長寿企業の知恵を、
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明電舎 ~日本の電気技術の礎と発展 「モートルの明電」

オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~

今回のゲストは株式会社明電舎 13代目 稲村純三(いなむら じゅんぞう)。
1897年 創業。日本の電気技術の礎となり「モートルの明電」と呼ばれた明電舎の歴史は、まさに日本の近代化、そして経済大国としての発展に繋がっている。
生みの親である、重宗芳水は生前、こんな言葉を遺している…

――誠実に取り組むのは、ただ目の前の注文主のみならず ひいては世のため、人のためなり――

その志は120年という長い年月とともに、時代を超え時に海を超え、幾多の困難を乗り越えて、継承され続けてきた。
今回は、13代目・稲村純三の言葉から、明電舎が紡ぐ「歴史」や「伝統」に隠された物語、そして「長寿の知恵」の真髄へと迫る!

石田:本日のゲストは株式会社明電舎、代表取締役会長、稲村純三さんです。
宜しくお願いいたします

一同:お願い致します。

朝岡:明電舎、お名前は本当によく聞くんですが、明電舎の「電」ていうのは電気の「電」ですから、いろいろな電気ですけど内容は多岐にわたる事業をなさってるんですよね。

稲村:ええ。私どもですね会社の規模の割にはいろんなことをやっておりまして、基本的には電力だとか鉄道だとか水処理だとか、放送、このような社会的なインフラの事業ですね。
それに関わる発変電、計測・制御・監視というようなものを作っております。それ以外にもですね、フォークリフトだとかエレベーターのモーターだとか電気自動車に積むようなモーターコントローラーあるいはですね自動車試験装置ですとか無人配送台車と呼ばれるAGVなどですね多岐に渡って作っている会社の規模の割にはいろんなことをやっている会社でございます。

石田:はい。そんな会社の今何代目でいらっしゃるんですか。

稲村:はい、私で今丁度13代目の社長だったんです。会長になりまして、会長としては9代目の明電舎会長になります。

朝岡:代表取締役会長でいらっしゃる。代表権をお持ちですけど、会長と社長っていうのは普段のお仕事っていうのは相当差があるもんですか。

稲村:基本的に私たち会社では経営責任という意味では会長も社長も全く一緒で会社を経営していくっていう責任はたいへん重たいものですけど、どちらかと分ければ社長は実際の会社の中の、会社の事業のコントロールをしていく。
私(会長)は対外的な、例えば業界の電工業界だとか経団連だとか言うことも含めて社外的な活動がどちらかと言うと重点的です。

朝岡:なるほどね。

石田:会長は今までこれまで明電舎一筋でいらっしゃるんですか。

稲村:私は1971年に入社を致しまして、この会社にずーっと仕事をさせていただいております。
明電舎はものづくりの会社でございますので、私も実は33年間も工場だけにいて、経営というところからちょっと遠い位置におったんですけれども今こういうポジションになって仕事をしておりますけれども、33年間ものづくり一筋でまいりました。

朝岡:こんなこと表現はあれですけど、叩き上げって言う言葉がありますけれども現場でずーっとやっていらっしゃってその方が経営者になるっていうのはどうなんでしょう、多いんですかね?

稲村:私共ですね経営者というか経営の幹部っていうのはものづくりの会社ですので技術やさんが多かったりあるいは場合によっては営業の関係者が多かったりするんですけれども、そんなに珍しいことではないと思います。
ただ比較的、技術やさんでこういう経営者になるって言う方というのはいろんな技術の畑を歩いてきたんですけれども、実は私はある一つ自動車の試験機というその業界会だけを33年間歩いてきましたのでちょっと特異な存在ではあると思います。

朝岡:スペシャリストの現場でずーっとこうやってらっしゃったと。

稲村:そうですね。

石田:そして今こちらに明電舎さんの製品の模型をお持ちいただいたんですけれども、こちらはなんですか?

稲村:私共が作っている製品をご紹介しようかと思って今日お持ちしたんですけれども、明電舎作っているのは一般的な消費者たちにはなかなか目に触れないものなんですね。大きな発電機であったり大きな変圧器であったり、そういう中で比較的一般の方々の目に触れるものを今日はお持ちしてみたんですけれども。

今日お持ちしたものはですね、三菱自動車にi-MiEVという日本で最初汎用の電気自動車があるんですけれども、そこにですね私共のモーターとコントローラーを積んでいただきました。そのあとですね、プラフインハイブリットのアウトランダーというですね、車にも積んでいただいて、今の三菱自動車さんから発売をしていただいているということえ。この町の中、世界のですね明電舎のモーター、コントローラーを積んだ車が走っているということで、ここにですね車のミニチュアをお持ちいたしました。

あともう一つですね、大きなの(車のミニチュア)があるんですね。これトラックなんですけれども、このトラックには発電機と発電用のエンジンを積んであります。この荷台にですね。これは移動電源車と言いまして、もともとは電力会社さんが工事の時に停電にならないようにここから起こした電気で供給をすると言う仕組みで作ったものなんですけれども。ですから電力会社さんが大きなお客さんだったわけですね。

それがですね、3.11の大震災の時にこの電源車が大活躍したんですね。電気がですね、こないという時にこの電源車を持っていけば電気が復旧できるという事でそれ以来、このまえの熊本の大震災のときもですね、非常に多くの私共の電源自動車が駆けつけたというような状況でございます。そういうことでですね、今日ご紹介がてらお持ちしたという次第でございます。

朝岡:電気の会社というと、お家で使う家電。家電でなく明電舎は充電だからモーターとか発電機とかそういう所に特化した会社って言うことですね。

稲村:そうですね。

ここからは、各テーマを元に、稲村純三の言葉から、長寿の知恵に迫る…。
最初のテーマは、「創業の精神」
明電舎の創業から今に至るまでの経緯、 先代達から受け継がれている想いに迫る!

石田:創業の精神ということで明電舎さんの創業から現在に至るまでの経緯を伺えますか。

稲村:私共ですね今年ちょうど創業120周年ということで、明治30年1897年に創業した会社でございます。
創業者は重宗芳水。この方は非常に努力家で明電舎という会社を作る前にモーターの修理だとかスイッチの製作だとかいうことをやっておった人間なんですけれども、非常に勉強家で明電舎を作る事にあたってはですね必ず国産でモーターが作れる時代が来ると信じてスタートした会社なんですね。

なのでそういう意味では、非常に苦労しながらモーターを国産化してですねそして世の中に広めてったと。おかげさまで「モートルの明電」ということで一世を風靡することになったんですけれども。風靡というか世の中に広く愛用されるようになったんですけれども。なんでここでドイツ語のモートルという言葉を使ったのかよくわかんないんですけれども、モーターですね国産化に成功したと。

それまでには非常に苦労をしたという記録も残っていまして、手書きの設計書とか新しい設計法だとかですね、いろんなことを開発しながらやってきた努力の人かなと言うふうには思ってます。

朝岡:そうですか。そして20世紀になって70年代になるとモーターからいろいろなものが明電舎の柱となっていくという形になる・・・

稲村:そうですね。モーターを作ったりそれから派生して発電機を作ったりそれに関連するですね、それに関連にする制御装置を作ってきたんですけれども、70年代に入って量を作るよりも質を求めようという流れになってきた。

ちょうど私が入社した、私は71年入社ですので1971年に会社入ってますのでだいたいその頃から少しずつ明電舎の流れが変わってきた。要するにハードのモーターとか発電機とかスイッチギアという制御盤を作ってればいいということではなくてそれをいかにトータル的に制御するか計測をするかかんしょうするか、それにはですねコンピューターを使おうということで、早い時代から私共コンピューターの製品に手掛けてまいりました。

朝岡:そうですか。120年の歴史明治30年に創業ということですけど、たしかガス灯が銀座についたのが明治のはじめでね。
だからいよいよガスとかじゃなくて電気の時代が来たっていうのが明治30年。その頃はどのくらいの規模で会社を立ち上げたんでしょうか。

稲村:創業した時はメンバーは11人だというふうに聞いています。
11人のメンバーで資金が当時のお金で500円と言ってますので今のお金にすると300万から500万ぐらいだとは思うんですけど、それで今の工場を立ち上げたと記録には残ってます。

石田:明電舎というお名前もその当時から変わらないんですか。

稲村:ええ。創業のときにですね明電舎というのは、明治の「明」、電気の「電、そしてですね志を同じくするものが集まる所といことで明電舎という名前をつけてそれ以来ずーっと120年間明電舎という。
いまですと横文字の会社名も多いんですけれども、ちょっと古臭い名前ではあるんですが、明電舎という社名が今はお客さまにもきちんと認められて私としては好きだな、いい感じだなという風に思ってます。

朝岡:今横文字の会社があまりに多いから、「明電舎」日本ですよね。いーねー。
いわば11人で始めるという重宗さんの発想はどういう所にあるんですかね。

稲村:この世の中に役に立つものを作ろうと言う強い気持ちがあったと思います。
創業した時に外国のモーターを直してただこれは国産化ができるという非常に先見の目というかですね。なおかつそれに対してですね、がむしゃらに進んでった努力、この辺がですね非常に貴重なところかなっと思いますね。

朝岡:今はもう社員というか従業員の方はどのくらいに?

稲村:今はですね、連結で約8,500名になります。

朝岡:そうですか~。

石田:そして今年創業120年を迎えられまして、おめでとうございます

稲村:ありがとうございます。

石田:何か特別なイベントは催されているんですか。

稲村:私共は120週年を記念して技術展をやってですね、ここでもういう一度明電舎のイメージを作り上げようということで、May Jさんにイメージソングを歌っていただいたり。

石田:あ、あのMay Jさん…

稲村:あるいはその「電気と人と未来」という事をテーマに谷川俊太郎さんに詩を作っていただきまして、それでですね120周年、長けりゃ良いってもんでもないんですけど明電舎は世の中の役に立ってきたということをですね、少しアピールしていきたいかなぁと思ってます。

それ以外にもですね、技術展、これは東京と名古屋と大阪、海外でもタイ、シンガポールとかで開催しますけれども、どちらかと言うとイベントは嫌いじゃないんです。うちの会社は(笑)
ちょっと調べましたら、明治の終わり頃にモーター千台販売記念祝賀会みたいのをやっているんですね。ですから今でも社内はですね、製品の何万台出荷記念とかですね、実有何百億円とかですね、有用なイベントを結構皆さん好きでやってます。

朝岡:そうですか。

石田:明電舎さんの家訓や理念をうかがえますか。

稲村:私どもはですね、企業として世の中の役に立とうという中ではですね、企業理念というか私も「企業使命」と読んでますけど、企業使命とその使命によって何を提供できるかということで。企業使命としましては「より豊かな未来をひらく」いうことで、インフラの関係の仕事が多ございますので、そういう中でより豊な未来をひらくと。
そしてお客さまには提供価値ということで、何を持ってお客さまに喜んでいただけるだろうということでお客さまの安心と喜びのためにという事でですね、この企業使命と提供価値でですねベクトルを合わせて全社員一体となって世の中の役に立っていこうという風に思ってます。

朝岡:その今の言葉というかそれはずーっと昔からあったものですか?それとも最近担ってちょっと変わったというか…

稲村:昔企業理念というものもあったんですけれども昔の企業理念というのは、言葉でズルズルズルと書いてあってわかりづらいなということで、20年前…何年前ですかね?110週年をですね期にわかりやすい企業使命、あるいはですね行動基準を…その行動基準が個々にある「MEIDEN CYCLE」(というものなんですが)

朝岡:小冊子の

稲村:はい。これは若いうちの社員が明電舎の社員としてどのように行動するかと。企業の理念だとかですねそういうものに沿って実有するためにはどうゆうふうに行動すべきかというのを若い社員が作りました
実はですねお見せすると恥ずかしいんですけど絵本みたいなんです、中は。ぞうさんが出てきたり、

朝岡:ほんとだ!

稲村:きりんさんがでてきたり、

朝岡:童話かと思っちゃった(笑)

石田:優しい絵が描かれてますね。

朝岡:色々シンボル的な言葉がね、わかりやすく出てたりして。

稲村:で、このサイクルというのは、ここでは私共企業として「愛されよう、そして繋がろう、考えよう、動こうそして楽しもう」というこの5つのステップはぐるぐる廻るんだろうなっていうことでそれをですね、「MEIDEN CYCLE」名付けました。

朝岡:あー!それがMEIDEN CYCLEなんですね!

石田:なるほど。

稲村:「愛されよう、繋がろう、考えよう、動こう、楽しもう」また愛されようという一つのサークルになるかなと。

朝岡:(冊子を見せて)こういうことですよね。あーなるほどね。

稲村:これはですね、日本語だけではなくて英文も作りましたし、私ども海外に出させていただいてる中国語のMEIDEN CYCLEも作ってね、各社員に配って明電舎はこれからもこういうふうに生きていくんだよ、こういうふうにお客さまの役に立っていくんだよ、ということの一つの行動芯にして行こうというように思ってます。

朝岡:こうやって(冊子を)見ると視覚的にね、パっとわかると言うかわかりやすいとう言うか、そうなんだというのがすぐ染み込むというか。

稲村:ですからその中には厳しい言葉も入ってまして、例えば※「動かざるものは去れ」

(※愛されよう
「お客様の感動」を目指し、新しい価値を創り出していこう。
「社会の絆を作る仕事」に責任と誇りを持とう。
「企業として、人間として」成長を続け、愛されよう。

つながろう
「仲間」との衝突を恐れず、垣根を越えてつながろう。
「お客様」と本音で話そう。
「地域、社会、環境」つながる意識を持とう。

考えよう
「これでいいのか」、現状に疑問を持とう。
「探求心」と「好奇心」を持ち続けよう。
「道は一つではない」、あらゆる可能性を考えよう。

動こう
「行動なきものは去るべし」、進んで一歩を踏み出そう。
「今日の行動が未来を作る」、迷わず進もう。
「自発的、かつ挑戦的」に動こう。

楽しもう
「自己の成長」を楽しもう。
「仕事」を真摯に楽しもう。
「ものづくりの心」を楽しもう。
※I keep on doingいますぐやろう、やり続けよう より。)

みたいなですね、非常に厳しい言葉も中には入ってます。

朝岡:あぁ…

稲村:皆でですねこのMEIDEN CYCLEに沿って仕事をしていこう、仕事を楽しんでいこうっていうような中でね、仕事しないやつはいらないよ!ということもですね書いてます。

朝岡:動物たちがね、いろんな提案をしてね。

稲村:そうですね。

朝岡:それが会話形式になってて。それで今会長がおっしゃった時には厳しい言葉を言う動物がいたりするですよ。「ただ考えてるだけじゃだめだよ!」とかね。

稲村:そうです、そうです。

朝岡:なんかこう友達みたいな感覚…

石田:ほー。

朝岡:会社でもらうと「なんだよー」なんていって机の中にポって入れてしまう人もいると思うけど、これは読み始めると読んでしまいますね。

稲村:私も機会があるごとにコミュニケーションの手段としてそれを持って私もいまカバンの中に入っていますけど、それを持ってってMEIDEN CYCLEいくぞ!ってとこがあるんですね。

朝岡:アクティブですね。ありがとうございます。

現在、明電舎で行われているユニークな制度について伺ってみた。

石田:社内のユニークな制度、あと行っていらっしゃるイベントはどういったものがあるんでしょう。

稲村:これは私の思いですけど、企業というのは人なり、人がなくって企業は成り立ってきませんのでまず従業員に優しい会社になろうというですね思いがあります。
ですから制度もですね色んな制度があります。たぶん他の会社でもある制度ではあると思うんですけど例えば私も定年60歳という事でやってきたんですけれども今は 65、長い人は70まで働けるような制度にしました。

で、そういう中で先輩方が持っている技術その辺をきちんと伝承していってもらおうとですね、今70まで働けるということもありますし、若い人にはですねメンター制度といって、進入社員の2,3年先輩自分のやっている仕事とは関係ない人とペアを作っていただいて悩みだとか相談事だとかあるいは飲みに行きましょうだとかそういうことができるように、仕事だけではなくてどちらかと言うと私なんかは家族的にと言いたいんですが今の人はそうでないとしてもやはり会社で仕事していく上で身近に相談できる人と言うのをちゃんと制度として作っていこうと思っております。

他にももちろん介護休職、あるいは介護休暇、育児休暇、これもありますけどユニークな制度として、希望退職者の再雇用制度と言うものがあります。

石田:一度辞められて

稲村:海外で明電舎に一度入ったんだけれども、海外で違うことをやってみたい、明電舎を辞めて行きたいという方に向こうで2年3年働いた後に、やっぱりもう一度明電舎の仕事がしたい!という方にどうぞ来てください!という制度をですね。
ですから出産とか結婚を機会に辞められた女性の方も例えば子どもさんが大きくなって明電舎でまた仕事がしたいという話になればウェルカムです。
ということですね、非常に従業員に私の自惚れかもしれませんが十分に優しい会社になっているかなと思っております。

朝岡:実際に戻ってらっしゃった社員の方で、おお!こんなことやってくれたって言うことはあるんですか。

稲村:ありますあります。違う、、、私共の会社にはない仕事をしてきているわけですから、色んな意味で幅広い技術だとか知識だとかそういうもの持ってまた戻ってきてくれるわけですよ。
ですからそれを私共としては有効に使い、活躍してもらおうと言うスタンスですね。

朝岡:それは稲村さんが社長時代からある制度なんですか?

稲村:はい。私が社長あるいは先代の社長から含めて積み重ねてきたどんどん拡大してきたところはあるんですけれども、だんだん従業員に優しくしていこうと。
これはですね企業というのは人で成り立ってますので、その人の持ってる能力だとか技術だとかいうことを最大限発揮させるためにはどうすればう良いだろうと皆が一生懸命考えてきた結果だとおもております。

決断 ~ターニングポイント~

続いてのテーマは「決断・ターニングポイント」
社長就任間もない稲村を襲った苦難とは、そして、それを乗り越えるために取った方法とは?その裏に隠された思いに迫る。

稲村:私の一つ目のターニングポイントというのは、私は実は2008年の6月に社長に就任しました。その秋にですねリーマンショック起きまして、世の中全地球的に全世界的に景気が後退するというですね私どものもですね例外ではなくて、非常に不況の中に落ち込んだというのがですね、私の一つ目のターニングポイント。これをどうやって乗り越えるのかなって言う私の社長になってからの初めての仕事でしたね。

朝岡:当時の一般的な風潮としてはリストラせにゃいかんだろうという話で、明電舎さんはどうだったんですか。

稲村:私どもはですね、リーマンショックというのは会社の責任ではないと。ましてや、従業員の責任ではないという思いが非常に強かったんで、これをですねじっと乗り越えようと。そのためには、例えばリストラをやってですね会社を持ちこたえる云々言う方法もありますけれども、何の責任もない従業員がそのことによって職を失うというのは、従業員に優しい明電舎としましては許せないことだと。ですから非常に苦しい時期でしたけど苦しさ厳しさを社員が分かち合って、頑張っていこうと。リストラはやりませんでしたけど多少の賃金カットを協力いただいて、そして人には手を付けない、皆で頑張っていくんだよっていうことで乗り越えていこうと私は思ってですね。
企業は人がいなくなると存続できませんのでじっと我慢して、仕事がなければその間に開発なりシビアに値段を下げるactionをとってそして必ず戻ってくる世の中にその時にきちんとですねスピーディに立ち上がれる会社を作ろうということをですね、皆で頑張ろうねって言ってました。

朝岡:それはね、創業者の重宗芳水さんが世の中の役に立つことをやりたいってはじめられた会社ですけど、いつも世の中の役に立つためにスタンバイしたいって思いにつながるような事があったんですか。

稲村:どもインフラを大きく関わっている会社でございますので、なおかつ120週年の間に世の中にあるいはお客さまに必要とされてきた会社だと私は自負しております。
そういう中で明電舎が要らなくなる時代と言うのは多分ないなと。ですから世の中不景気な時はじっと我慢をして、たぶん創業者の重宗芳水も色んな意味で苦労しながら売れなくて非常に困ったそういう時代も経験してきていますので我々は総業者の意思は活かしていきたいな、それでみんな頑張ろうよという感じでしたね。

朝岡:創業者の精神を脈々とね。

石田:ねー。受け継がれてますよねー。

創業者の意思を受け継ぎ、会社全体が一丸となり逆境に立ち向かっていた明電舎をさらなる困難が襲う。

石田:他にもターニングポイントがお有りということで。

稲村:ええ。その後やっとリーマンが立ち上がった来たなって思ってた時に来たのが「3.11大震災」ですね。
私どものインフラの世界で、水処理という仕事があるわけですね。これは下水を処理するですとか、場合によっては浄水の制御をするですとか色んな仕事があるんですけど、あの震災のときにですね、下水処理場というのはだいたい海の近くの端末にありますのでそこで汚水をきれいにして海に流すというそういう基条ですのでみんな津波でやられたんですね。津波でやられてしまいますと街の中が汚水の海になってしまうということで何が何でも下水処理場を一日でも早く一時間でも早く復旧をさせなければいけないという強い思いでですねその時従業員が動き始めました。

朝岡:それは大きな災害時の時に人の役に立つそのあれが…

稲村:それともう一つは長年そういう仕事をしておりますので例えば電気の復旧は早いぞというのは経験的にわかったわけです。浄水というのも比較的高いとこにあるわけですね。津波の影響を受けてない。これも電気が復旧してくればすぐに(浄水も)復旧してくるぞと。電気が復旧し浄水が復旧してきたら汚水の山、汚水の海なるぞと。何が何でもそれは避けなければいけないという従業員の強い使命感があって一部の人達は震災の次の日から現場に入ってました。

それで、何を作らなければいけない、完全に(下水処理場は)水没しちゃってるわけですからとりあえず動かすためには何がいるのかというのを(把握するのに)経験がかなり重要なポイントだったんですけれども、何から復旧すれば良いのかと。最終的には穴ほったりブルーシートひいたり水中ポンプを入れてですね、海へ流す仮の復旧をスピーディにやって、これは非常にお客さまに非常に感謝をされました。
ただ私共は使命感、津波でご家族が被害に合われている方も次の日から現場に入って復旧にあたってくれているという、これには私も涙が出る思いでした。

石田:翌日というとそれこそまだ余震もまだ続いていだでしょうし、その危険な中いわば皆さん命がけで皆さんのために動かれたってことですよね。

稲村:そうです。他にも同じ年にタイで大洪水があったわけですね。タイには現地に会社を持っていまして、明電舎の中で一番古い現地法人、昨年50周を迎えましたけれども一番古い現地法人なわけですね。あの洪水に関しても私たち従業員はお客さまの危機の復旧の際のために本当に頑張ってくれて。うわさによると、ワニが泳いでるぞとか、コブラが泳いでるぞというとこにボートを出してお客様の設備の復旧に当たったという。
明電舎サイドから細かく指示をだすのではなくて現地の会社が段取りを取ってスケジュールを作ってそしてお客さまの復旧に当たったと。これは私共の製品だけじゃなくて全然他の会社の製品も水に浸かって止まっているというものに対しては全面的に復旧に協力して非常に後にお客さまに感謝頂きました。

言魂 ~心に刻む言葉と想い~

続いてのテーマは「言魂」
心に刻む、言葉と想い、強い想いと信念が込められた言葉には魂が宿り、人の人生に大きな影響を与える。
現在、会長を務める稲村純三が上司や先代から告げられた言葉の裏に隠された想いに迫る。

石田:続いては言魂ということで、先代や祖父母から言われた印象的な言葉、そこに隠された思いをお伺いできますか。

稲村:会社に入って重電、強電、高い電圧大きな電流の仕事をしようと入ってきたのに、とても小さなと言うか浄水務という小さな仕事に関わって、その時の上司がいて、今非常に感謝しておりますけれども、「お前本当にそう思っているんなら一度やってみろや」て「やってみたらどうなるかわかるからやってみたら?」という人だったんですね。だから技術的に色んなディスカッションしても、私もこれで絶対うまくいくというものを作っているわけですからその上司は「それじゃうまくいかないよな」とわかっていても「ほんとにそう思うならお前一度やってみな」っていってくれる上司だったんです。
ものの見事失敗はしますけれど、失敗したという経験で、ああ!これはこうだったんだ!ということがですね非常に何遍も経験させていただいて、多分その上司は失敗させながら私のことを育ててくれたんだというふうに非常に感謝をしております。

朝岡:それはあれですか?稲村さんの部下、そういう人が昔の自分のタイプの人がいたときもそういう感じで(上司のように)おやりになったこともあるんですか。

稲村:個人的には指導したことはないんですけれども、ただ、その時の経験で失敗を恐れるなということはですね、失敗は授業料だと言うことで部下には話してきました。
ですけどそれでも企業ですから、失敗をしてね非常に大きなお金がかかったということもあるわけです。ですから同じ失敗は絶対するな、新しいことをやって失敗したらそれは授業料として考えよう。というこで部下は指導してきました。

私共の重宗芳水も最初外国のモーターの修理をやって、これを自分たちでも作ろうとしたんですけれども、コピーで作ったらとんでもないことになって、回るモーターができなかったんで修理に走り回ったという記録が残ってますけれども、そういう失敗から新しい設計なりきちんと品質の保証されたものを作るという技術をこれを学んできたと思っておりますので、創業者の意思が生きてるのかなという気はします。

石田:今現在会長自身が心に刻んでらっしゃる言葉というのはりますか。

稲村:私がいろんな失敗を繰り返しながら来た時に「答えは必ずあるんだ」というね、今はわからない、今はいろんなことを考えて色んな施策をしないとわからないけれども、答えは必ずある。そりゃそうですよね。理論的な世界ですから、答えはかならずある。場合によっては、答えがないことが答えかも知れないいうことも現実にはあったんですけれども。答えは必ずある!そこに行こう!というのが私がずっと仕事をしてきたときの思いですし、それは部下にも言ってます。何か壁にぶち当たったときでも乗り越えられる道はあるんだという事はよく言ってます。

それともう一つは、小さい頃から「正々堂々」という言葉は好きだったんです。私は色んなスポーツもやってきましたし、そういうルールの中でキチンとルールを守ってやるということ、自分自身も小さい頃から好きです。ですから、会社に入っても守るべきものは守れ!とやるべきことはやれ、やってはいけないことは絶対やるなというのは、私の思いで従業員にも機会あるごとに繰り返しい繰り返し言ってきましたね。

ですから、もちろん日本には法律があります。会社の中にはルールがあります。それから世の中にはには常識もありますよね。それを守っていかなければ会社も世の中も回っていかない。ですから会社のルールなんかは時代とともに変わってくる。常識もそうですけど、これは違うよねだから僕はこうやったんだよっていうのは私は許しませんでした。ルールを変えてからやろうよ、私はずーっとやってきてそういうスタンスですね。正々堂々と仕事をやろうよね、そういう思いが非常に強かったですね。

石田:ちなみに会長の趣味が山登りと伺ったんですけれども、その山登りのお仕事に活かされてたりしますか。

稲村:私はもう50年以上前から山に登っているんですけれども、山って歩かないと目的地につかないんですよ。疲れてもどんな暴風雨にあっても一歩前に踏み出さないとそこに着かない。ゆっくりでもいい、着実に一歩一歩前に進むことこれが山登りには大切なんです。
ただそう言いながらも立ち止まって景色を見たり、花を見たり、そして振り返って今歩いてきた道を見たり、するということも非常に大事なことで、会社の場面でもがむしゃらに前に進むことも大切な時もありますけれど、一度立ち止まって振り返って自分の踏んできた足跡を見て、この道間違ってなかったよな、あるいは右と左に別れた道がどっちの道が正しいのかこれは山で学ぶことが仕事に生きてる部分ってのがあると私は思っています。

朝岡:ちょっと立ち止まってみてからにして一寸先を除くみたいなね。

稲村:ただ歩かないと、一歩前へでないと目的地にはまったく近づけない。

石田:山登りを人生そのものに例えられますね

稲村:すみません、ちょっと偉そうでしたけれども。

朝岡:いやいやいや。

伝燈 ~受け継がれる伝統~

受け継がれる伝燈。
創業以来、代々受け継がれているもの。そこに隠された想い。物語とは・・・?

石田:受け継がれる伝燈という事で、創業者や先代から代々受け継がれているものはございますか。

稲村:私共大崎の近くにビルがあって、品川プリンスの芳水小学校という小学校があります。
これは重宗芳水の芳水から取った都内では唯一の公立の小学校であります。
これを重宗芳水の妻であるたけ(重宗たけ)2代目の社長になるんですけど、(彼女が)私財をなげうって土地と校舎を寄付をしたという言うことでですね、これは今でもあるいみ私共の心の支えになってる小学校ですね。

朝岡:お金だけじゃなくてね、米百俵って話がありましたけどね、お金でお米配っちゃうとかお金に変えて、学校を建てて人材を育てたって昔の話がありましたけど、人材を育てるってことも重宗さんは…

稲村:重宗芳水がですね芳水小学校を建てたのは2代目のたけ社長なんですけれども、芳水が大崎に工場を作った時に近くに小学校がなかったんですね。従業員のお子さんたちが遠くから、場合によっては海を渡って田んぼの中を(通って)長い距離を通学してた。近くにい小学校があればこんなに苦労しなくても学校に通えれるのになという思いをずっとたけ社長に話をしていたそうです。芳水がなくなった時に、たけは芳水の意思をついでそこに小学校をつくり、品川プリンスに寄付をしたということでですね非常に地域に貢献するってことをしていた。芳水も地域に愛されない企業は成長しないという信念を持っていたんだと思います。ですから色んな意味での地域貢献というのは今でもやってますし芳水の意思が生きてるのかなという風に思います。

朝岡:今もまだ、品川区立芳水小学校と明電舎さんとは関わりというか交流されたりするんですか。

稲村:今もですね、私共ものを作る会社ですから、物を作る楽しみを味わってもらおうと模型のモーターを使った模型をみんなで作って皆で体育館で走らせてみようですとか、生の音楽聞いたことないよね小学生は、ということでプロの楽団に来てもらってミニコンサートを開くですとか、授業も、私達明電舎から学校に行って授業に行きます。

私も実はやりました。環境に優しい太陽光発電だとか風力発電だとか授業やって。そして給食食べて帰ってくる毎日でしたけど、その中での交流と言うのは芳水小学校もありますし、ものづくりだとかコンサートだとか芳水小学校だけでなくて品川区の中の小学校あるいは私沼津にも工場を持っているんですけれども、沼津市近辺の小学校でも(同じように授業を)展開してね、今まで7000人位のものづくりあるいはコンサートに来てもらってます。コンサートなんかはご父兄の方も一緒にお呼びするんですけど非常に感激をなさって、なかなか今は生の音楽を聴くということがないもんですから非常に良かったと思ってます。

朝岡:そうですか。

石田:今年創業120周年ということですけれども地域でのそういったイベントも…

稲村:お客さまに感謝の意を込めて技術展をしております。地域という意味では中学生向け、今までは小学生に色々していた話をしていましたけれども、中学生向けに今理工離れというのがあるので科学っていうのはこんなに面白いんだよっていう授業もはじめましたし。

明電舎が進める、国境を超えた地域との繋がりとは・・・?

稲村:地域に貢献しようという事でタイに50年の歴史を持った会社がありますのでタイの中学校に図書館と水タンクを寄付させていただきましたし、小学校に3教室寄付をさせていただきました。タイの大学も寄付講座ということで電気の講座を大学で開いてますし、国内だけではなくて海外でもさせていただいております。

NEXT100 ~時代を超える術~

NEXT100年、時代を超える術。
次の100年へ向け、革新を続ける中で、明電舎にとって100年先にも継承すべき変わらぬ想い、「核」となるモノとは・・・?

石田:最後ですけれども、次の100年に向けて変えるもの変えないもの御社にとってコアになる部分、教えていただけますか?

稲村:私共ものづくりの会社です。特にインフラは世の中の人たちのためになるそういうものをずっと120年間作ってきたんです。これがなくなるということは絶対ない。
だけど今以上に豊な生活をおくるために我々が何ができるか。これから先10年100年先を見た時に、明電舎って会社があってよかったよねって言われる、思われる会社になりたいな、したいなと思ってですね、今いろんな活動をはじめてます。

石田:歴史の敬称と時代の変化その2つの中で頭を悩ますことも多いんじゃないですか?

稲村:実際にですね、インフラというのは古臭いというなと言うイメージもあるんですけれども、無くてはならないものですから、必ず明電舎という会社が必要とされているということが受け継がれていく、それが世の中の人たちに喜んでもらい役に立っていくというのが我々の使命だと思っています。
これからもずっと続けていかなくてはいけないことだなと思っています。

朝岡:100年の企業ということでお話をさせていただいてますけれど、100年の歴史、100年に近い老舗のメーカーさんありますが、どうも最近あの老舗のメーカーがこうなってしまったのか、あるいは海外の資本が入ってきて実質海外のがあったとかそういうニュースが電機メーカーで日本のメーカーでニュースとして使えられることが多くて、日本の看板である技術、電気、これが100年これから100年続くのはまた新たな波とか時代の流れの変化がやってくるんじゃないかと思いますが、その時に稲村会長として明電舎がこうしていくんだという経営陣としての信念というか哲学それはどんなものがおありですか?

稲村:明電舎、ものづくりの明電舎でございますので、そういう中でどっちかって言うと昔から硬いものをやってきたイメージが有るんですけれども、インフラっていうのは絶えず新しいことへの挑戦なんですね。同じことをずっと繰り返していると豊な生活もできないし、喜びも安心もお客さまに感じてもらえないということで新しいことへの挑戦です。
これから明電舎が100年続いていくためには新しいことへ挑戦できる人材、我々は熱い思いを持った人たちと一緒に100年間を200年300年を一緒に明電舎あってよかったなって言うような思いが伝わってくるような会社にしていきたいと思いますし、そのためには人がいなければいけません、優秀な人がいなければいけないんで、優秀な人達をきちんと迎え入れる受け皿は私も作っておりますので一緒に明電舎を発展させ世の中の役に立っていこうことはずっと変わらないと思います。

インフラビジネスは、世の中に無くてはならないモノである。
その中で、新たな挑戦を続ける事が、人々の暮らしを豊かにすることに繋がる。
それを実現する、次代を担う人財の受け皿を、作っていきたい・・・。
この想いは100年後継者達へ受け継がれていくだろう!

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