株式会社 江戸清 〜横浜の風土に育まれて一世紀
創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~
今回のゲストは、株式会社 江戸清4代目代表 高橋伸昌(たかはし のぶまさ)
創業は1894年
創業者の高橋清七(たかはしせいしち)が横浜で豚肉販売業を開業したのが始まり。
関東大震災や横浜大空襲の大過に見舞われるが、事業環境の激しい変化の荒波を乗り越え現在に至る。
食肉の歴史とともに歩み続けたなかで、食肉先進国であった米国と早くから取引をしたことにより、安全・衛生面において、いち早く近代化を取り入れてきた。
“ブタまん”をはじめとした各種中華まんじゅう、中華惣菜、創業の頃から始めた肉の加工品は、横浜名物として広く愛され、中華まんじゅう製造会社として全国屈指の規模に成長。
常に「おいしさ」にこだわると同時に、「品質・鮮度」「環境」そして何より「安心・安全」にこだわったものづくりに邁進している。
今回は、そんな「江戸清」の4代目代表、高橋伸昌の言葉から、江戸清の持つ長寿企業の知恵、物語に迫る!
高橋: 私共、株式会社江戸清は、横浜で生まれて横浜で育った企業です。明治27年創業で今年で124年目になりました。事業内容につきましては、お肉を中心とした加工製造、卸もありますが加工製造・卸し・販売と言うことで一般消費者向けに売っているお饅頭類。あと、業務用でやっているメーカーとしての色彩を持ったもの、この2通りで現在事業を進めています。
~強みと特徴~
うちの会社は一般消費者向けに売っているものと、業務用のものと、いわゆるサービスとメーカーの2つの色を持っているというところがまず他社と違うところのなのかな?と思っております。
後は非常に江戸清が戦後、米軍との取引。米国、アメリカとの取引が始まりまして。アメリカは肉の本場ですから。日本の場合はお米とか魚ですけど、アメリカは肉の本場なので、そういう意味で肉の取り扱いとかを、親分のアメリカに教えてもらったというか。
あとは大手企業と言うか、自分の背丈にあっていないような大企業とお付き合いさせていただけたおかげで、非常に安全・安心・衛生・鮮度、こういったものに非常に厳しい要求がございましたので、業界の中でも特に風変わりな企業として。
例えばですね、豚はワクチンを打つんですね。ワクチンを打つと注射で打つわけです。この注射が当然豚が暴れるとこの注射の針が体の中に入る。豚肉をおろすとですね必ず何頭に一頭には注射針が入っている。これは肉屋では当たり前のことだったんです。
ただ大手企業はそれを許してくれずに、まず江戸清では金属検出機を入れました。これは業界の中でもですね、「江戸清気が狂ったか?」「肉にあいつら金属検知器かけてるぞ」こんな声が聞こえまして。
それが今度は笑っていた企業にも一般的になって、そのころには私共はX線を使っていました。「今度は肉でX線かけてるぞ」そんなことでですね、特に安全安心という部分では米国、それから大手の取引先のおかげでですね、私共の御岳背丈に比べるとですね、ISOの14,001環境、ISOの22,000安全、こういったものはいち早く中小零細企業の中では取得しているほうかなとは思ってます。
将来的にはさらに大手とどんどんどんどん取り組みをしてますので、FSSCというISOのもう一歩上のレベルの、衛生基準と言うかそういう国際基準、そういったものの取得も現在検討中です。
~国産と外国産の違い~
基本的には国産のものも海外のものも、一つの安全基準そういってた基準にのっとってみんなに提供されてますから、安全と言う部分ではほとんど同じだと思います。
ただ、日本人と言うのは非常に “想い”を入れるというかね。例えば和牛を取ってみても、体をたわしで和牛の農家の方が一生懸命洗ったりだとか、牛に話しかけたりと。そういうことで非常に想いが製品のクオリティになっていく。毎日「お前はいい子だいい子だ」と言っているといい子になるようにですね「お前はおいしくなるんだおいしくなるんだ」と・・・そうは言ってないかもしれませんけど(笑)。そういうことでお肉もおいしくなる。
海外へ行くとですね、とにかく規模が大きいんですね。何ヘクタールの中に何千頭、何万頭という牛がいて、それを一頭一頭当然なでるわけにはいけませんので。これを一挙に放牧をして、それを一挙にキャトルロードと言う、牛は後ろに進めないのでね、前に前にどんどん進めるんで、最後に三角形の頂点に一頭だけが前に進むようにする所があるんですね。後ろには牛が何千頭といる。そのなかでこう牛が押されて一頭入ると、頭がボコンと打たれて気絶さえられて、それで処理をされる。やっぱり日本の牛肉って言うのは非常においしいし、一つの世界中での憧れの的みたいな。和牛と言えばですね、アメリカに行っても中国に行ってもどこに行ってもそれなりの値段になる。
ですからそういったところをめがけて、アメリカもオーストラリアも努力を重ねてどんどんどんどん品質を改良していってます。ですから以前の何十年前のオーストラビーフと今のオーストラビーフでは全くクオリティが変わっている。だからどんどんどんどんこの差が少なくなってきているという意味ではですね、非常に選択肢の幅は増えたのかなと思います。
高橋: 西洋文化の入り口ということで、アイスクリームだとか肉だとかいろんな文化も文明も入ってきているわけですね。特にお肉については当時高価なものだった。
魚肉を食べて動物性たんぱく質を補っていた日本人には、急に完全に哺乳類の動物性たんぱく質、そういったものを取るところに行くには、まだいくつかの階段があったんでしょうね。壁が。やっぱりお肉って言うのは獣ですから、獣臭がするわけですね。この獣臭を日本人は嫌うんで、獣臭を消すために味噌を使ったわけですね。横浜のお肉のスタート地点である牛味噌。高価なものなのでこれを今度は薄く切って野菜と煮込む。それで量を食べるようになった。これがすき焼きですよね。
ですからそういう意味で、肉が入ってきてうちが操業したのが明治27年ですから20年を超えるような年月が経ってますんでだいぶお肉ってものに対しての認識はできていた時代だと思います。
その中で千葉のド田舎の人間が急に出てきて「これはうまいぞ」といって曽御爺さんの顔、感激、それは何となく目に浮かぶような気がします。
やっぱり我々もそうですよね。意に反して「美味しいな!」って言ったときにはすごく心も体も感動するわけですよね。この感動体験って言うのは絶対に忘れない。それがうまく仕事につながった。さすがだと思います。先祖だけど(笑)
~社名に隠された物語~
だいたい江戸清っていうと、すし屋か蕎麦屋に間違われるんですね。肉屋って思う人はまずいないと思います。
そういう意味では最初の創業者、ファウンダーがわたくしの曽御爺さん、高橋清七(たかはしせいひち)「きよく」「ななつ」で清七と書くんですけれども。もともとうちは千葉で庄屋をやっておりました。そこでとれた農作物をですね、横浜の港のほうに運んでそれで行商をしていたということがもともと横浜とのかかわりの始まりです。
その中でうちの曽御爺さんが、横浜に行ったときにお肉を食べたと。「こりゃ美味いぞ」と。「これは絶対これから日本人が常に食べるものになる」ということでうちの曽御爺さんは千葉で養豚業を始めます。この養豚業で育てた豚を横浜に卸した。
その時に江戸屋さんというところがそれを買って下さったと。たまたまその江戸屋さんには江戸屋ワスケさんという方がいたんですが、息子、息子というか跡継ぎがいなかった。「高橋さん、それだけ気持ちをもって売ってるんだったらうちを継いでくれないかね?」ということで、この江戸屋さんを引き受ける、今でいうとM&Aということになるんでしょうけれども、それで引き受けて江戸屋さんの「江戸」と高橋清七の「清」という字を合わせて、「江戸清」という名前を付けたと聞いております。
うちの曽御爺さんが私のお爺さんに話し、おじいさんが父親に話し、父親が私に話す。だから風呂場の中でですね、親と子が入った時に例えば「うちの名前はこういう風に言うんだぞ」と。「お爺ちゃんはこうだったんだよ。お前は将来継ぐんだよ」とそのように風呂場の中で経営学とかそういったものはあったと思います。その中で伝わって来たということです。
~社是に込められた想い~
基本的に江戸清のということになるとやはり社是。「事業を通じて社会に奉仕する」これが私共一丁目一番地ということになります。
じゃあ事業って何なんだ?って。ここらへんをもっと将来的には「事業って何?」「社会奉仕って何?」こういったものをもっともっと社員たちにはブレイクダウンしていかなければいけないと思っていますが、とりあえず事業を通じて社会に奉仕する中で、地域に貢献していく。なぜ地域に貢献するのか?それは我々が地域に生かされているから。
そういうことで、私の父もおじいさんたちもやっぱりそれなりに地域の中での篤志家。地域にいかに役に立てる人生が送れるかということをやってきた。そういうことが江戸清の中に脈々と継がれていると思います。
だから社是は基本的には変える必要はないと思っています。ただ、時代がそういうことを求めるのであれば、その時にその時の経営者がやはり考えていかなければいけない。そう思っています。
~理念や想いの浸透~
この社是「事業を通じて社会に奉仕する」。例えば社是を実践するための企業理念、“品質優先・顧客志向・食文化の創造”。これに我々社員たちが「会社発展の心得8か条」っていうのがあるんですが、これを必ず毎日唱和してます。
やはり唱和することによって体の中に入る。空に暗記することによってその意味を知ろうとする。そういうプロセスになっていくのかなって思うんですね。
後はやっぱりうちの会社に勤めているのはどちらかというと子供をみんな持ってますから、親が務めてますんで、子供が「お父さんの会社なに?」って言ったときすぐにさっと言える。「どういうことを基準にしてるの?」で「うちの企業理念はこうなんだよね」って、そういう風に空に言えるって言うのは親としても誇らしいのかなって。子供にとって映る親って「かっこいいな」って思うと思うんですね。だからなるべくわかりやすい言葉で、そして四字熟語というのは非常に語呂がいいのでそういうようなことで、朝礼だとか毎日の1か月に1回の全体朝礼の中で唱和をしております。
ただ、どうですかね?受け止め方に差が少しあるのであればそれを修正してやっぱり同じレベルにしていかないといけない。その努力は会社としてやっていかなくてはいけないと思ってますけど。
決断 ~ターニングポイント~
続いてのテーマは、決断〜ターニングポイント〜
会社の発展と共に訪れた過去の苦難。それらを乗り越えるべく、先代たちが下した決断に迫る。
高橋: 創業して、明治27年に創業するわけですね。創業という一番エポックメイキング、江戸清にとって。ここがなければスタート点がないということです。明治の時代って言うのは明治維新から、日本人が日本人同士で血で血を洗う戦乱の時期があったり、日清戦争、日露戦争、戦争だらけの、よくこんな時に会社を興したなって言うのがまず一つのポイントかな。
そうこうしているうちに、横浜で長く活躍している企業は必ず2つの大きな関門があります。1つが大正時代に起きた“関東大震災”。これでまず、全部が瓦礫の下敷きですね。その瓦礫を使って作ったのが山下公園ですから。いかに瓦礫が出たか、いかに物がぶっ壊れたか。
これは江戸清が順調に創業して以来お肉を、食肉事業をやって。その食肉を加工する、いわゆるハム、ソーセージ、ベーコンを作り始めたのが大正時代なんです。
大正時代の中でも、「ハム・ソーセージ年鑑」によるとですね、日本でもこの十誌中に、この江戸清、高橋清七が入っております。
これが関東大震災と共に、いっぺんに崩れる。それで曽御爺さんはですね、それを再建すると思ったらば、結局ハム・ベーコンを辞めてしまったんですね。これが次のターニングポイントで、食肉一本に絞ったということです。
続いて、“横浜大空襲”。終戦間際によくぞここまで落としてくれたという。中華街から桜木町までがもう真っ平になるくらいのすごい爆撃であった。これはうちの父だとか母が逃げ惑ったということだと思うんですけど、この横浜大空襲、これでもう一回焼けちゃったと。
江戸清にとって高橋家にとってもですね、この大空襲より前の写真というのはあまりないんですね。なぜないか?疎開していたらたぶん残ってたんでしょうけれども、そういう戦火にまみれるところに家があったために、全部のものが燃えてしまった。これが次のポイントです。
で、この大空襲の後に終戦を迎えて、そして米軍との取引が始まると。これが我々にとって第3のターニングポイントなのかなって。
第4はですね昭和38年に、“ドル防衛”が始まります。これで、簡単に言うと米国との取引は瞬時にしてなくなるということで、会社の柱だったものはなくなって、これで、その時うちの父も考えたと思うんですね。「食肉事業、どうやって行こうか・・・」と。これが第4。
そして、第5は私共江戸清には関連会社がございまして、「江戸清商事」。うちのおやじの弟が江戸清商事をやっていました。これが安宅産業と組んでやっていたんですが、安宅産業がオイルショックに絡んで倒産をします。その倒産した時にですね、手形の裏書がうちの父に全部回ってくるわけです。
それで、江戸清商事は潰れて、江戸清はその裏書きしたものを全部払う。個人の財産も、会社で今までためてきたものも、すべて売却をして、債権者にお支払いをした。
そしてその時に江戸清は再度立とうとした時に、銀行からもお金を貸してもらえないで、再建ができなかった。その時に初めて“伊藤ハム”。当時うちのおやじが伊藤ハムの関東の会長、伊藤ハム会関東会長をやっていたこともあって、伊藤ハムの創業者、伊藤デンゾウさん等いう方が「高橋さんが困っているなら助けてやれ」ということで、江戸清は伊藤ハムに資本出資を受けます。
これはある意味で“竈の下の灰まで俺のもの”という企業でいうと「紙器(わたくしのうつわ)」私器が大手が入ることによって、公の器に変わった。これは第5のターニングポイントなのかな、というふうにおもいます。
そして最後に江戸清の第6のターニングポイントはやっぱり“ブタまん”が生まれた時。千葉工場がちょうど江戸清100周年事業の一環として千葉に工場を作ります。この千葉に工場を作ったのは千葉から出てきたので、「横浜で栄えているんであれば千葉にも恩返しをしたい」ということで、千葉工場をうちが決断します。
当時売り上げが20数億円で27億の借金をして、私だったらようようできませんけど、うちの親父はやったわけです。そのときに大変な思いをして千葉が赤字になった。その赤字を全部担ったのは横浜で生まれたブタまんだった。こういう事によって江戸清は生きながらえることができたと言うことかと思います。
私が社長になったのがちょうど2000年。ミレニアムですね。世の中で特異なことが起きるということで社長になってしまいました。
このときから私は会社に呪われたように家畜の疾病、口蹄疫だとかBSEだとかまーいろんなことが毎年毎年起きてきます。あと、O-157のように食中毒事件、あと食品の偽装、あと一番ひどいのはですね、”団ボール肉まんというのがありましてね。この段ボール肉まんがでたおかげで、江戸清の中華街の肉まんの売上が一気にある日突然3割になるんですね。
こういうこと、いろいろな食品を取り巻く問題の中でですね、これは毎年毎年起きて、その都度その都度、江戸清は形を変えて乗り切ってきた。
続いて、4代目代表 高橋伸昌の、ターニングポイント。
高橋: もともと私は、大学を卒業してから野村證券に入りました。仕事も面白く自分の性にも合ったもんで、家の親父もそういう自分を見てて「お前どんどん頑張れよ」ということで、当初3年位で戻る予定だったのが、あまりにも喜んでやってるもんで「がんばりなさい」って。
そうこうしているうちに野村證券の中ではトップセールスになり、組合の執行部に入ることで、だんだんだんだん上がっていくわけですね。
ただ、先程も言いましたように、日本ハムが資本出資をした。「この株は将来高橋さんが将来独り立ちできるようになったら伊藤ハムは(その株を)譲りますよ」と言うことでいたんですが、やっぱりだんだんだんだん資本主義化が進んできて経営者が変わっていくと、親会社と子会社の関係になる。そこから物事が動かなくなってしまった。
そういうことで、江戸清に戻って父と一緒にこの問題を解決してもらいたいというのが自分の人生にとって野村證券を辞めて江戸清に移る、これが自分にとっての最大のターニングポイントかなというように思ってます。
母が来て、父はいいと言ったんですけど、母がたった一言「あなたはどうしてお父さんの力になってあげないの?」といってぽろりと涙をこぼした。そのぽろりで「わかったじゃあ戻る」となりました。
私は野村證券にいましたので株に比率が25対75だったら問題は解決しないと思ってました。でも母の情にほだされてといいますか(笑)そういう思いを受けて自分も思いをやってこれを解決していこうとで江戸清に戻ってきたのが、1994年です。
それから6年後に社長になります。そしてこの問題が解決して伊藤ハムが全株を「高橋さんまたがんばりなさいということで譲っていただいたのが江戸清に入ってちょうど20年位。20年間くらいかかったんです。
ていうことは、江戸性は伊藤ハムの資本のもとにやっていたけれども、それが完全に高橋のもとに戻ったということ。これがつい4,5年前に戻りましたから、そこが第2の自分にとって、本当に江戸清のために、江戸清の社員のために会社ができるんだというターニングポイントということになりました。
言魂 ~心に刻む言葉と想い~
続いてのテーマは「言魂、心に刻む、言葉と想い」
高橋伸昌が、家族や先代、恩師から受け取った言葉、そこに隠された想いとは?
高橋: うちの父が消防団の団長だとか、山下町町内会の会長をずっとやっておりまして。「世のため、人のため、地域のため」。これがうちの父の口癖でした。
私もそういう言葉を聞きながら、子供の頃から消防団に入りたいなとか、人の役に立ちたいなとか、そういうようなことを考えましたね。
あとはやっぱり、「感謝する心を忘れてはいけない」。私の座右の銘でもあるんですが、「報恩感謝」。“恩に報いて、謝る心を感ずる”報恩感謝ですね。
やっぱり人は一人では生きれない。うちの会社を引き立ててくれる人がいるから生きていくことができる。ですからそういったものに常に感謝の気持ちを。
例えば何か言われたとしても、その言われたことで我々が気づきを持つことができる。そしたら感謝ができるよねって。だからそういうふうに常に人に感謝をするという気持ちを忘れてはいけないというふうには思っています。
続いて、4代目代表 高橋伸昌が現在、胸に刻む言葉・・・
高橋: 好きな言葉として、史記の中で“桃李不言 下自成蹊”。これは今の成蹊大学の“成蹊”という言葉がそっから生まれてきているわけですけれども。あとはやっぱり“徳不弧 必有燐”。徳は徳を積んでいれば、世の中のためになにかやっていれば、自分は孤独になることはない。困ったときは必ず隣に友が現れる。
そういうようなことはいつも心の中に。だから、「世のため、人のため、地域のために」やることによって、会社が良くなったり、会社が良くなればうちの従業員たちも良くなる。
うちのステークホルダーも例えば取引業者も金融機関も、みんながその果実を分かち合うことができる。やっぱりウィン・ウィンの関係それこそが永続の関係だと思いますけど。
あとは、私が自分で思ったことはですね、色んな本を読んでますと“日蓮聖人”だといいますよね。“汝須く、一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷らん者か”。自分が良くなるためには人が良くならなきゃいけない。
“たらいの水”って話もありますけど、たらいの桶の中に水を張って、この水が金だとしたら・・・金が欲しけりゃ全部寄せたら手前の壁にみんなぶつかってみんな向こうの方に行ってしまう。でも、ちょっと向こうの壁に手でポンって当てたら、自然に(戻ってくる)。こういう事がすごく大事なんだろうなっていうふうに思いますね。
最近の若い企業、伸びてきている企業も、自分たちだけでやっているんだっていう会社もある。そういう色んな社長と会うとね、「俺達がやってるんだ!」みたいなね、でも、いつかどこかでそういうものっていうのは、長く経営をすると変わっていくのかな。若気の至りじゃないですけど、そういうものを気づいて学んだものが更に長く生き延びていくと思ってますね。
~前職で言われた言霊~
野村證券っていうのはね、当時から“ノルマ證券”と言われてましたから、これがいいかどうかは別にして、「数字は人格だ」って。「営業マンとして、上げた数字こそ人格だ」って「数字を上げないやつは人格がないんだ」っていうこと。
一方で、会社の社是として、“顧客第一主義”ということを挙げて、お客様は神様ですみたいなことがあったんで。やっぱり数字を上げる、顧客を第一に考えるこれがうまく行ける人間がスーパーセールスマンなんだなって。
利益だけを求めると・・・会社にとって利益って絶対大切じゃないですか。だから、証券会社にとっても、手数料収入っていうのは必要なわけですね。この手数料を上げんがために活動すると、違った方向に行く。
会社もそうですよね。利益を上げることだけを目標にしたらば、何やってもいいって話になるじゃないですか。そこにどういう壁というか・・・どういう安全面を用意するのか。
でも当時はそのこと「数字が人格だってすごい会社だな」って。一種の宗教みたいなものですよね。びっくりしました。
貢献 ~地域、業界との絆~
「地域や業界との絆」
江戸清が行っている地域や業界での取り組み。そこに込められた想いに迫る
高橋: やっぱり地域から雇用も働いてくれる方も頂いていますし、また地域の方にも買っていただいていますし。そういう意味では地域とは切っても切れぬ、江戸清は関係だということです。
その地域をどのくらいの広さとして取るか。少なくとも中華街のお店にお見えに来てくださるお客様は関東近県から来てますので、そういったエリアとの交流というのは常日頃から怠らないようにしてます。
食品産業ですから食育に関わるようなことについては、特に地域と連携をしていきたいなというふうに思ってます。
夏になるとですね、当然夏は暑いのでまんじゅうは売れないので、中華街の2階の本店の2階が開くわけですね。この期間を通じて夏休み親子まんじゅう教室というのをやってます。
これも本当にネットや新聞ニュースに出すとすぐ全部埋まってしまうというような好評を頂いているような行事なんですけれども、そういう中でまんじゅうの美味しさだとか、作る楽しさだとか、食育そういったものを子どもたち、親御さんとも一緒になって勉強する機会を作ったりしてます。
後は社会人講師、例えば出張講座とかをやってうちの工場長がシュウマイを作って、作ることの楽しさを教えたり、私が横浜の話をしたりね、色んなことをやってますね。
後は消防。消防に関しては消防の協力の事業所に指定されてまして、その消防団に会社として何名か派遣したりだとか、地域防災ということの中でですね手伝いをしたいということでやってます。
~中華街とのつながり~
中華街の中ではお互いが切磋琢磨する。やっぱり美味しくないところは、なんで美味しくないか、なんで人が並ばないのか、そういった者の知恵を借りたりだとか色んなことを学ぶ場でもありますし。
あと、中華街といういわゆるひとつのリアルコミュニティ。あそこでは中華街っていうのは中国人が住んで生活をして、そこに病院や学校があって。まさしく中国のどこにでもある一つのコミュニティなんですね。
これは作られた中国、中華街とリアルコミュニティの中華街都ではだいぶ違うということです。そこにいる色んな商店をやっている人たちは、商売をやるだけじゃなくて中華街の価値を落とさないように協力しあわなければいけないわけです。
例えば日本人の衛生の基準にあったサービスを提供したり、食べ物のを提供したり。そしてその中にリアルコミュニティとしての文化を伝えたり文明をみんなで感じてもらったり。そういうようなことをやるために、切磋琢磨で競争相手であり、また、一緒に街をバリアブルにするためのパートナーでもあるということです。
NEXT100 ~時代を超える術~
最後のテーマはNEXT100、時代を超える術。
100年後にも変えない「江戸清」にとっての核。
そして江戸清にとっての革新を、4代目代表 高橋伸昌が語る。
高橋: やはり“安全安心”これに尽きるんじゃないですかね。安全安心は当たり前だって。今我々にとって水のようなもの。でもこの水のようなものも、常に注意をしていないと悪い水になってしまう。この安全安心ということが食品会社の生命線だという風に思ってます。これがあってこそ初めて、“美味しさ”がプラスアルファとして出てくる。“美味しさ”が先にあって、安心安全がおざなりになっていれば大きな事故が起きる。
だから、江戸清としてはこの安全安心ということが、長く企業を続けていくうえで一番の重要事項だと思っております。
~江戸清の今後の課題~
やはり、“経営とは時代に対応する技術だ”という風に言います。今後日本がどんな編成をしていくか、これは将来のことはわからないですが、少なくとも人口動態を見ますと少子高齢化、これがますます進んでいくということになると、いわゆる“働き手”が少なくなる。もちろん海外から働き手を雇うとかいろんなやり方があると思いますが、そういうためには、できる限りの省力化、これはやはり会社がやっていかなくてはどうしても直面していく。
今まで10人の働き手がいたのが5人で済むように2人で済むように、1人で済むように、そういうことの技術革新いわゆる会社の中でのイノベーション、イノベイティブな活動を支援していかなくてはいけないんじゃないかなと思います。
~後継者への想い~
良く中小企業では、息子がなりますよね。あれはよくできた日本の経営システムで、欧米のような合理的な判断基準でやると息子がだらしないとなれないわけですよ。
ところが日本というのは情感豊かなもので、多少馬鹿でも息子だったら許せるという背があるんですね。これは面白いものでね、「あいつやったら潰れるよな」って言ってても、側近がその分一生懸命やったりとかですね。うまくできているわけです。
私にはたまたま男の子がいないわけですね。ですからずっと高橋家で続いてきたものが、やっぱり婿養子にしない限り途絶えてしまうと。逆に見たら、会社にとって一番大切なことは継続こそ、事業継続こそ一番重要なことだという風に思ってます。
ですから京都のように何百年、何千年も続いた会社は婿養子を取ったり、人様の力、人様のDNAを入れてうまく会社をリバランスして、長く持たせるようなやり方をしている。
江戸清もそういう意味では、プロパーの人間を次期社長にしていかなくてはいけないという風に思ってます。
私も2000年に社長になりましてね、もうかれこれ20年近くなります。そろそろ逆に見たら“若い力”。社長、“社長というのは一番活力あふれる人間”。そういうところに若い力を投入していかなければいけない。わたしが60という節目になった時にその若い力をどれだけ応援できるか。また、会社を対外的にもっともっと引き立たせることができるか、そういうことのためにですね、やはり社長の交代というのはそんな長い先ではないと。来年とか、そういうような時に考えていきたいと思ってはおります。
一つの自分にとっても還暦という節目になりますので、そういう節目の時に区切りが一つつけれるのかなと思っております。
~高橋伸昌の使命~
細かいことを言えばきりがないですからね。大雑把なことを言いますと、“次の後継者が継いだ時に従業員をはじめとしたステークホルダーが心配になるような事業承継はさせない環境づくりを自分がやる”ということだと思っております。
ちょっとわかりづらいかもしれませんけど、うちのおやじが私にバトンを渡したときに、(継ぐ)その前に「経営計画」を作らされました。うちの父とも何度も手直しをして、それを発表したのが社長になる前年でした。
ですから「翌年に社長にするぞ」と言われたときに、社員の方は前年からの経営計画をこいつが頭首していくんだ。つまり大きな変革はない。実はこの中にはいろんな変革があるんです。
ただ、体制が右から左に変わってしまう、自分が心が落ち着かなくなってしまう、そういうものって言うのは人がどんどんどんどん離れていってしまう。
ですから次の社長にはちゃんとお互いが話して、「こういう方向で」って言うのは自分が出して、社長が「右から左だ!」ってやるんではなくて、常に事業は継続していく。みんなも心穏やかにそれをやっていく。でも、新しい力が、新しいトップがその分皆でやろうぜっていうそういう環境づくり、これは私が一番、私しかできないことかなという風には思っております。
~長く経営していく上で大切なもの~
それは“折れない心”もっと言うのであれば“竹のようにしなやかな心”。
折れたらばもうその場で終わってしまいます。経営、事業というのはその時々に応じていろんな大変な時期、ノリにノっている時期もありますけど、大変な時期そういう時期のほうが実際多いんですよね。こういう時に絶対折れない。それがすごく大事かなっていう風に思います。
現実面では“利益”。先ほども言いましたけれども、利益は企業継続には絶対に必要なんですね。利益がない会社は社会的に絶対的に悪なんです。要は企業である以上利益を出していかなくてはいけない。でもこの利益が次のための投資につかえるもの、従業員に給料に払えるもの、この利益があればこの会社がきちっと回っていく。利益をどんどんためることが目的ではなくて、色んな意味で企業の発展のために利益を使うための利益、つまり「手段としての利益は絶対に必要だ」と、ここは譲ってはいけないと思っています。
江戸清、4代目代表 高橋伸昌が次代へ届ける長寿企業の知恵…。
「安全・安心」
安心・安全は食品業界にとって水のようなもの。
常に注意していないと悪い水になってしまう。
この安心・安全こそが食品会社の生命線だということを意識し、安心・安全があってこそ美味しさがプラスアルファとして付いてくる。
この想いは100年先の後継者へ受け継がれていく・・・。
ここからは、テーマにそって、「江戸清」の持つ長寿企業の知恵に迫る。
最初のテーマは、「創業の精神」。
創業者の想いを紐解き、家訓や理念に込められた想いを紐解く・・・