高めながらやってきているところでございます。

遠藤:このオリンピックを始めた当時は本当に各施工班を代表するエキスパートがでてきて戦っていたんですが、最近はその人達が応援に回りだして実際に出場するのはそのチームの若手の従業員や社員が中心になってきました。本当にその技能オリンピックでは最高レベルの技術を競っているというのとはちょっと違ってきたなというところが反省としてありました。

今後どうなんだろうという事を考えた時に、今度は若手の技能者の育成というのが大きく課題として我々の会社にあります。この2つの背景を考えると、技能オリンピックそのものは、本来のオリンピックと同じように、4年に一度にしよう、その間の3年間は若手を中心にしたジュニアオリンピックのような企画をして、そこで戦ってそこで勝ち抜いた人たちを4年に一度集めて、最高レベルの若手とのオリンピックをやろうという企画に変えました。

また、今年はですね三郷から場所を変えまして今度は砂町っていう場所で開催をしまして、交通の便を良くして、もっと一般に人たちにも来場いただいて、建設業の魅力も発信できたらいいなと。子どもたちに建設産業の面白さも感じてもらったら良いなというこういう、大きなイベントに今、大きく方向転換したとこです。

向井:必ずね、社長も私もまた会社の経営幹部も、また応援も含めてほとんど全社員がでてきます。それから技能オリンピックに出てくる人として、選手の家族がね(開催が)日曜日ということもあって奥さん子供連れでね、ピクニックがてら応援に来てくれます
選手が120人位なんです。応援も含めると350人から400人くらい集まるんですがね、結構大きなイベントになっております。

ここからは、テーマにそって、「向井建設」の持つ長寿企業の知恵に迫る。
最初のテーマは、「創業の精神」。
創業者の想いを紐解き、家訓や理念に込められた想いを紐解く・・・
向井:明治41年の創業で、当時は土木建築請負業向井組とういう社名でスタート致しまして、大正13年の関東大震災をきっかけに東京に進出して大阪にはそのまま仕事をのこし、またそれ以降、全国で仕事を展開してまいりました。
終戦後昭和26年に株式会社組織に改組致しまして、また、昭和48年に株式会社向井組から向井建設株式会社に社名変更を致しました。
向井組っていう“組”と名乗ると色々な問題を起こしていた組織があり、これは誤解を招くということ、また、近代化を図っていきたいということで当時私が会社に入っておりましたんで「向井建設」という社名にしまして今日に至ります。

~理念の浸透方法~

遠藤:創業記念日というのを会社で制定しておりまして、これは8月1日になってます。その創業記念日の式典がございまして、やはり温故知新の想いで常に当時向井社長からもその式典でお話を聞いてましたし、また創業記念日が一つの区切りの時、10年毎に70年史であったり、90年だったら90年の大きなイベントがあったり、100年の時に大きなイベントがございました。そういった時に記念誌が出ます。会社の社員に配布されますからそれを読んで改めて先輩の努力を知るということになると思うんですね。
一つ大きなイベントが100周年のイベントがあったものですから、当時わたくしのお付き合いの範囲の中で「神田香織」さんという講談師がおりまして、その神田香織さんに頼んで、”向井三代記”という書き下ろしを講談を作ってもらいました。
記念式典の事業の中で講談をしてもらい、または当社の職長会などのイベントの時に講談をお願いしたりして、なかなか100年史という大きな本の中でですね、「これを読みなさい」と言っても、やっぱり本を読むということに抵抗感の社員がいたり、職人にとっては、やっぱりちょっと苦手だなと思う人にも、向井建設の歴史を伝えていくということで非常に有効だったんじゃないかなと言う風に思ってます。

~会社の発展に尽力した先代夫人の存在~

向井:常に、“至誠天に通ず”、誠心誠意言葉を非常に大事にする方でした。また信用信頼、信用は無縁の衆生と心得と言うのは、社是として掲げてありました。まさに、信用信頼を得るために一生懸命努力した人であります。
本当に現場から叩き上げて来た人で、常日頃から現場周りをしながら作業員の安全指導とか仕事のやり方を本当に骨身を惜しまず努力をした人であります。また母は、父をよく支えて内政・・・社内のことを一切取り仕切って、またそれだけじゃなく、現場の人やダンプ、トラック機械の手配などをして、本当に男勝りの人で向井組また向井建設の礎を築くのに貢献した人であります。

遠藤私の誕生日が12月1日なんですが、芳江前会長も12月1日でございました。大変慈愛の深い方で、また、人を洞察する力があって、私取締役に就任したときに、やはりその時も取締役とは経営者の一員だと言われ、それまでは若い社員の人たちの代表選手みたいな自分の気持があったもんですから、自分の立つスタンスがちょっとわからなっている時代がありました。

その時に迷いを見抜かれ「遠藤さん来なさい」と。前に立ったら軽くビンタをいただき、「あんたしっかりしなさい!」と言われました。それで直立不動で、「はい!」と言いました。その数日後、今度は「お相撲を見に行こう」といわれて、相撲を見に行ってごちそうをされて、いろいろと話を伺いました。
そういう事も含めて自分としては、自分にとって自分の実の母が第一の母、妻の母が第二の母としたら、芳江前会長は第三の母というくらいの思いでずっと思い続けてきました。

~向井敏雄が行った改革~

向井:父と母が、やってきた会社の経営を、良い面を残して長所を残して、変えるべきことは思い切ってお変えていこうと、そもそも、変えるきっかけとなりましたのは、先代は、経験と勘と度胸を持ち合わせた人で、また現場に行けばすべてのことがわかるような方でしたんでね、現場の当然収支が頭の中に入っていて、どこの現場で問題があるかということについて全部暗記していました。

ところが、名古屋から当時は東北6件まで仕事を手広くやっていましたんで、現場の収支管理とか現場での問題点については管理のしようがなかったんですね。それを私なりの経営仕様を用いてですね、現場全体の収支または状況が一部ではありますけどね、見えるようにしたということ、もう一つはね、計画性を持った経営をしなくてはいけないということで経営計画を練り、そして経理を公開して常に会社の経営状態がどういう状態なのかということを全従業員に、全従業員と言うか必要な人に必要なほとんどの従業員に、わかるようにしてます

私は創業100周年の時に、また64歳で遠藤社長に後任を託した時に話をしたのは「代々初代だよ」と。この会社について遠藤流に経営のやり方を変えて良いんだよと。所詮私のやり方を継承しても、借り物を使いながら会社を経営するようじゃ不慣れで事故を起こす可能性がありますんでね、そういうことがないようにということでもう任せました。
私が今会社に留まっているのは、社長として任務を果たせるように最大限支えていこうと思って会社に残ってます。ただまた今は新しい企業形態を模索しつつあってですね、そちらの方の仕事も出てきてますんでね、これから社長をサポートすることについて十分にできないかなという風に思っておるところです。

遠藤:会長の社内でのカリスマってところはものすごいところがあるわけです。その中で私の経営理念を浸透させて、その思想価値観に社員たちに共感してもらって、ベクトルを合わせていくってことについて、これはこだわりを持っていかなくてはいけないと思いました。

まず最初に経営理念を制定し、そして言わんとする所、想いを冊子にまとめ500名の社員全員に説明したからそれで終わりではないと。その中に今度は持続性っていうのは絶対に必要であって、唱和であったり唱和っていうのは色んな朝礼とかイベントの際にする唱和であったり、スピーチであったり、色んな所にこだわること。
それからもう一つやったのは、「お客様とともに人生の喜びや感動を創造する」っていう言葉で締めくくってるんですが、感動を創造するという観点から現場・・・現場っていうのは本当に厳しい環境の中で仕事をしていかなくてはいけない。その中で厳しい環境の中でも感動が生まれてくると。苦労をした分だけ成功した時に感動が生まれると言う観点からですね、感動エピソードを集めようとすることを5年間やってまいりました。
感動エピソードを最優秀作品をDVDに物語を起こしまして、それを社員の人達に見てもらおうと。それを現場の人達がどうしても経営理念の冊子を見るというところまでを本を読んだりとそういうところが苦手な人達も、そのDVDで会社の言わんとする経営理念の言わんとする所を理解してもらおうと、そういう努力もしてまいりました。

また、その経営理念に基づいた経営をやらせてもらって、私は向井建設の経営に特化してやらせてもらってます。ただ、向井建設という大きな所帯の中でやっぱり煩わしい問題も経営の中で出てくるんですね。そうすると必ず会長が言ってくれるんです。「社長、これは私に任せておけ」と。ほとんど会長が、煩わしさが出てくると「私に任せておけ」ということで、私に前向きの経営に取り組む時間をくれて本当に感謝してます

決断 ~ターニングポイント~

続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
会社の発展と共に訪れた過去の苦難
それらを乗り越えるべく先代達が下した決断に迫る

向井:戦前は、手間請けを主体とした建設業を営んでおりましたが、私は戦後のことしか知りませんけど、戦後すぐにアメリカ軍からパワーシャベルという機械を導入して、一躍現場に機械力を導入して、それからダンプトラックをもってかなり手広く都内において建設残土搬出の仕事をやり始めた。これがまず戦後の大きなターニングポイントとなっているわけです。
いわゆる手間請けから機械土工も含めて鳶・土工の一括請負ができる、そういう会社になり、その後も職業体制は充溢しながら会社を発展したということであります。
もう一つの大きな転機は、私が会社に入って経営の近代化に取り組み、特に専門工事業として、計画力に裏打ちされた施工管理、実施工ができる会社になろうということを目指して、一生懸命現場の経営力、現場力を高めてきたということであります。
それまでは施工計画と言うと元請けの仕事の範囲に入っておりまして私たちはその立てた計画に対して、いろいろと要求や注文をつけ、今までの固有技術を生かしてもらうといった取り組みをしてもらうように働きかけている。いわゆる受動的な形で施工管理しかできなかったということであります。それが能動的に自ら計画を立案し、それを実行にうつして会議があればそれを改善し、いわゆるPDCAのサイクルが回せることができるような、会社を目指して、今日も改革に向けていろいろな努力を続けていると思います。

続いて、3代目代表 向井 敏雄の、ターニングポイント。

向井:我家は、家父長制度が色濃く残った家で、やはり長男は次の後継者に据えるという考え方が、おやじの代も兄の代も脈々と受け継げられてきておりました。
私は次男坊ですので跡を継がなくていいということを子供の時から言われておりましたので他産業で働くことを考えておりました。ただ、兄が現場で急逝しまして、私が次期社長、後継者になれるかどうかが全く不確定の部分がありましたけど、とりあえず、会社に入って仕事を覚えて、跡を継ぐ心構えで当時の向井組に入社しろと言われまして、迷うことなく、これは天が決めた幸いと思って向井組に入って、それ以来色々な努力を重ねてまいりましたけれども、なんとか会社の経営をしてきたという状況であります。

先代が、育ててきた社員、また配下で実際職人を持っている親方連中みんな先代が育てた人なのです。私が後跡を継いで、先代には育ててもらった恩があるし義理もあるし、先代にこれからも尽くしていきたいという想いも思っていますけど、亡くなって2代目代3目・・・3代目で、協力する意味合いを持たないということを考えている人がいるのはわかっていたのです。

「これはいけないな」と思いまして、また技術技能の伝承を図らないといけないということもあって、昭和54年から高卒大卒の新規採用を始めて、将来を担う職人鳶、職人の社員、鳶やオペレーターとかいろんな職種の社員化を図っていこうということで、当時積極的に採用しながら職人を育てることをしてまいりました。
その人たちがいずれ高齢化して人が集められなくなって当社を辞めていってもあまり大きな影響は出ないように、当時から先を常に見ながら人を育ていくことをやってきたつもりであります。そういう意味で人の協力がなければ何もできないし、しかし人の心は変わりますし、やり方が変わっていくものですから協力してくれない人も中にはいる。そういった人の代わりになる人をちゃんと育てておかないと大変なことになるなというのは実感しました。

続いては、4代目代表 遠藤 和彦の、ターニングポイント。

遠藤東北支店の支店長に就任しました。東北支店というのは当時から70名くらいの社員がいました。それこそ作業員の方を入れると500名600名の従業員もいて、その人たちを束ねていかなくてはいけない、そういう想いの中で現地に乗り込みました。
そして乗り込んで「支店長です」とあいさつをしながらいろんな得意先にあいさつ回りをして実際の施工半の方々とお話をしていく中で、少しずつ過去の負の遺産が湧き出てきました。そんなこともあるのかと思いながらも先輩が残した負の遺産でしたので、それは自分でも受け入れて対応しました。
それがまた一つ、また一つと出てくるわけです。

最後にとんでもない負の遺産が現れた時にですね、その報告を聞いている矢先に自分で息が上がってきて呼吸が苦しくなってきてしまって、一度部下を部屋からだして横になって、そして「これはだめだな」と思って病院に行きました。そんな時がありました。
それだけストレスが自分の体を痛めて、そこに耐えられない自分がいたんですね。まだ、物事が起きて問題が起きてくることに対して、それに対する胆力がまだ自分には備わってなかったと。それで、逐一起きていた問題を当時、向井社長に相談報告をもちろんしていくわけですが、いくつも問題が重なってしまって、「じゃあ仙台に行くよ」と「話を聞かせろ」ということで仙台に(向井会長が)来ていただいた

それで仙台駅の新幹線の改札に迎えに行ったのです。迎えに行った矢先に、そのいろんな問題が頭をめぐってですね迎えに行ったこと自体を忘れてしまってぼーっとしていたら、会長がもう目の前に改札から出てきて私の肩をたたいて「どうした?」と声をかけるもんですから「ほー!」と思って会長の顔を見上げて「悩んでましたと」。そうすると「そうか」と言ってニコっと笑って「さあ行くか!」と言ってまた歩き出すんですね。
その格好良さと、その胆力の強さとその時に”経営者とはこうあらねばならない“とその時本当に私自身の大きなターニングポイントだったと思います。

向井:本当に苦労を掛けていて、ありありと思い悩んでいる状況は察することはできたので、「いろいろ考えても、なるようにしかならないよ」と「最大限の努力をしていれば必ず道は開けるんだ」というそういう想いをいつも持っているわけですよ。「だから心配するな」と「一緒にやろう」ということで気持ちを込めて頑張ろうと肩をたたいて一緒に解決しよう」という意味を含めて東北に行った想いがありますね。

~4代目遠藤和彦誕生の理由~

向井:まず、人に対しても何事に対しても公平公正な考え方を持った人です。それから、絶対に不正を働くような人柄じゃない。それからさらに、包容力をもって優しく暖かく人を育てていくそういう考え方を持っている。それから、気骨がありますよね。
正しいことを上から言われてそれを曲げるようなことを絶対にしない人です。気骨をもって信念を持った人。さらに言うと、勉強家です。勉強をいろいろとしていて、これからも相当な期待ができるということと、もう一つは問題解決能力がある。先ほど問題を抱えてって話がありましたが、一つ一つ問題をちゃんと解決していく能力を持ち合わせている。
まさに、経営者としての先見性、洞察力。それから問題解決能力とか、人に対する包容力とかあらゆる面をもち合わせた人ですから、私は当時から社員の中でプロパーの中で最も経営者のふさわしい人間を、私の後を継がせようと思っていたんで、遠藤社長が適任と思って私はすごくいい後継者に恵まれたと思って、幸せな気持ちで今もおります。

遠藤:ありがとうございます。

貢献 ~地域、業界との絆~

向井建設が行っている地域や業界での取り組み。
そこに込められた想いに迫る
向井:平成23年3月11日に、東日本大震災が発生いたしました。当社は東北6県に支店営業拠点を設けて、東北全域に仕事をやっておりましたが、特に宮城県、岩手県、そして福島県の沿岸部での被害が甚大で、多くの人命、また家屋が津波等で流されて、当社の社員たちもその対応で日夜またがる努力を続けながら、対応させてもらったことがあります。
その時に遠藤社長と相談しながら今後の対応についていろいろと短い時間でしたけど協議して決めたことは、お得意先からの要請に対して、一件たりとも断ってはいけない。
また、もう一つはこの日に乗じて便乗電話してくる人たちがいるわけですけれども、当社は絶対に便乗電話はしてはいけない、できる限りの対応協力をするんだと。
そして、東北の復興にお役に立つようなことをやらなければいけないという強い使命感を持って、社長を中心にして震災対応の緊急組織を立ち上げてね、具体的な行動に入りました。

遠藤:私の実家が、宮城県の海沿いにあります。50メートルくらいしか海から離れておりません。あの真っ黒になった津波を見た時に「これはもう自宅はだめだ」というのはわかりました。そこに年老いた両親がおります。
それからもう一つは東北支店では本当に大勢の社員と大勢の協力会社の従業員が働いています。これだけ揺れが大きかったら現場そのものが倒壊したり、足場や建物が倒壊したり大変なことになっているんではないかということを感じました。

ただ、東北の状況と言うのは(当時は)まだ携帯がつながらないのでわかりません。何とかメールでわたくし個人的なことですが、妻と連絡が取れました。その時にたまたま仙台から東京に向かってくる途中で大宮付近で新幹線が止まってその時に妻が私の両親、または息子とメールで連絡が取れた無事だったということを聞きました。
それからは家族のことは大丈夫だということになれば、会社の社員の無事、それを確認しなくてはいけないということですぐに本部会議、対策本部を立ち上げなければいけない。ということで社内に在籍していた部長クラス全員集めて第一回目の本部会議を立ち上げて。

会長に報告した後に、「社長、ボランティアを考えてみてくれ」という話をされました。
会長に「ボランティアですか?!」と。この時にボランティアですか?!と思いました。でも一晩考えてやはり、それができるのはうちの会社だなと、いう想いが沸き上がってきました。
それで「何をやったらいいんだろう?」ということを考えた時に当社の協力会社の人たちの大勢の作業員の人たちが住んでいた、そして最も被害の大きかった、それからもう一つ当社の営業所の所長ご両親が行方不明になった「石巻で何かをしよう」と。それで「石巻で何をやったらいいのか?」自分が出張してみて非常にありがたいと思ったのは、温かいものが飲めたり食べたりすることにです。それを考えると、”炊き出しをしよう“と思いました。

本当にみんな寝ずに仕事をしている中で、当社は食料が強みです。東北6県に営業所がありました。また本社からいろんな食料を送りましたので支店の中が米蔵か食料倉庫か?くらい食料がありました。そういう中で組織力を使いながらボランティアの炊き出しをし、なおかつ(両親が)行方不明になった営業所の所長をこのボランティアの炊き出し隊の隊長にしました。本人にはここに「自分が幼少時代にお世話になった人たちもちょうど避難しているだろうとその人たちにもお世話になったのだから恩返ししなさい」と。
また、午前中で炊き出しが終わるんです。「午前中で終わるので午後からはご両親の捜索をしなさい」ということでずっと本人はいて、帰って来た時には、両親は見つからなかったんですけれども本当に涙を流しながら感謝の言葉をもらいました。

向井:災害の復旧復興に最優先に取り組むことと、また、ここに写ってますように福島第一原子力発電所の1号建屋、2号建屋、3号建屋が水上爆発を起して、大変な状態にあって連日のように消防車またはコンクリートポンプ車が入って原子炉を冷却するための作業を、一生懸命にやっておりました。

そういう中でこの原子力発電所の中にも瓦礫を片付けたり、また作業宿を確保するために通路を確保したり、色々な仕事がありまして、私は原子力発電所の事故というのは、間違うと、もっとより多くの犠牲者が出るんじゃないかと。
また、被害が、広域に広がるんじゃないかということを心配しまして、たまたま元から福島第一原子力発電所の中に入って作業をしてもらえる会社っていうのを募っておりまして、私は真っ先にこれは日本の危機だと。誰かやらなければいけない。当社はその責をまず率先して負いますということで。真っ先にこの第一原子力発電所の中に入って、作業を開始させてもらいました。
未だに原発の中で色んな作業をさせてもらっていますが、多くの対応をさせてもらったことで、社員の苦労があったわけですよね。大変会社として誇りに思っています。

ご存知のない方が多いのであえていいますと、すべて原発の中にあったものは場外に持ち出すことはできない。したがって、消防車、またコンクリートポンプ車、機材資材全部、現地で処置をしなければいけないということで、現場が必要な箇所に運搬したり移動させたというのがうちの社員並びにうちの関係者がやったことであります。

本当に危険を顧みないで、社員に行ってくれるなと作業員にも、お願いした話をすると、家庭の事情で何人かはどうしても家族の了解が、理解が得られないので行けないといった社員もございますが、ほとんどの人が自分から率先して「自分が行きます」と(言ってくれた)。「なんで自分をこの現場に派遣してくれないんだ?」ということで、逆にね分がこんな時にお役に立たなければ自分の存在価値存在理由は無いんで、とにかく行かせてくださいと進んで言ってくれた人たちに対して、大変感謝もしてます。また、会社の誇りに思っているところでございます。

NEXT100 ~時代を超える術~

最後のテーマはNEXT100、時代を超える術。
100年後にも変わらない「向井建設」にとっての核となるもの。
そして、時代の変化とともに変える必要のあるもの。
向井建設とっての革新を、向井 敏雄、遠藤 和彦が語る。

向井:100年先はもちろん、私はこの世に存在しないわけですが、希望的なことも含めて話をさせてもらうと、当社は鳶土工を生業として、今までやってきた専門工事業として。今は鳶土工の他に鉄筋工事あるいは機械土工をやれる会社になってますが、またこうしたことが今日まで続けてこられたのもお得意先があってからこそできたものだと思ってます。
今まで(会社が)大きくなる過程において、総合工事業者いわゆるゼネコンになる会社もあったわけですけど、私の信念としてお世話になった会社と競争して仕事を取る訳にはいかないと言うことで、専門工事業に徹してまいりました

よく人から言われますのが、「向井建設はもう十分総合工事業としてやっていける能力があるのになぜやらないんだ」と(言われます)。それは今までお世話になった、今までご指導ご鞭撻いただいたお得意先のご恩に報いるために当社は存在しているんだという風に思っているからです。
したがって、専門工事業の道を決して外すことなく、さらに技術技能力を研鑽に励みそして人材を育成し、そして当社も今後とも日本でやはり日本の建設業者を代表する専門工事業であり続けるように、そういう風に希望しております。

そしてこれから少子高齢化が進む中で人の価値観をより高めて人間力の高い、そして技術技能に優れた、そして社会に貢献することを喜びとするようなそういう企業として今後とも存続・発展しもらいたいということを願っております。
そして次の200年も必ず今よりもっと充実した会社になってくれていることを希望しております。

遠藤:事業の方向性っていうのはやっぱり時代の変化とともに変わっていくものです。変わっていく時代の変化をですね、どう捉えて会社の事業の方向性を変えていくのかってことは結果として人間力だと思います。そこに所属する人たちの洞察力であったり社会に貢献できる事業を選択していったり、色んなことを含めるとですね、そこに所属する人間力、人間の差によって企業の存続と発展は変わってしまうんだろうと思ってます。
ですから私としても今後の使命は私の後継となる社長、そしてまたはそれを支える人材の育成、これが一番だと思ってます。

向井:息子の考え方、意思があることを前提としてですね、本人の意志と考え方をまずは尊重したいと思っております。ただ、できればやっぱり企業経営者の一員として向井建設または向井グループの発展の実現できるようなそういう人間であってほしいなと思います。

そして向井建設の後継者に私の後にさせなかったのは、まだ経験知識、知恵が十分働かない。それから当然人材の包容力といいますか、人の包容力ですとか、またまだまだ未熟な点がありましたのでそういうものを身に着けてもらいたいなと思います。

常に大所高所からものを見て、そしてものを実行する時には繊細な神経を持って実行に移していけるそういう人材になってくれると期待しています。
繰り返しになりますけど、できれば向井グループの最高の機関の責任者になってもらえれば有り難いと思っております。

~社員へのメッセージ~

遠藤:110周年という記念の年度にあたる今年の創業記念日ですが、本来であれば一つのイベント、心に残るイベントをやろうということで向井常務が中心となって経営企画の検討を始めておりました。向井芳江前会長が逝去されたという中で大きなお祝いごとのイベントは今年は差し控えましょうということで会長と話しが一致しておりますので、今年は通常のイベントと創業記念の式典ということになりました。

その中で、来年が111周年という事で1が3つ並ぶ。これはたぶん企業としてはありえない数字。200年過ぎた企業でも111年というのはもう無いわけですから、1が3つ並ぶ。最初の一歩というか、初心を忘れるべからず1から始める向井建設という想いの中で、来年新たな企画をしていこうと思ってます。

その1から始める向井建設というのはやはり人材の育成、ここが最大の課題であり、また色々な日進月歩でITそういう色んな電子頭脳を活用した経営、または施工、色んなものが日々進化していますので、そういったもの仕事のやり方そのものを変えていく、一つのターニングポイントとなるのではないかという風に思ってます。
そういったところを、最初の一歩を踏み出す年度になるかなと思っております。

向井:学習する組織と常に自己計算に励む個人を育てながら、この会社に努めて本当に良かったと、公私共に幸せだったという様に思えるようなそういう人であってほしいなと思います。もちろん高みをめぜして頑張ってもらっているわけですけど、上を見たらキリがないですけど、「上見て進み下見て暮らせ」という言葉があるように常に上を向いて向上心を持ってそして下の厳しさ、状況の厳しさを常に思いやりながら現場で働く、現場の第一線で働く人たちに対して常に温かい気持ちを持ってもらえるような人であってほしいなと思います。

~事業を継続するうえで一番必要なもの~

向井:中国の言葉に「陽気発する処金石も亦透す」という言葉があって何事も強い精神力をもって初心、初志貫徹でやり抜く力を常に持ち合わせることが大事だと思います。
ナレーション

向井建設、3代目代表、向井 敏雄、4代目代表、遠藤 和彦が
次代へ届ける長寿企業の知恵…。
お客様を大切し感謝する。
同業他社などと競争するのではなく技術や技能力の研鑽に励み、
日本の建設業者としてあり続け、時代捉えて事業の方向性を示し「人間力」を高めていきたい。
この想いは100年先の後継者へ受け継がれていく・・・。

TOP