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至誠学舎立川 〜心の中に大事なものを作っていく「学び舎」

オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~

今回のゲストは、社会福祉法人至誠学舎立川 8代目代表 橋本正明(はしもと まさあき)
1912年(明治45年)創業。創設者・稲永久一郎(いねなが・きゅういちろう)の少年への愛情と教育活動から導かれた理念、それは「まことの心」。
創設者の急逝を経て、「児童養護」、「高齢者福祉・介護」、「障害者福祉」など、現在は幅広い社会福祉事業を展開している。
今回は、そんな至誠学舎立川の8代目 橋本正明の言葉から、創業から現在に受け継がれている想い、語り継がれてきた、先代達の決断と苦悩、歴史の中に隠された物語、至誠学舎立川の持つ、「長寿企業の知恵」に迫る!

石田:今回のゲストは、社会福祉法人 至誠学舎立川理事長の橋本正明さんです。よろしくお願い致します。

一同:よろしくお願い致します。

朝岡:至誠学舎…まぁ学舎(まなびや)という名前が付いてるんですけど、事業の内容としてはこれは福祉関係のお仕事ということになるんですか?

橋本:はい。そういうね、歴史的な背景があるんですけど、基本的に社会福祉法人の社会福祉の仕事です。

朝岡:うんうん。具体的にはどのようなその事業内容になってるんでしょうか?

橋本:現在は、まぁ高齢者福祉事業、介護を中心とした仕事。それから児童福祉の仕事。児童福祉は児童養護施設中心に。あと、障害者の就労支援の仕事。それから保育所がいくつかあります

朝岡:あぁそうですか!

石田:で、今は何代目でいらっしゃるんですか?理事長は。

橋本:実はですね、私は理事長としては8代目なんですけれども、まぁ言ってみると3代目。だから、創設者の孫の代ではあるんです。

朝岡:ふーん、あぁそうでいらっしゃるんですか!始まったのは、明治45年?

橋本:そうですね。

朝岡:かなり長い歴史をお持ちなんですが、昨今はほんとにその福祉だとか、まぁ介護だとか養護だとかそういうことに対してものすごく社会的に関心が高いですけど、その中でこの至誠学舎立川さんのその強みっていうか特徴って、どういうところにあるんでしょうか?

橋本:やはりその最初に“学舎”という言葉がね、出ましたけど、実は私どもの最初の仕事は、創設者が地域で罪を犯した子どもたちを引き取って、自宅で職業訓練をして、まあ事業をしてたもんですから、そして社会に送りかえらしていくっていう、そんな仕事だったんですね。だから、まぁある意味で言えば更正事業ですけれども、そこで単に技術的なことだけじゃなくて、まぁ人の道を伝えていくということで、それで“学舎”っていう名前がついてるんですね。

朝岡:あぁ!そこから、“学舎”という名前が。

橋本:はい、学舎(まなびや)なんですね。で、それも戦前のことですから、言えばその頃は社会事業というくくりになるんですけれども、家族一体となってですね、仕事してたってことで、それが連綿と続いて現在に至るんで、ひょっとするとやっぱ歴史とその背景っていうのが私どもの特徴であるし強さであると、そんな風に思いますね。

朝岡:今、施設の数…まぁ色んな施設があると思いますけど、施設の数と社員の数を教えて頂けますか?

橋本:施設の数で言えば、まず子どもの児童養護施設、これが3つありまして、あと障害者の就労支援の事業が1つ。それから、保育所が11箇所。それから、高齢者の施設…これは介護保険になって状況がずいぶん変わってるんですけど、重度の介護の方のお世話をする施設が…まぁ、特養と言いますけど、これが3つ。それから、軽度の方、または住宅性の強い老人ホームが2つ。その他高齢者住宅であるとか、それから在宅サービスはたくさん、たくさんありますから。

朝岡:あぁ、在宅!そうですか。その関わるその社員の方の数も相当多いですね!

橋本:そうですね。全部法人全体で言うと、1300名

朝岡:あぁ!!そうですか!

橋本:そのうち、高齢事業の方は700名ぐらい。約半分くらいが高齢事業なんですけれども。

ここからは、各テーマを元に、至誠学舎立川 8代目 橋本正明の言葉から、歴史と伝統の裏に隠された物語、至誠学舎立川が持つ、長寿の知恵に迫る…。
最初のテーマは、「創業の精神」
創業者の想いを紐解き、現在に至るまでの経緯を3代目 橋本正明が語る。

石田:それでは、改めてですね、創業から現在に至るまでの経緯を伺えますでしょうか?

橋本:そうですね。まぁそんなことで、申しあげたように創設者が明治45年。創設者はそのところ30歳だったそうですけれども、私の祖父にあたります。
田舎から出て来て、製菓事業…お菓子をつくる仕事を始めて、それはまぁ卸をするような仕事で、ある程度成功したんだと思うんですね。で、たまたま休日に浅草に行って、その頃浅草だから、遊びに行ったら、子どもが大人に殴られてると。
「何でか?」って聞いたら、あの子たちは仕事はなくて、生きてく場がなくて、悪い人たちの手先で使われてるんだ。それで捕まって折檻されてるんだって話を聞いたんだそうです。

それで、その事に深く感じるところがあったようで、後日、そういう子が生活しているようなそういう施設があったんですけど、そこに行って、その子たちを引き取って、2人引き取ったのが最初なんですね。
で、それを家に引き取り、家庭で生活させて、職業訓練しながら。そうして社会に一人前の…なんて言いましょうかね、市民として送り出していけたっていうことなんですよね。

朝岡:はぁー!

橋本:それがスタートで、それからだんだんその仕事が大きくなってきて、法律的に言うと、少年法という法律が大正の14年にできるんですけども、その時に、最初の民間の少年保護団体、そういう風な仕事をする施設として認可を受けて、それが続いていくんですけれども、まぁ戦前のことですから、何ていうんですか、、、それにかかる、、、何ていうかな…一方では仕事をしながら、そういう仕事…製菓事業をしながら、そういう社会事業もしていたと。
まぁそんな経過でずっとくるんですね。で、まぁ色々戦前のことですからありましたけれども、昭和17年にはもう財団法人化をして、私財を寄付してですね、

朝岡:ほぉー!

橋本:で、戦争だったですよね。

石田:はい。

橋本:で、色んな混乱があるんですけど、戦争が終わったあと、その創設者まだ63歳だったんですけど、急逝してしまうんですね。

朝岡:ほぅー。

橋本:で、戦後はまぁ第二の出発になるんですけれども、ここのところは大きな法人にとってのターニングポイントになるんですけれども、あと継ぐものが、今度は、まぁ戦前は地方省関係の仕事ですから社会事業ですけども、戦後は厚生省関係の仕事のお年寄りとか子どもたちとの仕事に取り組みだして、そして現在に至ったと。そんなとこですね。

朝岡:あぁ−、その事業がだんだん、戦後特に展開をしていくわけですよね。で、ここに至るまでその規模というは、もう着実に大きくなっていったという道のりなんですか?

橋本:規模から言えばですね、大きくなったっていうのは、やっぱり昭和30年から40年代くらいになってからってことですね。

朝岡:あぁー!ってことですね。

橋本:その前、戦後仕事が始まった時は、ほんとちっちゃな民間のですね、戦後は社会福祉法人になりますけど、ちっちゃな事業所っていうか法人だったんですけれどもね。
まぁ、多分戦後の日本の発展と、ある意味で言えば、軌を一にしながら

朝岡:そうでしょうね!

橋本:で、社会も発展するとやっぱり福祉ニーズも広がっていって、それに対応して仕事が広がっていって、ということだろうとは思うんですけどもね。

朝岡:あぁそっかー。2人のね、その少年をね、その何で殴られてるんだと。悪いことの手先になってるからやられてたのをそれはいけないって言うんで引き取ったっていう始まりが、その企業っていうよりも、やっぱり心と心を、大人が感じた心を少年に返してあげるっていうか、なんか救ってあげるっていうその辺の始まりのところがなんか至誠学舎さんにとっては大事なものなんですね

橋本:そうですね。うん。歴史の重さっていうのは、すごく我々感じてます、いつでも。

石田:なかなか出来ないことですもんね。
それでは、至誠学舎立川さんの家訓や理念を伺えますでしょうか?

橋本:名前が示してる通り、“至誠”なんですね。誠ということなんですね。多分その創設者、これ創設者の心だったんですけれども、やっぱり人の道ってことだったんだと、誠に生きるっていうね。で、創設者が遺した言葉が色々ありますけれども、私どもが今大事にしているものは、まことの心の働きは・人の心を動かし・天に通ず』

朝岡:あぁー!

橋本:それは非常にですね、私ども言っておりまして、大きな資産を与えてくれている言葉だと思ってます。その心情っていうかね、人の心っての、それは、私どもの仕事っていうのは対人援助の仕事。人と人との関係ですよね。その時に感じ合えると。

朝岡:うん!

橋本:まぁ色々な心に傷を持った人。動かされて、そのことは、やっぱり天の道へ通じるってね、誠の道だと。これは人の道だという風に言うんです。言われているんですけどね、これは、ご承知のように儒教の精神が背景にあって、まぁある意味では佛教の精神もそこにあるんですけれども、だけども、宗教的なものを私ども持ってるってわけではなくて、ある意味では、誠に生きるっていうかね、誠の道とか、誠の心ってのを私ども言ってるんですけども。まぁ、それがうちの法人の、、、何ていうかね、、、やっぱり基盤というか精神的なバックボーンにあっているんですね。

朝岡:といいますと、まぁその、企業というか事業という形をおとりですからね、新しい社員というかその入ってらっしゃるそういう方々に、今の仰ったその理念というか、誠の心というか、それをどういう風にこう浸透させて、理解してもらって、実践していくかって、とっても大事なところだと思いますが、どういう風になさってるんですか?

橋本:そうですね。創設者がこれも遺した言葉ですけれども、人から至誠というのはどういうものかと聞かれた時にね、創設者は、「私の生き方そのものだ」って言ったそうですね。

朝岡:あっらー!

石田:おぉー!

橋本:だから、非常に真面目な人だったんですね。で、じゃあ、今1300人いる職員にどう伝えていくか、これそう簡単なことじゃありませんけれども、昔と違って今は社会福祉の専門教育を受けた人たちが中心でありますよね。まぁソーシャルワークっていう風に言うわけですけども。そのベースに私どもは日本のソーシャルワークのベースは、やっぱり誠の心だということは常に職員には伝えます。

で、まぁ勿論、機会ある毎に伝えていくし、色んな実践活動も基本はそこにあるんだということを日々の職員指導だとか職員の育成であるとかね、そこの基本に据えられている。だから本当に1300人、こう、まぁ多分…私信じてますけども、みんなその職員は何があるかって、“まことの心”だってみんな言うと思うんですね。

朝岡:ほぉー!

橋本:非常にそういう意味ではですね、具体的に何かっていうことではなかなか明確に言いにくいんだけれども、実践自体がそうだっていうね、想いを強く持ってるっていう風に思っているし、私どもにとってもそれが誇りでもあるし、また、うちで仕事してる人たちもそういう法人で仕事をしたいということで来てる人たちだという風に思っております。

朝岡:うーん、まぁそれは随分こう強みというかね、ほんとにあの…なんか説得力ありますよね!

朝岡:そうですね。“まことの心”ですか。

橋本:私は3世代目だから、それほどたいしたことではないんですけど(笑)

一同:笑

橋本:想いは持ちながら仕事してますね。

朝岡:想いは大切ですよね!

石田:はい。誠の心は、シンボルマークだったりロゴにも使われているんでしょうか?

橋本:そうですね。私どものマークが至誠学舎。多摩川の流れを組み込んでですね、

朝岡:あ、今、記章を付けてらっしゃいますね?

橋本:そうですね。

石田:そちら…

朝岡:あっ、多摩川の流れが縦になって、Sで、、、

橋本:学舎のGです。

朝岡:あっ、Gがなってる!あぁーそういう意味で!

橋本:だから、もうこれ気に入ってるんですよね(笑)

一同:笑

朝岡:あぁー、それがね!あぁーそっかー!
まぁ先程、1300人社員がいらっしゃって、事業をやってらっしゃる企業の代表としてはですね、なかなかこう全てを一応把握というか、していかなくてはいけないっていう側面もあると思うんですが、その辺りも橋本さんはきっちりこう?

橋本:まぁきっちりかどうかはわかりませんけども、私も現場から育ってきているもんですからね、それから、私は基本的には高齢福祉の教育だったもんですから専門が。だからそこについては、まぁ、何て言うかね…把握っちゃ十分だと思ってますけど、新しい児童福祉の仕事や保育の仕事っていうのはね、私にとっても、まぁ社会事業、社会福祉だっていうことは変わりませんけれども、年に1回はね、まぁ行事なんかもありますしね、顔は現場には出すようにしてたり。

それから、毎月1回、「まこと館だより」っていうお便りを書くんですけど、毎回私のメッセージをみんなに伝えて、まぁそんなものを配って、まぁ会議も勿論たくさんありますけどね。まぁなるべく。直接ケアにあたる人たちは現場の人たちですから。それで、その人たちを掌握しているのは、支店長さんたちですから、よく意思疎通っていうかですね、何て言うか、考えを浸透させていくっていうことを、大きな自分自身の心がけてしているつもりでいるんですけどね。やっぱりこう伝えるってことは大事なことだと思うんですね。

朝岡:そうですね!コミュニケーションも含めてね、伝えていくってことはね!

橋本:訪問するとか、毎月出すそのお便りとかね。まこと館っていうのは、法人の本部なんですけれど、これもシンボルみたいなところがあってですね、そのまこと館だよりっていうのは。だからはよくこういうところだと、利用者の方への家族の方へのお便りってありますけれど、私ども職員に対してなんですよね。それが大事だという風に思っているんですね。

朝岡:なるほどね。

橋本:その他にも色んなことがありますけれどもね。

朝岡:うんうん。

決断 ~ターニングポイント~

続いてのテーマは、「決断・ターニングポイント」
至誠学舎立川の発展と共に訪れた苦境、それらを乗り越えるべく、先代達が下した決断とは?

石田:決断・ターニングポイントということで、まずは、至誠学舎立川さんにとっての転機・ターニングポイントを伺えますか?

橋本:非常に大きなですねターニングポイントがありました。それは先程もちょっと申しあげましたけれども、戦争って大きな日本の歴史の中で健在してありまして、それが終わったあと、実は私たちの法人にとっても大変大きな決断をしなければいけない時期があって、私は昭和20年生まれなんで、その時は生まれたところなんですけれどもね。創設者が、稲永久一郎が、実は昭和21年4月に急逝してしまうんです。その時まだ63歳。仕事を始めてまぁ30年でしょうかね。非常に強いリーダーシップで製菓の仕事もしてたし、そして社会事業としての少年保護事業もしてた。まぁリーダーが急にいなくなってしまったんですね。

で、戦争が終わって…で、それだけではなくてですね、戦後制度が変わりまして、そういう少年保護事業をですね、民間にはさせないという実は政策がうちだされるんです。これは、GHQの支持だったんですけども。だから、そういう創設者が亡くなってしまう。背景としては法律ができなくなってしまう。ということがあってですね、多分、今思っても、その頃の、まぁ要するに私の上の代、2代目の代ですけれども、どうしたらいいかほんとに混乱だったと思うんですね。

で、その時に、祖母が、まぁ祖母が2代目の理事長になるんですけども、祖母は非常にもう家庭的なことで家の中をやっていたような方だったんですけども、それと娘が5人居たんですね。男いないで娘ばっかりだったんですよ(笑)それで、だから娘は連れ合いにも言いますけども、どうしていくかってところで非常な議論があったようなんです。で、もう解散してもいい!っていうようなね!

朝岡:そうでしょうね。

橋本:ことだったんですよね。財団法人だったんですけども。しかし、みんなの総意で創設者の心を受け継いでいくと。ただし、その製菓事業っていうか、それはもう…

朝岡:お菓子の方は?

橋本:そう、出来ないから、社会事業を中心にしていくっていう判断をしたわけなんですね。
で、戦後制度がずっとなっていくんですけども、昭和24年頃かな…児童福祉、保育の仕事、それから児童養護の仕事、それから高齢者は、その頃は老人福祉法ってなくて生活保護法、戦後できた法律ですけれども、貧困のお年寄りたち、まぁお年寄りも戦争でお子さんを亡くしたり、家を焼かれた人たちがたくさんいらっしゃいましたから。そういう仕事をしていこうと。それぞれ娘たちが分担をしてですね、強力なリーダーが居なくなっちゃったから、そういうことはなかなかできないけども、分担して新しい社会事業・社会福祉をしていきましょうってことになったんですね。

で、それだから100年以上…105年の歴史がありますけども、実は私どものターニングポイントを通過して、今のスタートは、再スタートはやっぱり戦後。まぁ事業始まったのは昭和24年ですけども新しく。戦後の混乱期があってですけどね。その頃、ちょっと大きい建物があったので、立川市が中学校の校舎に借りたいっていうことがあって、そんなこともお貸しもしたりして、なかなかそのすぐに新しい業務に進むことできなかったんですけども、でも、まぁそういうことも整えながらですね、スタートをきっていって、戦後の混乱期を乗り切っていった。だからそれ2代目、リーダーになった人もいますけども、乗り切っていったていうね。そこのところが、ひとつ失敗っていうか違う考え方になると、もう今なかったと思うんですね。

朝岡:そうでしょうね!

橋本:それは非常に大きいことだったと思ってますね。

朝岡:そうですね!ただでさえ、戦争が終わって大混乱の世の中の中で、初代がお亡くなりになって、で、その奥様ですかね、おばあさまが継いで、で、それで菓子の方は整理して、まぁほんとになかなか大変な時代だと思いますけども…。
でも、こういうそのお仕事というのは、一般的にものをつくったり、或いは食べ物屋さんみたいに食べ物を作るお店があったり、で、そこで育つとね、「お前は何代目だよ!」なんてちっちゃい事から言われたりするでしょ!でも、橋本さんはなかなかそういうの難しいお仕事だし、橋本さんはだいたいどうしてこの…(笑)

橋本:笑

朝岡:今理事長になってるっていうか、

橋本:そうですね(笑)

朝岡:単に一族だから?

橋本:いやいやいや、そんなことは全然ないんですね。

朝岡:どういうきっかけだったんですか?

橋本:うーん。まぁそんなことで、親戚がたくさんいるわけですよ。叔父叔母もいて、従兄弟もたくさんいますしね。で、私個人のことで言えば、私の両親はそのうちの高齢福祉事業をするということで、昭和26年からスタートしてるんですけども。私はもうほんとに我が儘勝手に育ちましてですね、高校時代から山登りをやってましてですね。
大学もどうするかってあんまり、あんまりは考えてなかったんですけども、たまたま社会福祉学科にまぁなんとなく入りましてですね、入ったんだけれども、今大学ってたくさん社会福祉学部ってあるんですけど、その頃はいくつかしかなかったんですけどね。まぁ、両親から言われたわけでもなくて、安直な判断だったんじゃないかと私思うんですけどもね。でも、入学してから、やっぱし山登りをしてまして、体育会の山岳部に。

朝岡:山岳男!

橋本:なかなか厳しい山登りもしてましてですね、そうこうしてるうちに、大学4年の時に学園紛争の時代だったんですよ。

朝岡:あぁー

橋本:うん。1969年に卒業なんですけどね。

朝岡:ちょうどあの東大なんかも紛争があったりね!

橋本:そうそうそうそう。私の大学も封鎖になってたりね。チャペルが封鎖になってたりなんかしてましたよ!で、もう…いやになっちゃってね!で、たまたまゼミの先生に紹介して頂いて、田舎の方のまぁ群馬の山の中の高齢者の病院のソーシャルワーカーで仕事を始めたんですね。

朝岡:ほぉー!

橋本:だから、それはそれで、その時あんまり考えもなかったんですけど、まぁいいかなというような感じで。両親から強要されたわけでもなんでもないんですけどね。たまたま行って楽しく仕事してたんです。リハビリテーションの病院でソーシャルワーカーとして楽しく仕事してたんです。
で、たまたままぁちょっとご紹介してくださる方があって、僕のフィンランドの大学に行かないかっていう話でですね、私ももう単純にですね、「はいはい!行きたい!」
その頃簡単に海外に出られなかったんですよ。それこそ360年の時代で。
で、まぁすぐ飛び出しちゃいましてですね。

朝岡:フィンランド行った?

橋本:フィンランド行っちゃったんですね(笑)

朝岡:フィンランドで何やってたんですか、それで。

橋本:基本的には学生してたんですけど(笑)

朝岡:あぁーそこでね、ふんふん。

橋本:で、まぁちょっと経緯は省略するとして。2年間で一応BA(学士号)のところまではいったんで、これでいいと。で、そこまで2年かかった。2年だったんですけどね。で、そのあと、その頃日本に帰ったらもう二度と海外に出られない!という想いがあったんですね。で、その頃は、学園の外だと、たくさん日本の若い人たちが海外に出てた時代でもあるんですよね。あのバックパッカーなんかしてね、向こうで片道切符で行って、向こうで働いてっていうね。まぁそんな風な感じだったんですけどね。そんなんで少しイギリスにいたり。でももうそろそろ帰んなきゃって、陸路でずっと中近東からインドまで行って帰ってきたんですけどね。その頃まだねアフガニスタンは王国だったですよ!

朝岡:あぁ、まだね!

橋本:うん、その時代ですよ!

朝岡:のどかなね…いいとこだったんですけどね。

橋本:そうそう!すごいあれが私にとっては、ある種青春のですね、絶好調の時だったですね(笑)それで…

朝岡:今、なんか、ほとんど橋本さんの青春時代の思い出の話に(笑)

橋本:あっはっはっは(笑)

朝岡:フィンランドに行って、相当ずーっと色んな見聞して日本に帰っていらっしゃって。で、どうしたんですか?

橋本:そうですね、もう28になって…6…7だったかな?で、仕事をね、勿論向こうで高齢者福祉の勉強をしましたから、日本にない形の福祉っていうもの、それが地域福祉みたいなね、在宅サービスのことだったんですけども、それを何とか日本でも、そういうことを実現したいなっていうね、大それた想いを持って帰ってきまして、たまたま帰ってきたら、ちょうどうちの両親の施設が古い養護老人ホームと軽老人ホームだけだったんですけども、特別養護老人ホームね、介護型の施設を作りたいということで努力してたとこなんでね、色々経緯はあったんですけれども、新しい形の施設ってことで、自治体と協力を得て、その地域の中の介護施設。
もう一つは、在宅サービスをそこに加えていく施設を作るってことで、これ、日本ではまだなかった

朝岡:先取りもいいとこですよね!

橋本:コミュニティケアって、その頃言われていたんですけどね。そういうことを学んだっていうことでもあるわけですけども。それで努力して、昭和48年に帰ってきて、日本ちょうど福祉元年だった時なんですよね。
だから、学園紛争の時に出て行って、帰ってきたら、公害統制なんかがたくさんあって、そして福祉元年で、オイルショックでっていう。そういう激動の時代だったかもしれないですね。田中角栄の時代で、

朝岡:あっ、日本列島改造の時代ですよね!

橋本:そうそうそうそう!日本社会がもうほんとワサワサしてたですね。

朝岡:いやー、そうですか。至誠学舎さんの、

石田:はい。

朝岡:歴史の中からすると、まさにそのタイミングで!

橋本:そう!

朝岡:海外へ行かれててね、社会福祉も勉強なさってて、で、その立て替えとかね、変えていこうってこともありましたし。

橋本:ほんとそうなんです。結論的になっちゃうけど、私はね、すごく運がいいと思ってる。運も実力のうちって言いますけどもね、タイミングが良かったんですよね。思うことができてきたってことかもしれないですね。まぁそれから昭和48年…昭和52年に、そのプロジェクトが完成するんですけど、高齢化福祉のそれこそ認知症の問題からね、認知症になると介護・在宅サービスの時代。そういう流れもあったもんですから、そういう中で現場で一生懸命仕事をしてったってことでありますね。
で、まぁそれぞれさっき言った他のうちね、それなりに児童福祉の仕事や他の場所での高齢者の仕事や保育所があって、それぞれが一生懸命やってたんですね。 まぁ、分権の様なですね。

朝岡:そうですよね!同じ様な至誠学舎さんの中でも色々あって、それがこう上手くそれぞれに変化して新しいこともはじまったっていうそういう時期だったわけですね。

橋本:そうですね。それはね、私は高齢だったわけですけど、児童養護の方は児童養護の方で、大変在宅サービスだとか新しい考え方のサービスを取り入れたり努力していったし、保育も保育で、まぁ結果的に今保育園って24時間保育だとか病児病童保育なども取り組んでいる。それぞれが担当して一生懸命時代の要望要請期待に応えていくような事業に取り組んできたという。そんなことなんですね。
で、色々あって、それで私が8代目の理事長になったっていう(笑)

朝岡:解決した(笑)

石田:ね!はい(笑)

言魂 ~心に刻む言葉と想い~

続いてのテーマは「言魂」
心に刻む 言葉と想い。強い想いと信念が込められた言葉には魂が宿り、1人の人間の人生に大きな影響を与える。
橋本正明が家族や先代から、受け取った言葉、そこに隠された想いに迫る。

石田:続きまして「言魂」ということで、幼い頃、先代だったりまた、おじいさまおばあさまに言われた印象的な言葉、そこに隠された想いを伺えますでしょうか?

橋本:そうですね、まぁそんなことで私もあんまり考えもなしに、現場で思うことを一生懸命やってきたってところなんですけども、していけばいくほどやっぱり、上の代が取り組んできたことの重さとかね、それがあって今があるって想いが強く持ちますですよね。

朝岡:ほぅほぅほぅ。

橋本:やっぱその至誠だとかね、まことの心にしてもですね、だんだん仕事していくうちにですね、一層重要なことだなってね。で、職員も増えていきますし。どうまとめていくかということ。やっぱり精神的な背景って非常に大事ですからね。そんなことも含めて、さっき申しあげた、『まことの心の働きは・人の心を動かし・天に通ず』非常に大事にしています。まぁそんなことやら色々ですけど、私どもの高齢者の施設には“御和讃”というのがありましてですね、

朝岡:ほぉ!

橋本:御詠歌ですね。これもまぁ色々経緯があるんですけども、母が一生懸命やってまして、たまたまですねもう昭和20年代ですけども、サポートしてくれてるお寺のご住職さまが御和讃をみんなのお年寄りたちの心をまとめるようなことの活動にならないかとうことで御和讃を作ってくださいまして、それが今にも繋がって今でも歌うんですけど。その中でですね、至誠ホームの和讃っていうんですけどね、「おかげさまにて日を暮らす、これが至誠の心にて、至誠の精神仏なり」っていうんですよ。だから、まぁ私も背景のことはよくわからないんだけども、非常にみんなで作っていこうって、そして一人一人が幸せになって、ここでの生活を作っていく。その基になるのがね、至誠の精神、それが仏なりってね。
なんかね、現場にいるとですね、それが響くことがありましてですね、そんなことは思いますね。

朝岡:なんかやっぱり橋本さんは色んな言葉がね、お好きだとお見受けするんですけど、まぁ至誠学舎さん自身もね、誠という言葉の持つ意味も大事になさってますし、あと何かご自分でお好きな言葉というか心に刻んでる言葉はございますか?

橋本:そうですね。言葉でいうとね、私「中庸」という言葉をすごく大事だなって思うんですね。

朝岡:中庸。

橋本:「至誠」と「中庸」ってね。中庸っていうのは、バランスですよね。うん。あまり行き過ぎにもならないでね、色んなことがあってもやっぱり中庸の精神が大事だなって、それはいつでも思うことですね。それは、ものっていうのは、こうだ!って思っても変化していくんですよね。だから、変わるっていうことが前提だなって思うんですよね。だからそういう時に、やっぱりバランスをとっていってね、こうじゃなきゃいけない!っていう思い方はあんまりしないようにしてるんですね。
だからそんなこともあってね、これはまぁなんか演歌的ですけど、「風林火山」というね、言葉が僕は好きなんですよ。

朝岡:おぉ!武田信玄!

橋本:そうそうそう!やっぱりね、状況に応じて風にもなり、山にもなり、火にもなり。で、動いちゃいけないというような時もある。状況ですよ!その状況をどう判断するかだと思うんですね。で、状況の判断をして決断をしていく。ね!だからそれは、「風林火山」ってどんな状況でもいいじゃないかってそうなっちゃう。そうじゃなくて、今がどういう時なのか、今が状況どうなのかっていうこと。やっぱり自分でしっかりと認識できる。それはやっぱり日頃から色々な情報を得たり、学びをしていくってことだと思うんですよ。で、決めることは決めるっていうことに繋がるんじゃないかなと思って、いつでも思ってるんですけど。今がどういう時か、今は動いちゃいけない時なのか、静かにしなきゃいけない時なのか、今動かなきゃいけないんだとかね。それはいつでも思ってますよね。

朝岡:まぁあれですよね。その保育だからちっちゃいお子さんもいるし、お年を召した方もいらっしゃるし、で、それも教育の部分もあるし、介護の部分もあるし、って、ほんとに色んな年代と分野が違うからこそ、その「風林火山」という言葉。今どういう状況なのかっていうね!

橋本:何を求められていつかね。

朝岡:ねぇ、見ないと!

橋本:何をするべきか。

朝岡:そう!これからも含めて?

橋本:そうですね!で、変化していくんですよ。変わらない伝統が、至誠学舎を変えていく。

石田:はぁー!

貢献 ~地域、業界との絆~

地域や業界との絆。長寿企業にとって欠かせないもの。
それは、地域との関わり。
「至誠学舎立川」が行っている社会貢献活動、地域との取り組みとは?

石田:地域や業界との絆ということで、まずは、地域で取り組んでらっしゃること、また、社会貢献活動などはございますでしょうか?

橋本:はい。申しあげてきたように、福祉の仕事っていうのは社会と共にあるっていうのは、社会のニーズに合わせてってことだと思ってるんですね。で、そういう意味で言えば、ほんとに地域の課題、地域の生活課題、保育にしても高齢の問題にしても子どもの子育ての問題にしても。全てどの領域でもね、地域との関わりの中で仕事をしていくっていうね、すごく大事にしているし、そのものだと思っています、私ども活動のね。
だから、いつも法人全体で言うとですね、年間で延べで言うと2万人くらいの方がボランティア活動で入ってくださってるんですよね。

朝岡:ほぉー!

橋本:それは非常に大事なことだと思っているんです。専門職が専門家としてやるだけじゃなくてですね、地域と共にあって、そして地域の方に取り組んでるっていうところだと思うんですね。だからね、高齢施設なんかを見てても、昔ボランティアさんだった方もたくさん入居してたりね、サービスを受けられてたりね。

朝岡:あっ、そういうね、なるほどね!

橋本:職員でもね、同じ様なことが言えるんですよね。元職員なんかも利用者になってたり、みんなのふるさと至誠ホーム。至誠学舎っていうんですけどね(笑)そんなことがありますよね。
だから昔はね、社会福祉を使うなんていうのはね、やっぱり社会から落ちちゃった人で、なるべくそういうことは目を反らせていこうっていうことだったかもしれないけど。今はそういうことじゃなくて、やっぱり地域の生活ね、どうやって続けていかれるのか、地域支えていくって。施設もそうであるし、また住民の方々もそんな形でたくさん関わってくださって、それが非常に重要な、非常にこうプリミティブな感じですけども、ポイントだと思ってはいるんですね。

朝岡:むしろその地域との関わりというか、それがその至誠学舎さんにとってはとても大事な業務の一体となってるということですよね。

橋本:そのものですね。だから公益事業だとかですね、それから行政との関わり、或いは、社会・衆議会との関わりもですね、そういう意味で大事なことで、共に取り組んでるっていうような感じがありましょうか。行政との関係も同じですしね、行政も支援を受けながらでありますし、かと言って我々はやっぱり法人…主体的なね、活動・取り組みをしている。まぁたくさん色んな事がありますけれども。
あと、業界っていうかそれでいうとですね、私、今日本では、介護職とソーシャルワーカーの国家資格があるんです。

石田:はいはい。

橋本:で、私もそんなことで、資格…社会福祉士といいますけれど、資格が出てきた時に、自分も取得して、で、組織を作っていく努力をして、1994年ですか、その全国組織の会長になってですね、日本社会福祉士会と言いますけれど、それから1998年まで会長をしましたかね。そんなんで、全国で4万人くらいの組織に育ってきてるんですよね。ソーシャルワーカー、働いてる場所はもう社会福祉全般、どこででもですけど。

今私が取り組んでいるのは、その専門的なケア…働きが出来る社会福祉ということで、認定社会福祉制度ってものが私ども作りましてですね、その仕事もしたりしてます。
そんなことで、社会福祉士、ソーシャルワークが社会を支えるですね、役割を果たしていく、それを担う人たち、その方々をね、何とか手を組んで一生懸命やっていこうとそんな努力をしているところですね。

石田:実は私も祖母がおりまして、90なんですけれども。母が介護しきれなくて、もうそのデイホームだったりにお世話になってるんですけども、本当に大変なお仕事だと思うんですね。その中で、社会福祉事業のやりがい・ここが魅力っていうのはどういったところでしょうか?

橋本:そうですね。実は私の父もですね、もう9年前に亡くなりましたけど、特養に入居したんですけどね。
で、その時に職員が言ったのはね、ほんとに…父も4代目理事長だったんですけども。利用してもらってお世話出来ることを嬉しく思うって言ってね。で、面白いもんで、なかなか家庭で難しかったんだけども、ホームを利用したらすごく落ち着いていてですね、で、職員にも「ありがとね」って言ってくれて、それがすごく私は助かったんですけれども。

職員の方々、まぁ介護の仕事、社会福祉の仕事、大変な仕事です。まぁその他の仕事と比べてどっちが大変かって話はないんだけれども、ある種、感情労働ですから、自分のね、ある種、人間性を踏まえた上での仕事になっていくから、やっぱりストレスの強いところもあるし、一方で人と関わる仕事でありますから、上手くはまると歓びも大きいんですよね、大変だけれども。うん。だからそれは職員たちが言う言葉です。この仕事はとってもいい仕事だって。人間として学んでいける仕事だってことをすごく言うんですね。専門職であるけれども、ある種そういうね、人間の基本のところに共鳴し合える。で、利用者の方やご家族からありがとうって言ってもらって笑顔をかけられるととっても嬉しい。っていうことを言います。それはとっても大事なことだと思うんですね。

ただ今どんどんどんどん需要が広がってるけれどもね。この介護に関わる人、ソーシャルワークに関わる人がなかなか入ってくれないっていうね。その悩みは大きいものがあるんですね。まぁなんとか…こんないい仕事、大変だけれどもいい仕事。それをもっとこう社会に訴えていきたいなと、そしてたくさんの人にきてもらいたいなと思っているんですけどもね。

(石田さんの)おばあちゃんは楽しまれていますか?デイサービスで。

石田:はい。ほんとにこう歌を唄ったりですとか、あとその保育園も近くにあるんですね。子どもたちとも一緒にふれあえるっていうふうに伺ってまして、それがすごく楽しいと。

橋本:やっぱり関わりってすごく大事で、

石田:えぇ!

橋本:世代を越えた関わり、とても大事ですね。もう一つはやっぱり地域の中だってことなんですよね。

朝岡:そっかー。ねぇー!

石田:さて、それではですね、その想いや言葉以外に、先代やご家族から受け継がれたものを伺いたいと思いますけれども、今、そちらにご用意頂いたのは…?

橋本:そうですね、まぁ、どんなことがあるかな?て言えばね、色んなことがあります。実は戦前には、皇室から御支援頂いた記念のものがあったりすえうんですが、それはそれとしてですね、基本的にこういう人間のお世話をしていて、最後は亡くなるところまでのお世話なんですよね。だけれども本当のお世話は、亡くなったあとまで続くお世話なんですよね。それは何かっていうと、私どもにとって納骨堂があるんですけれども、これ、非常に(写真を差し出す)

朝岡:これ、こちらの?「終の棲家」

橋本:で、これはですね、貧しい時代に、両親が仕事をしてた時代に、やっぱりお墓を持っていない人、家族がいない方がたくさんいて、納骨堂が欲しいという希望がたくさんあって、ずーっと努力していって、今から40年程前に出来たんですけれども。ここをお墓がない方はもちろんですけども、あっても自分が死んでしまうともう無縁になってしまう方もいます。だから、ご自身が分かってるうちにご自分のお墓を墓じまいって言いますね、閉めてここを利用して、最後ここを利用する方もあったりですね。最終的にね、ここで最後まで、住んでもご縁でいられるっていうね。これを作ってもらって、伝え手いくことはとても有り難かったしこれからも大事にしていきたいなとそんな風に思っています。

朝岡:なるほど。正にほんとに終の棲家ですね。

橋本:そうなんです。

朝岡:はぁーそうですか。

橋本:だからうちの仕事は0歳からで、実は100何歳っていうその何人も100歳超えている方いるんですけど、そこで終わらないで、お祀りのところまでいくんですよ。

朝岡:その先までね!それは受け継がれていくってことですよね!

橋本:今風な言葉で言うと、“トータルケア”って言うんですよね。

一同:笑

朝岡:まさにトータルですよね(笑)

石田:そうですね(笑)

朝岡:そうだよなー!そうですかーはっはーなるほどね!

NEXT100 ~時代を超える術~

NEXT100 時代を超える術。
革新を続け、百年先にも継承すべき 至誠学舎立川にとって「核」となるモノ・・・
そして、8代目 橋本正明が語る次代へ届ける長寿企業の知恵とは?

石田:さぁ、それでは最後になりますが、次の100年に向けて変えるべきもの変えないもの、御社にとってコアとなるところを伺いたいんですけれども?

橋本:ねぇ!100年先まで私もわかりませんですけれども、でも、105年前に創設者が始めた、撒いた種がね、今にこう育ってきているってことは非常にやっぱり感じるところがありますですね。私どもがその100年先まで伝えるものが出来ているかわかりませんが、ただ、精神は伝えていきたいなと。そして、社会状況が変わっていますから、社会福祉っていうのはやっぱり社会状況の中にありますからね。まぁそんなことで、変わらぬ伝統・精神が至誠学舎を変えていくということで、100年先がどうなってるかわからないけども、社会から期待されている担う仕事をしていければとそんな風に思いますですね。

朝岡:ぁあの、至誠学舎って、学舎だよなって最初思ったんですけどね、今お話伺ってると、もちろん地域と一緒にやっていくし、働いてらっしゃる方も学びながらね、お仕事なさってるって仰ってたでしょ。だからそれは、その学ぶっていうのは、どんな分野でもずっと続くと思うんですよね!

橋本:あぁ!正にその通りだと思いますね!

朝岡:それがその至誠学舎さんの何かとても大事な宝物のような気が、今日はとてもしましたけどもね。

橋本:そうですね!ボランティアしてくださる方もね、私共助けられてるってだけじゃなくて、実はボランティアさんの学びのところにもなってるんですよね。
そんなわけで、たくさんのボランティア活動をしている人がいたり、はいってますけども(ボランティア活動の様子が写った写真を見せる)

朝岡:こういう形でね!100年後に繋がってるじゃないですかこれ!みんなね、もうすぐ大人になって、そのうちお年寄りになっていくんだけど…

石田:そうですね。

朝岡:こういうまた繋がっていく。

橋本:いい人たちもたくさん来てくれるしね。
この方(写真に写ってる方)も、私がPTAやってた時に、一緒にPTAやってた地域のお母さんなんですけど、ずーっと続いて活動してくれて。

朝岡:そうですか!

橋本:はっは!

朝岡:それはそれは、なんか今日はあれですね。普通、ものを作っている会社のリーダーが方が多いんですけどね、何か心の中に大事なものを作っていく至誠学舎さんというのは、とてもまた印象に残りましたね。

橋本:ありがとうございます。
私はもうそんなたいしたことないんですけどね、とにかく学ばせてもらって、謙虚な気持ちでね、この仕事に取り組んでいきたいな。そんなことはいつでも思っていますね。

朝岡:そうですか。まぁ、あのここの席には、所謂長寿企業のリーダーという方にお越し頂いてるんですけどね、その老舗というか長く続いていく企業・事業。これは何が、重要なものが大事なものが一つあるとすると、橋本さんは何だろうという風にお考えですか?

橋本:精神ということは申しあげた通りでありますけども、ある種、歴史を大事にしていく気持ちかもしれないですね。我々今やって、将来に向けて一生懸命やっていくんだけども、やっぱり過去があって今があってね、過去に積み上げてきたものがあって今があるっていう、そういう風な歴史に対しての、ある種、謙虚な気持ちっていうのは大事じゃないでしょうかね。

朝岡:うーん。

石田:ありがとうございました。

朝岡:ありがとうございました。

石田:今回のゲストは、社会福祉法人 至誠学舎立川 理事長の橋本正明さんでした。
ありがとうございました。

一同:ありがとうございました。

至誠学舎立川 8代目代表 橋本正明。
創業からの歴史・精神を大事にするこの想いは不変である。
時代・社会から求め続けられる為に、事業の変化や成長、地域に根ざした活動を続けてほしい。
この想いは、100年先の後継者たちへ、受け継がれていく。

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