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株式会社マルエイ〜エネルギー供給企業の誕生と発展〜

さつま芋からプロパンへエネルギー供給企業の誕生


澤田榮治の生家

 創業者澤田榮吉が育った北長森野一色は広い濃尾平野の中の西部に位置し、木曽川・長良川・揖斐川という木曽三川に囲まれ、肥沃な土地柄であり、サツマ芋畑が連なっていた。現在の長森から各務ヶ原一帯にかけては一大産地であり、榮吉は明治15(1881)年より行商を始めたのだった。

榮吉22歳。明治18(1885)年、「農産物問屋・芋榮」と、板切れに墨書きをした小さな看板を掲げた「芋栄商店」の創業だ。

地元に根差してサツマ芋の直売を主体としていたが、販売先が広がり、遠隔地になるにつれ、引き取り業者と契約をするようになり、芋榮商店の出店機能を持った現地問屋も設けた。近隣では本巣北方・揖斐川・大垣、遠くは郡上八幡・白鳥・飛騨高山とその商圏を拡大していく。そんな中、榮吉は、サツマ芋を運んだ帰りの大八車に薪や炭を乗せて帰るようになっていた。当時の物流事情などを考えると、空の大八車を押して戻るよりも、商売の品目も増え、移動のロスも無くなることから、まさに一石二鳥。そうして芋榮商店の扱い品目に薪炭が加わったのだ。

二代目の治朗吉は榮吉の娘”むめ“ の婿養子として澤田家へ。榮吉は50歳を過ぎると、常に万全の体調で仕事が出来なくなっていた。当然、芋榮商店を切り盛りしていくためには治朗吉の力が必要となり、榮吉の指示のもと、治朗吉が最前線に立つ体制へと変化していく。榮吉によって敷かれたレールを正確に駆け抜けた治朗吉であったが、大正~昭和初期にかけての日本の世情は厳しいことばかりであった。第一次世界大戦、関東大震災、太平洋戦争と、激動の時代が訪れるのだ。

昭和の時代に入り、芋榮商店の扱い品目は農作物から炭や薪といった燃料品が多くなっていた昭和16年、燃料組合より、薪炭販売の停止申し入れがあった。国の統制によるこの命に、「お国のためなら…」と治朗吉は自分が配給所として残りたいという未練を示すことは無かった。やがて終戦を迎え、昭和23年から24年にかけての農産物の一部統制撤廃を機に、芋榮商店は再び活動を開始した。ここから、現取締役名誉会長であり、三代目となる澤田榮治の時代となっていく。  日本が戦争に負け、国民全体が復興を目指して躍起になっている最中、当時中学生だった榮治は父の治朗吉から「商売をお前がやれ!ただし、闇市はやるな、真っ当な道を歩め!」と言われ、”商売“を始めることになる

「真っ当な道を歩め!という父親からの言いつけを守り、警察に世話になることなく、今日まで来られたことは本当によかった。」と榮治会長は話を続けた。「当時の会社名はマルエイではなく、屋号を「芋榮商店」としていました。サツマイモなど農産物を主に販売して生計を立てており、市場に農作物を売るのでは、利益がなくなるため、市場前でお客さまに直接販売することで利益を生み出すなどの工夫を行っていました。私も、毎朝4時から8時半まで露店へと約200貫、今で言う5トンくらいのサツマ芋を運び、八百屋さんに卸していました。午後には澱粉工場やアメの工場にサツマ芋を納品していました。当時はサツマ芋に捨てるところがなく、蔓までもが貴重な食糧でした。」

父からの教えを愚直に守り、自分の商売であれば、土日も、朝も夜も働くのは当然と今日まで実践してきた。当時の事で最も印象に残っているものは、父・治朗吉がオート三輪車を購入するための資金を工面してくれたことと話す。「オート三輪車を利用した方が、商売が捗ると父に説明をしたことがあります。その時父が『わかった』と言って(笑)半月ほど経ったときに田んぼを売ったお金で75,000円をつくり手渡されました。その75,000円のうち、65,000円で中古のオート三輪車を買いました


仕事始めの準備として購入したオート三輪

今思えば、このときのオート三輪車が家督を継ぐ私へのはなむけだったのではないかと思いますね。」  その後、昭和24(1949)年には薪炭販売を再開。昭和27(195 2)年には灯油の販売に乗り出した。さらに昭和29(1954)年にはプロパンガスの販売を開始することになる。

昭和29年、結婚して間もない榮治は、妻濱子と共に、名古屋の松坂屋に出かけた都会の台所でプロパンガスの調理台が使われ始めているという情報を耳にしていた榮治だったが、初めて見た青い炎を前に、感動を覚えたという。榮治がプロパンガス事業に乗り出すのにはさほど時間がかからなかった。名岐プロパンの社長である大仲増一氏から「プロパンをやってみないか!」と話を持ち掛けられた榮治は、明治以来の固形燃料店に灯油やガソリンを持ち込んだ時点で来るべき次の時代の波を予測していた。燃料は固体から液体へ、そして気体に変わっていくと思ったんです。これに乗り遅れたら、商売の飛躍はない。そして何よりも自分にふさわしい仕事に違いない。」榮治会長は当時そのようなことを考えていたという。


プロパンガスも始める_昭和33年頃

こうしてプロパンガス事業をスタートさせた榮治だったが、初めから事業が順調であった訳ではない。当時の月給がおよそ7,500円。対してプロパンガスの設備を導入にかかる費用も1台7,500円。営業活動は簡単にはいかなかった。昼間は、野菜や薪炭を販売し、仕事から帰宅後の旦那さんが在宅する時間を考え個別に家々を訪問した。「男にはプライドがあるんです。隣の親父が買ったら、買う習慣がありましたから(笑)」1軒1軒の家々を回り、人間性を信用してもらって、あの家では使っていますよということも言いながら、地道な営業活動を続けた。家に帰る時間が24時を回ることも少なくはなかった。1日5軒程の契約をまとめ、翌日に改めて訪問し、機材を設置する。そんな生活が始まった。農作物や薪炭を売って出た利益は、プロパンの事業に投資した。


台秤による充填風景

売っても売っても赤字にしかならない時代もあった。時には、支払いの無いお客様の社長宅に二日寝泊りしたこともあった。倒産の危機を乗り越えながら、榮治は事業を拡大させていく。

子から見た父、 会長から見た社長。

現在の代表取締役社長であり、榮治の息子である栄一は幼いころ、父親をどのように見ていたのか。

「麻雀もゴルフもしないですし、酒も飲めない。人生全てを仕事に捧げてきた姿を見てきました(笑)  夜も一緒にいたことも、遊んでもらった記憶もありません(笑)父親との記憶といえば、丁稚として住込みで働いていた社員と一緒に、トラックで(商品を)運んだときの記憶くらいかな。」今の栄一社長があるのは、父親の仕事一筋の背中を見続けてきたからかもしれない。

こんなエピソードがある。世の中がバブル景気に沸き、簡単に銀行融資が得られる時代、マルエイは当時ブームだったゴルフ場開発に進出して大失敗をしている。内部留保をほとんど吐き出し、債務超過で会社は倒産寸前。当時、代表取締役副社長であった栄一は、会社の建て直しを図るため、ほとんど全ての公職をやめた。「くよくよ悩んでも仕方がないと考えたんです。一生懸命、前向きに生きようと思い、JCの役職も法人会や経営者協会青年部、ライオンズやロータリーも全て断って、会社の建て直しに全力を尽くそうと思いました。」社員と向き合うことから目をそらさずに、とにかく出来ることを全て全力でやり抜く姿勢は、父親譲りなのかもしれない。

榮治会長から見た栄一社長は、どのような存在なのだろうか。

「何も伝えていないし、これからも伝えることはありません。あれやれ、これやれとは言ったこともありません。社長を任せる時に不安もなかったので。」榮治会長はにこやかな表情で、そう語った。榮治会長は、栄一社長の覚悟を見たという、23年前(平成8(1996)年)のことを教えてくれた。「ゴルフ場開発から撤退して1年ほどたった日のことです。「おやじ、相談したいことがある」と真剣な顔で私の部屋に入ってきたんですね。

京セラの『アメーバ経営』をマルエイにも導入したい。ついては、資金を出してほしい。」とひざを乗り出してきました。普段の栄一とは意気込みが違うことはすぐにわかりました。私が首を縦に振るまで、粘る気だと思いました。親子であるとしても、ビジネスの時にはマルエイの役員として、向き合います。」実はこのエピソードの2年前、同じように、栄一氏から『アメーバ経営』導入について提案があったそうだ。その時の榮治会長の返事はNOだった。盛和塾での勉強を始めて、まだ間もなかった栄一の言葉には、まだまだ本人の意思が弱く、受け売りの解説、借り物の言葉だったのです。

有為転変の世の中、マルエイの伝統を受け継ぎ、社員の明日を守っていく責任のある栄一が、経営者としてどうあるべきかを自問自答したのだと受け取りました。アメーバ経営の導入には多額の費用がかかりましたが、栄一に全てを任せることにしました。」この時の出来事は榮治が栄一へと襷を受け渡す大きなきっかけになったのかもしれない。榮治は当時の会長室で、マルエイに新しい風が吹いてきたと感じていたに違いない。

そして、榮治会長は続けた。

「直系は親族2人だけど、関連会社が10社あり、一族以外の社長もいる。それぞれが生き残れるように、頑張ってくれれば良い。」

”未来をつくる意識“を 全員で創る


出光タンカー命名式

創業以来、皆様の産業と暮らしに奉仕する」をモットーに、地域社会の皆様の発展と、より快適で便利な生活支援を目指してきた。21世紀を迎え、社員と経営者が一丸となって目指す会社の存在価値をより明確化する必要性を感じたマルエイでは、新企業理念としてエネルギーと快適生活提案事業を通じて永続的発展的な幸せ社会の創造

新行動指針「良知共創経営」を策定した。
行動指針にある”良知“とは「人間が生まれながらに持っている美しい心のことであり、人間だけが気づき、活かすことができる能力」だと定義し、従業員の心を豊かにするための研修制度や、育成制度を取り入れてきた。

「マルエイの企業理念は、創業当時からあったものではありません。全て後から。会社が危機になるときに社員のベクトルを統一しなければと考え、創り上げてきました。会長がやってきたことを、言語化し、そこにアメーバ経営から学んできたエッセンスをマルエイ風にアレンジしました。」栄一社長は、時代の変化、消費行動の変化、そこで働く従業員の心の変化に寄り添った経営が必要であると、自らの体験から考えているようだった。

「商品、例えばLPガスを売るので はなく、機能(エネルギー)を伝えていくようにし、お客様のニーズとともに変化することも含めて、今後の経営を行っていく。その中で、新しい事業にもチャレンジをしていきたいですね。神さまと動物の間にあるのが人間。人間だけが持って活かせる素晴らしい能力を、理念をもとに最大限に活かしていくことが大事であり、昔は素晴らしいリーダーが会社を引っ張っていったが、今は理念を軸に皆が主人公になって動いていくことを目標にしています。」

現在、マルエイでは、世界発の丸太燃料ボイラー発電にも挑戦している。沖縄やハノイにも会社を設立した。会長の著書のタイトルにもなっている「午前七時の仕事に生きる」という会長のDNAを活かしながら、時代と共に進化し、社内外へと深化させていく努力を実施している。これは、自身の子どもたちへも伝えていきたいという。

息子に伝えたことは理念継承のみです。人生は選択の連続であり、選択する主体が人格だからこそ、人格を高めていくことが大切<.span>なんですね。いかに人格を高めていくかを、何度も何度も息子には伝えてきたつもりです。社員に対しても、人格を高める研修を取り入れています。」これまで、父親の拡大戦略を非難してきたこともあった。しかし、今では違う考えが栄一社長の中には宿っているという。

人・物・カネのすべてがないなかで、会社を拡大する大変さが分かるようになり、基盤を作ってくれた親父、会社の中に道徳心の大切さを遺してくれた叔父に感謝しています。私が社長に就任してからは、親父も叔父も会社の経営に口出ししません。多くの会社であるような二頭経営にならず、本当に助かっています。私の使命は、会社の内部を充実させながら拡大し、次世代の経営者に引き継ぐことだと思っています。」

マルエイグループはこれからも、岐阜県に根を張り、事業の目的が利益の追求に偏ることなく、次の世代、また次の世代へと先人たちの思いと共に成長を続けていくに違いない。そこには、社員一人ひとりの自立した、能動的な挑戦が欠かせないだろう。

取締役名誉会長 三代目 澤田 榮治

  • 1931年 岐阜県生まれ
  • 1945年 長森北国民学校高等科卒業
  • 1948年 二代目治朗吉より芋榮商店を継承
  • 1995年 藍綬褒章受章
  • 2001年 勲四等瑞寶章受章

代表取締役社長 四代目 澤田 栄一

  • 1958年 岐阜県生まれ。
  • 1980年 青山学院大学卒業。
  • 2001年 (株)マルエイ代表取締役社長就任。

岐阜県LPガス協会会長など多くの公職も 兼務している。

株式会社マルエイ
創  業:1885年
所在地:岐阜市入舟町4丁目8番地の1
事業内容:LPガス・オートガス・ガス器具・石油製品・ガス空調・リフォーム・ガスロンパイプ・カリメラの水・太陽光発電・ エネファーム・不動産・農産物生産・丸太燃料ボイラー・ハッピーテラス

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