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匠 赤坂福田屋 東京手描友禅

日本の伝統民族衣装である着物。昔は日常着であった着物も今日では晴着という意識が強く、結婚式などのあらたまったセレモニーやお葬式、歌舞伎やお能、お茶やお花の文化的交流の場などで着物を身につけるようになった。
現在、着られるような形になったのは今から1200年も昔、平安時代といわれている。それ以前は、ズボン型の衣服、あるいはスカート型の衣服と上衣の組み合わせか、ワンピース型の衣服であり、どちらかというと今の洋服に近いものがあった。しかし平安時代になり、着る人の体型にとらわれず、布地を直線に裁ち、縫い合わせる「直線裁ち」という技法が生まれ、着物が誕生した。
着物には留袖や訪問着などフォーマルなものから、カジュアルに楽しむおしゃれ着と様々あり、紬や小紋、刺繍、染めなど種類も幅広い。なかでも染めといえば「友禅」は、日本人なら一度は耳にしたことがあるだろう。「友禅」と一言で言っても実は奥が深く、始まりは江戸時代中期、京都知恩院門前で扇絵師だった宮崎友禅が小袖などの衣に洒落た絵を画き始めたからといわれている(諸説あり)。友禅が『友禅ひいなかた』『余情ひなかた』という絵柄集を出版すると、これがまた評判を呼び、日本全国に「友禅」が広まることとなった。「友禅」には京友禅、加賀友禅、東京手描友禅(江戸友禅)の3タイプがある。東京手描友禅は、江戸時代、京都から伝えられた友禅の技法を元に発展。当時、江戸は上方から下ってきた産物「くだりもの」が集まり、「友禅」もその一つだといわれる。江戸時代は各藩の大名が二年に一度、参覲交代で江戸に来ていた為、それに伴って、大名のお抱え染師が京都から江戸に移り住むようになり、友禅染めが広まった。五代将軍綱吉の御母堂、桂昌院が京の友禅職人を呼び寄せ、江戸友禅を考案させたという話もあるほど、江戸友禅はまたたく間に江戸文化に溶け込んでいったのである。江戸友禅の職人は友禅染めに必要な豊富な水を求めて、隅田川や神田川流域に住んでいたとされる。江戸友禅という名称が東京手描友禅に変わったのかは明確な資料はないが、昔ながらの作風で糸目描きと少ない色数だけで描いたものや、落ち着いた柄のものは江戸友禅と呼ばれることもある。東京手描友禅には都会的でモダンな要素があり、東京の都会の感覚や美意識に合わせて臨機応変に変化しているのが特徴といえるだろう。
多くの職人が仕事を分担する京友禅に対し、東京友禅は一人の職人が下絵から仕上げまでほとんどの工程に関わり、京都の柔らかいはんなりとした雰囲気や加賀の豪華絢爛のものとは異なり、色数をおさえた一見、地味な感じに見えながらも、明るい色調と新しいデザインが東京友禅なのだ。
東京友禅は東京の呉服屋にとってなくてはならないものであり、友禅職人も多かった。しかし戦後、日常着が洋服主流となり、着物の需要はますます激減。老舗呉服屋は次々と店をたたみ、職人の数も減った。呉服屋にとって氷河期の時代といわれる今、東京友禅をしっかり守り、職人を育てる呉服屋が何軒かある。その一つが東京都八丁堀に事務所を持つ、赤坂福田屋である。

役者、花柳界から上流階級のお客様へ
店を持たず御用聞き
これが福田屋の呉服業の基本である

赤坂福田屋 祖父千吉
八百善や日本橋倶楽部にて
お客様と素人芝居を演じている祖父千吉

創業は慶応元年。歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛」(お富さん)の舞台である源氏店のモデルになった新和泉町の玄冶店に店を構えたのが始まりだ。(現在は料理屋の濱田屋さんのあたり)江戸、明治、大正と西洋文化が国内に入ってきていたが、当時はまだ着物が主流。創業より店は持たず御用聞きのスタイル。明治大正時代には芝居、花柳界関係のお客様から次第に上流階級のお客様も増え、お屋敷に赴き、注文をとるという商いを行なってきた。

親父の時代は一度、店を構えたのですが、その1年後、関東大震災で被災してしまって。全てなくなっちゃったんですよ」というのは、3代目の森田昌弘会長。何もかも無くなってしまって途方にくれていた時、救いの手を差し伸べてくれたのは、昔から御用聞きで通っていた上流社会の方々だった。
「震災でものがなくなったから、とにかく着物が欲しいとかつての顧客様から注文が入ってきた。白地の反物をとにかく買い付け、365日、店の者全員で着物をせっせと作ったという話を聞きましたね。」
関東大震災後、わずか数年で福田屋の土台を立て直した先代。森田会長は着物にとってとにかくいい時代だったのだと目を細める。

福田屋千吉

「親父は福田屋千吉というのですが、着物好きなら、アレ?と思われる方もいるのではないでしょうか。随筆家の白洲正子さんの作品に時々、『千吉さん』と出てくる呉服商。それがうちの親父なのです。」

白洲正子というと明治時代から平成まで日本の文化美術界で影響力を持っていた女性。華族である樺山伯爵家に生まれ、4歳からお能を学び、14歳で女性として初めて能楽堂の舞台へ上がったほど、能楽師も舌をまくほどの多才な人物だ。実は彼女が生まれた時に包まれていた孔雀の刺繍の産着は福田屋が仕立てたもの。白洲正子さんのご実家である樺山家がお得意様で、彼女の産着から納めたのだ。
彼女の著書に「─ 中略 ─正子の母、樺山伯爵夫人に出入りしていた福田屋千吉という呉服店との長い長いお付き合い。樺山家と白州家のきもの番頭とでもいいましょうか、こうした出入りの呉服屋に教えてもらったことが山ほどあった」と、先代のことが記されている。

「白洲先生とはそれがご縁で著書『風姿抄』で福田屋千吉を取り上げてくださりました。とにかく親父はお客さまからご注文をいただくことが上手でしたね。例えばお得意さんのお家の娘さんの婚礼が決まったら、時期はいつでしょうか? ということから始まり、婚礼衣装はもちろんの事、嫁ぎ先への販路もうまくつなげた。親父の顧客は信用ある上流社会の方々でしたから、関東大震災にあっても、へこたれることがなかったのでしょうね。」

福田屋千吉伝説は白洲正子さんだけではない。ほかにも大手財閥をはじめとする上流階級、花柳界の方とのパイプも数知れず。呉服業界で伝説と言われるような逸話があるのも事実だ。さらに宮家との交流もあり、三笠宮様と高木百合子様の御婚礼の衣装も手がけるほど信頼も厚く、呉服福田屋の名は評判高きものだった。
とにかく親父の時代はいい時代。歌舞伎役者や花柳界など着物と縁が深い世界とのパイプは太かった。だから当時の流行していた柄や昔からある古典柄の資料は今も大量にうちに残っていますよ。」

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