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関東屈指の山車祭り「八王子まつり」

2017年(平成29年)、東京都内で初の市制百周年を迎えた八王子市。百を超える多彩な記念行事で市が賑わう中、八王子を代表する「八王子まつり」も、大きな盛り上がりを見せていた。

関東屈指の長い歴史を誇る祭りであり、例年市内外から約80万もの人々が訪れる。今年は市制百周年を記念し、実に七年振りとなる「山車総覧」が行われた。町会ごとの山車計十九台が一堂に会し、八王子独特の山車文化が見る人々を圧倒した。3日間に渡って行われた「八王子まつり」は、訪れた人々を魅了し、八王子の夏を彩った。

「八王子まつり」の歴史

八王子まつり

八王子の町と共にその規模を大きくしてきた「八王子まつり」。その歴史は江戸時代後期にまで遡る。「八王子まつり」の起源として、江戸後期から明治中期にかけて行われた八王子の多賀神社祭礼、八幡八雲神社祭礼の二つが挙げられる。人々は多賀神社祭礼を「上の祭り」、八幡八雲神社祭礼を「下の祭り」と称し、それぞれ7月と8月に分けて行っていた。

当時の祭りは、江戸の人形師達が趣向を凝らして生み出した「人形山車」が特徴であった。山車の中央に神の依代を意味する心柱という一本柱を建て、その頂に岩座を設けて人形を飾った。その勇壮な姿は、祭り囃子と共に観衆を釘付けにしたという。

八王子まつり
八王子まつり

明治後期から大正期に入ると、八王子に電線が張られることとなり、高さのある人形山車は巡行できなくなってしまうそこで生まれたのが、現在の山車の主流になっている鉾台構造と堂宮構造の山車である。当初は山車が架線に掛からないように考慮して生まれた山車であったが、山車文化の発展の姿として親しまれた。1916年(大正6年)には、八王子は市制を施行し、多摩地域の中心都市として発展することとなる。市制による新しい時代の始まりに後押しされ、これまでの山車に加え、彫刻山車が生まれ、現在にまで受け継がれることとなる。

八王子まつり

1936年(昭和11年)には、市制20周年を記念したパレードを行うなど賑わいを見せていた。当時の「夏祭り記念写真帳」には、現在よりも一台多い20台もの山車が掲載されたが、残念ながらこれが戦前の山車を知ることができる最後の写真になってしまう。

1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦以降、戦時下の娯楽や祭りは衰退していく。1945年(昭和20年)には八王子大空襲に見舞われ、多くの山車が焼失してしまった。

敗戦の流れと共に衰退の色を見せていた「八王子まつり」であったが、戦後は復興のシンボルとして再度盛り上がりを見せることとなる。1961年(昭和36年)には、「八王子まつり」の前身となる「八王子市民祭」がスタートし、1966年(昭和41年)の市制五十周年記念市民祭には十二台の山車が初めて参加し、見事復活を遂げたのであった。以降も八王子の伝統文化として発展を続け、1968年(昭和43年)に現在の「八王子まつり」に改称。関東屈指の山車祭りとして多くの観光客が訪れる夏の一大イベントとなった。

八王子まつり

「八王子まつり」。受け継がれてきた伝統ある文化を如何に次の世代へと繋いでいくのか。その存在は、少子化や過疎化による文化の継承が危ぶまれている現代の日本において、とても希少なものとなっている。次の百年にどのような深化を遂げるのか期待したい。

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