伝統の伝道師たち 新潟古町芸妓

古町花街で多くの人々をもてなしてきた新潟古町芸妓。
古町芸妓は、若手が「振袖さん」、ベテランが「留袖さん」と呼ばれる。
振袖さんの育成と地域芸能の伝承、文化の振興を目的に設立された柳都振興株式会社。
設立から30年、風に揺れる柳のようなしなやかさで時代の変化に適応してきた。
柳都振興はいかにして誕生し、古町芸妓の伝統を次代に伝えていくのか。

シルバーホテル 取締役相談役
中野 進
Susumu Nakano古町芸妓文化継承のため全国初となる芸妓の養成・派遣会社を設立。宝塚歌劇団をヒントに立ち上げ、古町芸妓存続の危機を救う。先進的かつ斬新的な取り組みを続けること30年。「古町芸妓は新潟唯一最大のキラーコンテンツ」と自負する。

藤田金屬 代表取締役社長
今井 幹文
Motofumi Imai2017年(平成29年)、中野から柳都振興社長を引き継ぐ。新潟経済同友会代表幹事、柳都振興後援会副会長、古町花街の会副会長でもある。経済界を挙げて、自身も生まれ育った古町花街の存続と発展をさせようと奔走する。古町花街の斬り込み隊長である。

行形亭 当主
行形 和滋
Kazushige Ikinari日本料理 行形亭(いきなりや)の11代目。大学卒業後2010年(平成22年)、3年の料理修行を経て新潟に帰ってきて以来、調理場に立つ。平成22年より現職。

高橋 すみ
Sumi Takahashi1868年(昭和43年)京都より鍋茶屋へ嫁ぐ。以降6代目女将として現在に至る。前新潟三業協同組合理事長として10年間花柳界振興に努める。新潟商工会議所常議員。

たまき
Tamaki新潟古町の置屋の娘として生まれ、小学校入学前から踊り、鳴物等のお稽古を始め、15歳で「振袖」としてお座敷に。市山流名取としてお座敷だけではなく、国立劇場等にも出演多数。

あおい
Aoi2005年(平成17年)、柳都振興入社。10年後、柳都振興から独立し置屋津乃を立ち上げる。柳都振興設立以来はじめてのこと。独立後はさらに活躍の場を広げ、古町芸妓文化を新潟県内外に発信している。
柳の都 新潟
北前船の「日本海側最大の寄港地」といわれた新潟。北前船は江戸時代から明治にかけて、物を売買しながら北海道~日本海各地、下関を回って大阪へ運航した船だ。
寄港地として多くの人と物が集まった新潟の古町エリアは、港湾都市として整備され、かつては堀がめぐらされていた。通りには蔵がずらりと並び、植栽された柳が優美に風に揺れる。そこから柳の都、「柳都(りゅうと)」と呼ばれた。
今井:「見渡す限りに柳が植えられ、どこからでも柳が見えたそうです。」
北前船の寄港地としてにぎわう新潟には花街が生まれ、訪れる人々をもてなした。古町芸妓は、200年の歴史があるといわれ、質の高い唄や踊り、鳴物などの芸でお客を楽しませてきた。
新潟市には日本舞踊の流派・市山流がある。市山流は新潟市無形文化財の第一号。地方の宗家で120年以上の歴史を刻んできた流派は全国でも唯一だという。芸術性が高く評価されており、古町芸妓の指導や舞踊会の企画構成、新潟の花柳界発展に尽力してきた。
踊りに加えて方言がまじった「花柳界ことば」も、新潟情緒を感じてもらうためのもてなしの一つだ。男性客を「あにさま」、女性客を「あねさま」と呼ぶ。「~してください」は「~しなれて」。例えば「お飲みになってください」は「飲みなれて」と言う。
また、手遊びでもお座敷を盛り上げる。「樽拳(たるけん)」は、樽を叩きながらじゃんけんをし、負けた人が1回転してまたじゃんけん。連続してじゃんけんに勝つとゲームに勝利するというもの。手遊びは「軍師拳」「検校さん」など何種類もあり、負けると罰ゲームとしてお酒を飲み干すことも。
花街文化を支えるのは、料亭・待合・置屋のいわゆる「三業」だ。新潟の花街を支えるのは、新潟三業協同組合。料亭などの店と置屋をつなぐ役割を果たし、古町芸妓が活躍する舞台を整える。
舞台の中心となるのは、江戸時代中期創業の行形亭や、江戸時代末期創業の鍋茶屋といった料亭だ。海の物、里の物、山の物…豊富な新潟の食材から生まれたおいしい料理とお酒、お座敷の場を提供する料亭は、新潟の花街とともに発展してきた。歴史ある木造建築、しつらえ、美しい庭園や趣向を凝らした器など目に映るすべてに日本文化の粋が集まる。
最盛期には300人いたといわれる古町芸妓。一日に何度もお座敷に上がり、夜中まで料亭の玄関が下駄で埋め尽くされた。
そして、その三業を支えてきたのが、港町・商都として、また国内屈指の米どころとして繁栄した新潟の豪商・豪農たちだ。彼らが「旦那衆」いわゆるスポンサーとなって、置屋を支え、芸妓を育ててきた。江戸時代から明治、大正、昭和と連綿と続いてきたが、時代の荒波が押し寄せる。戦後の財閥解体、農地改革で豪商・豪農はいなくなった。
中野:「旦那という言葉は、『与える』『施し』といった意味のサンスクリット語『ダーナ』に由来するそうです。置屋に一人か二人若い子を住まわせて、三食出して、お師匠さんのところに習い事に行かせて、着物も仕立てて、学校にもやって…。とにかく半端じゃないお金がかかる。旦那衆が置屋を支えていましたが、そういう人たちがだんだんと減っていったんです。」
旦那が減れば、芸妓も減る。古町芸妓のなり手は半分、また半分と減っていった。ついには振袖さんが一人もおらず、一番若手の芸妓でも30代後半というところまできた。
旦那衆を会社組織に
古町芸妓を守るために音頭を取ったのが、新潟交通社長(当時)の中野進だ。商工会議所の副会頭も務めていた。
中野:「新潟の経済界でも、古町芸妓の燈火が消えそうだ、後継者がいないどうしようと思案していました。でも名案がないままズルズルときてしまって。それでいよいよという時に、旦那がいないんなら、みんなで旦那衆になろうと、会社を設立しました。旦那衆を会社という組織にしたという感じですね。
宝塚歌劇団がヒントになりました。宝塚は阪急電鉄の創業者が発案。宝塚温泉の隆盛を図るために神戸、大阪から電鉄を敷いて、歌劇団を養成した。じゃあ新潟は、新潟交通が中心になってやろうじゃないかと。地元企業80社が出資に賛同してくれました。かつての『柳の都』にちなんで、社名は柳都振興にしました。」
1987年(昭和62年)12月、柳都振興が誕生した。芸妓を社員として雇い、育成し、派遣する。置屋と旦那衆の役割を果たす会社だ。柳都振興の芸妓は「柳都さん」と呼ばれるようになった。
中野:「好条件でないと人が集まらないだろうと考え、当時の高卒の女の子が会社員になってもらう給料の倍は払うことにしました。それから、寮としてアパートの部屋を用意して、もちろん社会保険も完備。成果配分で、1年に一度くらいは賞与も。」
あおい:「それは私の時代も、大きかった。こういうお仕事で、福利厚生がしっかりしているんだってびっくりしました。」
高橋:「会社設立の資金は順調に集まりましたが、かつらやお着物などの初期投資にものすごくお金がかかりましたね。」
行形:「一番お金がかかる、かつらも着物も会社持ち。ほかの芸妓さんからはうらやましがられるみたいですね。好条件で働けて、寮があって、社会保険があって、有給休暇があって。そんな恵まれた環境はないって。」
資金は順調に集まり会社を設立したはいいものの、肝心の芸妓候補を集めるのに苦労し、1期生を10人集めるのに丸1年かかったという。会社員、百貨店の販売員、喫茶店のアルバイト、いろいろなところから人を集めた。着物を着たことがない、正座をしたことがない、白塗りなんてとんでもない…。素人を一から指導する難しさもあった。
高橋:「柳都振興設立当時は、古町芸妓のお姐さん方が75人くらいはいました。何が良かったって、柳都の若い子たちはお姐さん方と同じところでお稽古をしたこと。地元の市山流でもお稽古して。お姐さん方と一緒にお座敷に出て、マナーや芸を学んでいったんです。1年に一度、踊りを披露する場もあって。」