時代を受け入れた変化 400年目の新たな挑戦
基地の街として知られる福生市は、立川や八王子と並ぶ多摩地区の中心である。かつて絹糸が主要輸出品目だった時代は、八王子から横浜へとつながる絹の道の中継地として栄えた。それゆえに、民主主義の考え方がいち早く根付いたリベラルな土地でもある。
その多摩地区に400年以上続く旧家があり、酒造をなりわいとしている。広い敷地には、映画のセットのように美しい酒蔵が立ち、見学客のためのレストランはランチタイムには予約を取らないと入れない程の盛況ぶりだ。酒造なのに地ビールも醸造している。
現在の石川酒造代表取締役社長で、十八代目当主である石川彌八郎氏は52才。バブルが弾け、日本酒の売れ行きが急降下を始めたその時に会社を継ぐことになったという。
めぐり合わせとはいえ、大変な時代に会社の立て直しを任されたことになる。大規模なリストラや事業縮小などの苦難を経て、地ビール製造など新たな取り組みで現在の活況を生んだ秘訣とは?石川氏曰く、それは代々受け継がれてきた遺伝子である「信頼」と「お人よし」だった。
400年という歴史
古文書は役所が管理
日本は世界的に老舗が多い。ドイツにも歴史ある企業は多く、アメリカも創業90年を超す企業がじきに100年を迎える。だから老舗と言っても日本のお家芸というわけではなく、自慢することではない。しかし、さすがに400年続く旧家となると世界にもそう多くはない。日本の場合、関西にそうした旧家は多いが、関東には少ない。だからこそ石川酒造を経営する石川家は、相当に珍しい。
石川家18代目を継ぐ際に、石川氏は彌八郎の名を当主として襲名したという。
「多摩地域には16代、17代の古い家が多いんですよ。たぶん北条家の家臣か何かだと思います。戦国末期に絶えたわけですが、家臣団がいてその下がいて、ちりぢりになって生き延びた。江戸時代になって、表に出られるようになったというのでそのあたりから1代目、2代目と数えだしたんじゃないでしょうか。」
1927年頃空撮
石川家では代々当主のみ、長男だけが見ることのできる刀が蔵にしまわれているのだそうだ。北条氏にまつわるものであるため、家系の由来を明かす貴重な家宝であるとともに、もし時の政権に知られると危ない。そのため、隠されながら伝えられてきたらしい。
歴史の古い家である。あまりの古文書が多い(なんと6万3375件!)ために、福生市教育委員会が郷土史家や歴史研究家とともに目録を作り、資料として整理・保管しているというから、ちょっと想像がつかない。
「資料の入ったダンボールが、会議室ぐらいの部屋にいっぱいありますからね。私たちで管理なんてできないですよ。研究者の方が見せて欲しいと言っても、どのダンボールに入っているかわからないし、返してもらっても今度は元に戻せませんから。だから保管していただいています。借用書から通信簿までありましたよ。成績良くないとダメだなあと思いましたね。2ばっかりの通信簿を見て、うちのひいじいさんはバカだったんだなと言われちゃったらねえ。」
庄屋から酒造メーカーへ
戦後の大転換
『多満自慢石川酒造文書』(全9巻)
石川氏の父である17代目が、昭和60年から歴史学者に依頼して編纂を始めた、社史であり石川家の歴史書でもある『多満自慢石川酒造文書』(全9巻)は、江戸時代からの当主の日記を年代ごとにまとめたものだ。
例えば、石川氏の祖父である16代目がつけた昭和22年1月1日の日記にはこうある。「敗戦三年の新春、混沌とした敗戦後の祖国日本の政治に経済に非常に深刻を極めている様相は拙文を以ては記し得ない。」
同文書を編纂したことで、よくわかっていなかった石川家の歴史が明らかになったという。
「うちは代々ずっと酒造やっていたと思っていたんですが、違うんですよ。酒造を本格的に始めたのは、江戸末期になってから。それまではいろんなことをやってるんです。」
石川家はいわゆる庄屋だった。江戸時代まで、福生は多摩川の豊富な水を生かした田園地帯であり、石川家は庄屋として堰の管理をしていた。アユを幕府に納めることもしていたという。そんな土地での酒造りは、幕府の施策から始まった。
「幕府は関東で酒を造ることで、貨幣の流出を防ごうとしたんじゃないかと考えられます。当時は酒は関西で作っていましたから、江戸からすれば輸入ですよ。貨幣はどんどん西に取られてしまう。そこで内需拡大政策として、福生で酒を造ることになったようです。」
近郊の小川村に森田酒造という酒蔵があり、継承問題からその蔵が空いたというので、酒造を借りて酒造りを始めたのが1863年のことである。石川家400年の歴史からすれば、酒造りは比較的新しい事業ということになる。
本格的に酒造に乗り出すのは、戦後のことである。
「戦後の農地解放で、土地がなくなってしまいましたから。当時の日記にも祖父が『今までのような旦那風は抜本的に解消せねばならない。しかしそれが簡単にできようか。それは早く商人になることなのだ。酒以外にも一つの営業を持つことだと思ふ』と書いておりますよ。農家では立ち行かなくなった。それで酒だと。それまで農が主、酒が従だったのが、酒が主になったんです。」
副業の重要性をわかっていたため、わさび漬けの生産なども行ったが思わしくなかったらしい。酒造以外の事業展開が本格的に始まるのは、石川氏の父親の代である。
バブルの明暗
卒業後すぐに経営参加
「私はこのことを知って大変に良かった。本業の他に副業をしていいということを指すわけですからね。何が何でも酒を造らなくてもいい、環境に合わせて変えていいということですから。」
実はブルースハープ奏者としての一面も持つ石川氏。副業を可とする石川家の伝統は気を軽くしてくれたそうだ。
「私の父は祖父から酒造を引き継ぐわけですが、昭和40年ぐらいから本格的に酒を売り始めて、三千石だったものを一万石にするんです。」
父親は商才に長けた方なのである。やがてバブル期に入り、石川家にも面白いようにお金が入り始めた。石川氏の父親は酒造所の蔵や施設を全面的に改築し、地元にスイミングクラブや大型の商業ビルを建設するなど経営を多角化する。さらに政界へも進出する。
「私が大学3年の時に、父が福生市の市長になるんですね。市長だから会社からいなくなるでしょう。私は若造で迫力がない。だから杜氏をすべて支配人という形にして、経営にも関わってもらい、何とか乗り切った。
そんな私が2年後に卒業して石川酒造に入ると、周りに期待されるわけです。でも長男というだけですよ? この間まで大学生で経営も酒造りもわからない。それが今日から専務ですよ。専務、専務と言われても、どうしていいかわからない。」
石川酒造に入社するなり、バブルが弾けた。ビルは廃業、土地を担保に借りていた資金も引き上げに遭う。日本酒から焼酎やワインへの嗜好の変化から日本酒の売り上げも落ちた。売り上げが下がり、給与の引き下げやリストラが必要な状況に落ち入った。
人生の中で一番嫌な時期だったと石川氏。
「生まれる前から働いてくれている人がいっぱいいるわけですよ。中学生、高校生の時は石川酒造の野球部で一緒になって野球していて、そういう人たちにボーナス下げる理由を説明しなきゃいけないんですよ。いやんなっちゃいましたね。」
会社の危機をどう乗り切るか
ビールを作る柔軟な発想
「祖父が日記に『長男恵一郎、よりよき商人として大成を見なければならないが、やれ公職だやれ政治だということになってはならん』と書いているんですけど、父は市長になってしまいましたからね。『自己の資本力を考えずに前のめりになってはならない』とも書いてある。父のように銀行から借金してビルを建てちゃいかんわけですよ。
ただ祖父も町長やっていましたからね、あまり強くは言えないと思いますよ。実体験として、公職についたら会社が左前になることを本人が一番よくわかっていたんじゃないですか。そうなっちゃいかんと息子に伝えたわけですけど、伝わらなかったみたいですね。」
結局、先々代の危惧した通りになったわけだ。18代目として石川氏が引き継いだ時、不動産は売却され、残されていたのは、改築されてキレイになった酒造だけだった。
若き専務は、入社するなり大きな課題を与えられた。
日本酒が右肩下がりの状況で、石川酒造をどのようにして生き残らせるのか?
本格的に酒造に入ったのは13代目だが、14代目はビール製造も行っていたのだそうだ。石川酒造最大の危機を前に、石川氏はビール製造を復活させることにした。
「酒が売れなくなってきたので、新しいことをやらなきゃいけない。バブルがはじけた後に地ビールブームが来たんです。何もなく日本酒からビールに変わるとなると危なっかしいですが、100年前、明治時代にうちではビールを作っていたから、土壌がある。それで1998年にビールを始めましてね。レストランも建てて、お客様がビールを飲みながらお食事できるようにしました。」
多摩地区で地ビール醸造を始めた酒造は他になく、ビール事業は大当たりした。東京の酒造が作る東京のクラフトビール『TOKYO BLUES』は、東京を強く意識したオシャレなビールとして注目を集め、最初の1年はレストランや売店にいつも行列ができていたという。現在も、本業である日本酒の生産量を上回ろうかという勢いで伸びている。
こうして地ビール事業は成功したが、最初の頃は大変だった。
「地ビール支援事業をやっている会社に協力してもらって、製品化しました。ビールを始めた時は大反対でしたね。父はチャレンジ精神があったので、案外すんなりと認めてくれましたけどね。従業員のみなさんは酒を本業でやって来ていたから、ビールなんてそんなことやって、とノリ気じゃなかった。でも日本酒は売れないんだから。
その切り替えですよね。売れるモノを作らなきゃいけない。売れないものを作ったってしょうがない。」
日本酒を取り巻く状況は厳しい。農林水産省では農作物の輸出戦略を進めており、米の主要生産物として酒の輸出も進められている。海外へ販路を求める酒造メーカーも多いが、石川酒造では輸出量は増えるどころか減っているのだそうだ。
「輸出しても売れるかどうかわかりませんからね。待ち受けている方がいいんですよ。時代劇というところの籠城ですよ。誘い込んで一気にやる。」
石川氏は輸出の代わりに外国人のツアー客を酒造見学に呼び込む戦略だ。その場で商品を買ってもらおうと英仏語を自由に話せる広報を採用、全国の酒造としてはずば抜けて多い外国人客を呼び込んでいる。
「外国人見学者数を記録していますが、年間で2千人近くいきますね。たぶんちゃんと数字を記録している酒蔵は他にないと思うんですよ。全国に1500の酒造がありますけど、私どもが日本一と言ってもいいんじゃないかと思います。」
お人よしで400年
ゆっくりと確実な変化を
現在の酒蔵
江戸時代は庄屋として小作を治めていた石川家だが、酒造りを始めた13代目以降、幕末、明治維新、戦争、戦後の経済成長、バブル崩壊と山あり谷ありである。
「世の中の変化に合わせて、私どもも変化して来ました。農業から酒、酒が本業になり、多角化してバブルが弾け、今はそれに代わるものがビールとレストラン。ビールも20年やっていますから、ボチボチ違うこともやりたいと思いますね。うちは飽きっぽい家系ですから…。」
酒造に限ってでも150年以上の歴史がある。潰れず潰さず、時代の波に乗って生き残ることができた秘密は何だろうか?
石川氏の祖父の日記に以下の一文がある。
『税金を出して貧乏になっても、何処までも商人として信用確保、村民社会人としての信用確保は、正に紳士的行動でなければならない。社会が悪い。社会が悪いから俺も悪くならねば生きられない。と世人は皆言う。(中略)人が良心的ならざるとき良心的になることが、永い信用確保の唯一の道だと言うことを教える』。
「この一文がすべてを表していると思います。旧家として残ってきた理由は、今だけ儲かればといいという商売をやって来なかったことでしょうね。信用を守るためにずるいことはしない。それはね、とくに明文化されているわけではありませんが、精神的に代々引き継いでいると思いますよ。それが長続きしている秘訣なんじゃないかなと思います。
社会の役に立って、ギリギリの線でお人よしでいればいいんじゃないか。もちろん、お人よし過ぎてもいけませんからね、時に厳しくなきゃいけませんけど。お人よしで400年でいいんじゃないかと思いますね。」
時代には周期があると石川氏は考えている。旧家ならではの発想だが、酒造りを始めた13代目を変化=チェンジと考えれば、幕末から明治の14代目が挑戦=チャレンジ、戦争によって多くを失った15代目は充填=チャージの時代となる。
一代ごとにチェンジ→チャレンジ→チャージを繰り返してきたのだ。
16代目は石川氏の祖父であり、農地解放で土地を失い、新たに酒造りを本業にした変化の世代。それを受けて17代目の父親が生産高を伸ばし、事業を拡大、しかしバブルが崩壊した。チェンジとチャレンジだ。そして父親の負債を処理することから始まった石川氏の時代はまさにチャージである。
時代の変化には周期があり、その上下動に個人の生活も左右される。その一つの変化の波はちょうど一世代、30〜40年で起きるのではないか?石川氏はそう思っている。そうであれば、石川家だけではなく、日本全体が同様の周期に従っているのだろう。失われた20年と揶揄されてきた日本の停滞は、チャージの時代だと考えれば納得できる。
今、18代目の石川氏は会社を存続させるべくビールへと軸足を移し、日本酒の低迷を乗り切ろうとしている。
「地元の町おこしで昔のビールを復刻しようということで、日野市と協力して日野市に明治時代にあった豊田ビールを販売したりしていますよ。発売イベントでは私も出させてもらったりしてね。」
日本酒も主力製品の『多満自慢』以外に杉の板を日本酒に漬けこみ、杉の香りを酒に移したリキュール『東京の森』や純米酒で漬けこんだ梅酒『多満の八重梅』を開発するなど、新しい市場開拓に余念がない。
石川氏のご子息は現在12才。あと10〜20年後、父の後を継ぐ時には、この順番でいけば日本は変化=チェンジの時代を迎えていることになる。
「私は早く引退したいから、早く息子に会社を継がせようと画策しているんです。チャージの時代の時はね、商売っ気がないんですよ。調べたら12代目もそうだった。俳句やったりしていて、そっちで名前が残ってる。私もブルースハープでハーモニカ漫談なんてやっていたら、東京演芸協会に誘われちゃって。10分間ぐらい世間ネタ作って笑わせてね。」
芸事で稼いだギャラはすべて日赤を通じて寄付しているそうだ。そうしたこれまでの実績を評価され、公益のために私財を寄付した人に与えられる紺綬褒章を受勲している。お人よしの精神の表れか。
ひょうひょうと400年の重みを受け流し、受け継いだ会社を力を入れずにアップデートされた業態へと変化させていく。石川氏に座右の銘を聞くと、答えは「ステディ」。
「広辞苑で引くと、ゆっくりでも確実に、という意味ですね。従業員一同、ゆっくりと確実に、こだわることなく柔軟に変化に対応していきたいと思います。」
派手なわけではなく、かといって過去の遺産にあぐらをかくわけでもなく、静かにペースを乱さず変化し続けていく。老舗の精神とは、そういう粘り強さなのかもしれない。