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銘菓「ういろう」の由来と歴史 ~650年続く老舗の知恵

お菓子のういろうを知らない人はいないのではないでしょうか。「株式会社ういろう」は、お菓子の名の由来となった企業です。「株式会社ういろう」は、室町時代から分家も暖簾分けもせず、今日までお菓子のういろうを作り続けてきました。

お菓子の方が有名かもしれませんが、「ういろう」は薬の製造販売を行う会社でもあります。この薬は日本で存続する最古の製薬で、こちらも「ういろう」と呼ばれ、長く親しまれてきました。
近年では博物館や甘味喫茶を開設し、製造販売以外の顔も見せています。

今回は、そんな株式会社ういろうの歴史とともに、長寿の秘訣や未来への姿勢にせまります。

1. 「ういろう」の由来となった、株式会社ういろうとは?

「ういろう」とはどのような会社なのでしょうか。
650年続く老舗を、その歴史を紐解きながらご紹介していきます。

1.1 株式会社ういろうの歴史

株式会社ういろうは、外郎(ういろう)家が営む老舗の薬局・菓子店であり、小田原最古の企業です。

ういろうの初代は医薬に長けた渡来人です。元朝滅亡時に日本に帰化し、北条早雲の招きで小田原に移住しました。以来、現在の25代目に至るまで、地域の健康を守り、小田原と共に歴史を歩み続けてきました。初代から作っている家伝薬は、正式名は「透頂香(とうちんこう)」ですが、家名から「ういろう」の名で親しまれています。
室町時代から接客用に作っていたお菓子も、いつのまにか「ういろう」と呼ばれるようになり、現代に至ります。全国で知られているお菓子のういろうは、家名が由来となったものなのです。

現在、ういろう伝統の店構えや伝統文化を伝える博物館は観光スポットとして認知されています。近年は自家製の和菓子が味わえる甘味喫茶を併設し、町歩きの休憩場所となっています。

1368年
(応安元年/正平23年)
外郎(ういろう)家の初祖 陳延祐(チンエンユウ)は、医術、外交に長けた元朝の役人。筑前博多に渡来した際に元の役職名であった礼部員外郎(れいぶいんがいろう)から外郎をとり、読み方を変えて「ういろう」と名乗った。
1395年
(応永2年)
息子の大年宗奇(たいねんそうき)は、足利義満の招きで京へ上った。効能顕著な陳家の家伝薬は天皇より「透頂香(とうちんこう)」の名を賜る。また外国使節の接待役として、もてなしの想いで希少な黒糖を用いて棹菓子を創作した。薬も菓子も家名を由来とし、「ういろう」と呼ばれるようになる。
1504年
(永正元年)
足利氏の祖籍である宇野源氏の世継をした5代目は陳外郎宇野藤右衛門定治と名乗り、北條早雲に招かれ小田原へ来住。伝統の薬と菓子の製造を小田原で踏襲し、北條五代の街づくりに寄与した。
1718年
(享保3年・江戸時代)
2代目市川團十郎が咳と啖の病で台詞が言えず舞台に立てなかった際、この薬によって全快した。市川團十郎は大変喜び、世にこの薬を広めたく「外郎売」の台詞が誕生(1718年)する。
2005年
(平成17年)
観光地小田原での立ち寄りスポット、モノ造り気質を紹介する場として明治18年築のお蔵を利用した外郎博物館を開設。

1.2 ういろうの現在の代表は

現在ういろうの代表を務めるのは、外郎 藤右衛門(ういろう とうえもん)氏です。

代表取締役 25代目 外郎 藤右衛門(ういろう とうえもん)

成蹊大学経済学部卒

  • 1984年 三菱信託銀行勤務
  • 2004年 後継者指名を受けういろう入社
  • 2007年 社業と並行して横浜薬科大入学
  • 2013年 横浜薬科大学首席で卒業、薬剤師国家試験合格
  • 2013年3月 株式会社ういろう代表取締役就任
  • 2017年11月 25代目外郎藤右衛門襲名

現在は社長業とともに、同大学客員教授や小田原市観光協会副会長など
幅広く活躍している。

外郎代表が語るターニングポイント
現在の代表、25代目外郎藤右衛門氏は、生まれたときから「いずれは当主になれ」と言われていたわけではありませんでした。そのため、薬剤師の資格も取らず、若い時は10年間ほど銀行に勤めていました。

その後白羽の矢が立ち、次期代表として「ういろう」に入った藤右衛門氏は、45歳にして薬科大学に入ることを決意しました。

突然4月から大学に行くと言っても、なかなか周囲には信じてもらえなかったといいます。薬学部は6年制です。当時93歳だった先代が、6年後生きている保証はありません。先代のことを考えて側にいるべきだ、という人もいました。

「先代と同じ立場の薬剤師になり、同じ視点でものを見る。そうすることで、外郎家と会社の責任を受け止める。自分が責任を取れる体制を敷く。」という覚悟の下、大学に行く決断をしました。

在学中は、自分自身が45歳を過ぎても成長していることを実感できたといいます。1日大学に行くと、それだけ新しい知識を得ることができました。大学では当然試験がありますし、薬科大学なので最後には国家試験が待っています。藤右衛門氏は若い学生より知識もなく記憶力も弱いことを自覚し、ハンデをカバーするため「先生の言うことは一言も聞き漏らさない」という姿勢でした。藤右衛門氏は追試・再試になってしまった場合は大学を辞める決意で通いました。

大学では大変なこともありましたが、非常に充実していたそうです。今の自分があるのは、6年間やるべきことをやったという自信があるからだ、と語ります。

襲名
先代が他界してから丸3年が経ったときのことです。昔は先代が亡くなると、次の代が襲名していたそうです。しかし、現外郎代表は、先代の3回忌までその名跡を継ぐのは控えようと考えていました。

外郎代表が襲名を行なったのは、さらに1年経った昨年の11月でした。代表のご子息が社会人になるという、外郎家のひとつの区切りであり、11月は代表の好きな月だったためです。

当然かもしれませんが、襲名したからといって、人の内面はすぐには変わりません。
外郎代表は、以前はなんの抵抗もなく名乗れたのに、今は「外郎藤右衛門です」とすんなり名乗ることは難しいと言います。歴代が名乗ってきた「藤右衛門」という名に対して一つの敬意があるためです。「もう少し自分が歴代当主に恥じぬように精進し、しっかりと外郎藤右衛門であると名乗れるように、頑張らなければ」と外郎代表は語りました。

後継者への想い
身内は養うことはできても、育てるのは難しい、と外郎代表は言います。

本当にその人を育てるのは周囲の人です。外郎代表は、周囲にどれだけ良い環境があるかが重要だと考えているため、ご子息は外に働きに出させているそうです。

ご子息が高校から大学に進むときに外郎代表は「自分で好きな人生を選んでいい」と言いました。薬剤師にならなければならない、とは一言も言いませんでした。人は「こうでなければいけない」といった途端、窮屈になると考えているためです。特に親子という関係の中で言ってしまえば、時に反発や甘えが起きることがあります。薬剤師になるまでの6年間は大変です。自分で決めた道と、人に言われて決めた道は、全く違うものです。

ご子息はそんな中で、薬学の道に進みました。外郎代表は「次を継ぎたい」というご子息の意を汲んで、環境を整えています。つまり、次の代が困らないよう、経営を安定させ、継ぎたいと思わせる環境を作っておくということです。

それは場合によっては地域との関係性です。地域の人が大事に思っている会社であれば、その会社を経営したいと思うようになるでしょう。

2. ういろうの長寿経営を支えるもの

ういろうの長寿企業となれた秘訣には、地域との繋がりがあるようです。そして地域に愛されるには、頑固なまでに守り抜くこだわりがありました。

2.1 ういろうの先代達が直面した危機

ういろうは650年もの歴史があるため、現代の企業が遭遇し得ない危機に陥ったことがあります。

そのひとつが応仁の乱などの戦乱です。ういろうが京都にあったとき、薬を保存しておく甕(かめ)が何度も割れたそうです。これは非常に不吉な予兆だとして、北条早雲と共に小田原に移る決断がなされました。

ういろうは、豊臣秀吉による小田原攻めによって北条家が絶えたときにも存続が危ぶまれる状況となりました。ういろうは北条家に仕える家柄で、また武将としての格付けもありました。そのため、小田原を追放されたり、江戸の街づくりのため薬の商人として移住させられる可能性がありました。
ういろうは、北条家が小田原城を開城した頃から地域の健康を守り、文化的なつながりを持ってきました。約100年続いた北条5代(北条氏の歴代当主5人)の中で築いた地域との密着性があったために存続できたのだろう、と外郎代表は語ります。

現在のういろうも、お客様との信頼関係を大切にしています。従業員には「歴史があるから、この商売が成り立っているわけではない」と伝えています。お客様との信頼があって、何度もお客様がいらっしゃるのです。その信頼とは、昔ながらにきちんと手間と時間をかけてものを作ることです。それが結果的には品質を維持し、お客様の満足度を維持することにつながるのです。「信頼を損ねるようなことは我々はしてはいけない。」外郎代表は、そう語りました。

2.2 株式会社ういろうの精神

薬とお菓子を商う、株式会社ういろうの基本は「地域の人の健康を薬で守り、そして御菓子で皆様の笑顔を生もう」です。ういろうは、祖先が託した想いを守り続けて来ました。それは、薬もお菓子も自分たちの目の行き届く範囲でしっかり手間と時間をかけて作るということです。

家憲はあり、歴代当主も知ってはいますが、特に読んだり掲示したりはしていません。それぞれの時代の当主が、時代に合わせて時には言葉で、時には行動で社員を誘導してきました。こだわる点は所々で示し、これは守らなければいけない、こうしなければいけない、ということを社員に受け止めてもらい、行動してもらうのだと言います。

マニュアルを作るのは簡単ですが、そうすると「マニュアル通りにやっていればいい」ということになり、本質を見失うことがあります。そのため、社員には現場の中で学び踏襲していってほしいのだそうです。

変えても良い部分は何かという点は、そのときの当主が考えれば良い、と外郎代表は言います。100年先はおろか、10年20年先でも時代の流れは全く予測できません。祖先の思いを遺すにはどうしたらよいか。場合によっては自ら身を切ることも、存続するためにはやむを得ないことです。

変えてはならない部分、それは先祖の想いとも重なる、コアの部分です。サイドビジネスをするとしても、コアを失ってしまうと分社化したり、次の代の人物が自分のやりたいことを一から始めることがあるかもしれません。そうなると、継続性が希薄になってきます。

2.3 ういろうと地域との繋がり

外郎代表は、老舗の使命として「地域に貢献しなければならない」と言います。歴史を振り返ってみると、小田原で500年以上存続している大きな要因の一つに、地域に貢献し、地域に愛されてきた、というものがあります。

ういろうは、地元の催事の際には駐車場を開放しています。小田原のお祭りや神輿が練り歩くお祭りのときには神輿の休憩所として、自治会の夏祭りのときは、屋台を出してもらって楽しんでもらうそうです。

「せっかく和の会社なので、社員の人たちにも少し和の文化に触れてもらったら」ということで、代表はういろう太鼓部を創設しました。次第に演奏ができるようになってくると、小田原城の催事や地元のパーティーでの出演を依頼され、場を盛り上げています。

外郎代表は観光協会の役員も行なっています。外郎代表は、小田原の城下町・観光地を賑わせていくため、観光や行政など様々な形で協力していきたいそうです。全体が賑わえば、ういろうのこともお客様に知っていただけます。外郎代表は「老舗がただ1社遺るのではなくて、地域の発展と共に歴史を重ねる」これが大きなキーワードだと言います。

小田原の観光につながる取材であれば、外郎代表は喜んで受けます。ういろうのことを紹介することで、小田原の観光に貢献したいと考えているからです。カメラの前で小田原の城下町の良いところを話したり、小田原に来てくださいといった話をするそうですが、カットされてしまうことが多いのだとか(笑)。

2.4 ういろうと祇園祭・歌舞伎

ういろうは地元地域の他に、京都の祇園祭、歌舞伎の世界との文化的な繋がりも持っています。

京都の祇園祭では、山鉾(やまぼこ)と呼ばれる山車が30基以上も巡行します。その中のひとつが外郎家にゆかりのある「蟷螂山(とうろうやま)」です。蟷螂とはカマキリのことで、山車の上に大きなカマキリが乗っています。南北朝時代に室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)に立ち向かった、公卿である四条隆資(しじょうたかすけ)の戦いぶりを「蟷螂の斧」という中国の故事になぞらえたものです。当時京都に住んでいた、外郎家の2代目大年宗奇(たいねんそうき)が四条家の御所車に蟷螂を載せて巡行したのが始まりです。

外郎代表は、祇園祭での巡業に近年毎年参加しています。蟷螂山は、山鉾の中でも唯一カラクリが仕込まれており、カマを振り下ろしたり羽を広げたりする様子が人気を集めています。

歌舞伎の演目「外郎売」は、ういろうの薬を題目としています。江戸時代に2代目市川団十郎が外郎家の承諾を得て創作しました。薬効を褒めちぎり「どうぞ買ってください」という内容ですが、ういろうが宣伝のために作ってもらったものではありません。というのも、団十郎が咳と啖で台詞を言えなくなってしまった際に、ういろうの薬を服用したことで全快、感激したのがきっかけなのです。

団十郎は江戸から小田原までお礼を言いに行き、舞台で上演したいと申し出ました。当時は早朝に江戸を発っても小田原に着くのは翌日の夜で、気軽に行ける距離ではありません。外郎家はいちど辞退しましたが、団十郎の情熱に押され、承知することになりました。「外郎売」は薬の行商の演目ですが、ういろうは行商をしたことがありません。衣装も内容も、団十郎の創作によるものです。

これらは、ういろうと共に長く続いているだけでなく、ういろうにとってひとつの道しるべでもあります。文化的な繋がりを持ち続けることは会社継続の知恵の一つです。ういろうは、これからもこのような文化と共にに歴史を刻んでいこうとしています。

3. 株式会社ういろうの長寿の知恵

ここまで見てきたういろうの知恵をまとめてみましょう。

知恵1. 祖先の想いを受け取り、芯を守ること

拡大を求めず、自分たちの目の届く範囲で時間と手間を掛けて良いものを作る。お客様を決して裏切らない姿勢が、長年愛される秘訣です。

知恵2. 時代に合わせた変革

先祖の想い、コアは守りつつも、時代に合わせて会社を変化させます。
存続のためには自ら身を切ることも厭いません。

知恵3. 地域や文化との繋がり

会社の窮地を救ったのは地域や文化との繋がりでした。
ういろうはこれからも地域に貢献し、共に生きていきます。

先祖が託した想いをしっかりと受け取り、薬もお菓子も時間と手間を掛け作る。
地域や文化の繋がりとともに、歴史を歩み、想いを伝えていく。

この想いは100年先の後継者に受け継がれていくでしょう。

企業情報:
株式会社 ういろう / 神奈川県小田原市本町1-13-17 /  0465-24-0560
公式ホームページ:http://www.uirou.co.jp/

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