株式会社 まるや八丁味噌 こだわりの伝統製法が造り上げる
オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~
今回のゲストは、まるや八丁味噌 代表取締役社長 浅井信太郎
創業は1337年
醸造業に始まったと言われ、徳川家康公が誕生した岡崎城から西へ八丁の距離にある
八丁村で生産されたことにより、八丁味噌と名付けられた。
現在も同じ場所で2軒の味噌蔵が伝統製法を守り続けている。
八丁味噌は米麹を使わず、大豆のみで麹を造り、約2メートルもの木桶に仕込み、約3トンもの重石を職人が一つ一つ積上げ、二夏二冬(2年以上)を超えて天然醸造し、少量の水分で仕込み、時間をかけじっくり熟成することで八丁味噌の特徴である大豆の旨みが詰まった深い味わいが生まれる。
創業から680年余、まるや八丁味噌は代々の当主が伝統製法を守り続け、今日まで絶えることなく造り続けている
今回は、そんなまるや八丁味噌の代表取締役社長・浅井信太郎の言葉から、受け継がれてきた物語、次代へ継承すべきまるや八丁味噌の持つ長寿企業の知恵を紐解いていく。
浅井:当社はですね、屋号がまるや八丁味噌と言いまして、これは創業者大田弥治右衛門の「弥」に由来します。創業が1337年と言われていますが、江戸時代の前になります。その時にどういう醸造業をしていたかわかりません。味噌であったかはわからないけども醸造業と言われています。
そして、1600年代になってから、こういう今で言う八丁味噌を作り始めたらしいと言われて、江戸時代をすぎて、明治・大正・昭和・平成と、順風にこのお味噌を、八丁味噌というものを今日まで作り続けてきたと。
それから色んなことがあったんでしょうけど、耐えることなく、その時のその時の当主が何らかの工夫を凝らして、良い時もあったんでしょうけど、悪い時もあったんでしょうけど、少なくとも、今日まで続けてこられた。
そこで作っているものは八丁味噌と言うんですが、木桶で作る、そして原料に大豆だけを使う、そしてそれに使う期間は2年間とする。こういったものが今も私の代まで伝えられています。多少の変化はあったんでしょうけども、その3つは大きな変わりがない。それは江戸時代の仕込み帳を見ても、ほぼ今と同じような状態を保っている。いくつか動力は使っていますけども、蔵の中にある木の桶は、従来と変わっていないなということは思っていますので、私の代も大きく変えないように、変えざるを得ないものは致しかたないですけども、そうでないものについては、極力、先祖が使っていた方法・考え方は極力、踏襲していくようにしています。
それで、私の代も今日まで大きな変化はありません。経済的な変化・経営の変化もありませんけども、ほぼ順風に進んでいる。そして、平成のこの時代もほぼ安定して経営が出来ています。そういう過去、約700年間であります。
~まるや八丁味噌のこだわり~
1番大事なのは、一緒に作ってくれる従業員、味噌を作ってくれる人たちが、もちろん味噌もそうなんですが、一番大事。従業員の人たちが作ってくれる味噌、その想いがそのまま品質に繋がります。いろんなことがあったでしょうけども、その人たちが、関わった人たちが、大きな事故もなく、或いは大きな争いもなく、この味噌を作ることに生活をかけていただいて、そして、この蔵を守ってもらえた。それ一番の財産。それをその時の当主が、それをまとめてこられた。それを私も感じるので、そういう想いをそのまま伝えていこうと思っています。
朝、朝礼で、大きな私が熱を込めことを言うとか、そういうことはしていません。ただ、私が現場にはあまりタッチしてませんけど、これを知ってもらう努力は私が就任してからずっとやっています。
そういうツアー、工場見学に来られた人たちに、私が想いをきた方に説明して工場の中を回る。そこを従業員たちが対応してくれてますので、その時に、石の積み方の想い、そして味噌をスコップでほじくる時の従業員の想い、それを自分が語ります。
それは随分、ほとんど私の周りに居ますのでそれが、随分伝わるだろうなということとか、いろんな方、海外・国内共にいらっしゃるんですけど、必ず工場の中を案内します。そして、従業員の人たちに声をかけてくださいねとそう言っています。そうすると、“従業員からの反応が私の工場の品質です”。
そういう時に、私が思っていることを味噌に対する想いを結構話をします。来た方に知ってもらいたいと思うから。それが朝礼でそういうことは話はしませんけども、そういうことも、そういった方たちに工場の中で話をすることは伝播していくんだろうなということはよく感じます。そういうことがいろんな方々からお聞きする、それが良い影響を与えているかなと思っています。
~八丁味噌の魅力~
浅井:昔はみんな自宅で作ってたもの、ただ八丁味噌はすでに販売するものだったんですが、次第次第に減っているような気がいたします。家庭用も減ってきているなぁと。実際に食べる量も減っていきているようであります。
全体量も昔、2000軒ほど蔵元があったと言われますが、今は1000軒弱。そして、私も、ここ愛知県でも、私が始めた頃は愛知県下の生産量は、何番目かなぁ・・・10数番目ぐらいの生産量だったかもしれませんけども、私は増えてもいないし減ってもいないんですけど、いつの間にか上から数番目になってしまったなぁと。
一般にはですね、八丁味噌って耳では聞いているんです。でも、ほとんど口にしたことはない。聞いているけども口にしたことはないっていうのが多いんだろうと思います。
それはとても生産量が少ないことと、非常に使いにくいです。極めて固いんですね。固いものですから、一般の方はやっぱり通常の柔らかい味噌を好まれるし、私がわかったことは、買ってはみたけども使い方がわからない!こんな固い味噌は使い道がわかんない!ということがとってもあったんですね。
それで、まぁ昔からほとんど業務用と言いましょうか、レストランとか東京の築地経由です。築地とか、ホテル街とか、今で言うなら横浜中華街とか、こういったところが大きなマーケットで、一般の消費者とはほとんど触れることがない、そういう状態を長く続けてきました。
今は、築地も昔ほど需要がありませんし、だいぶ変わってきましたので、私たちも、先として末端、使ってもらわなくなって消費者の方に直接ということをやってみようというので、少しシフトしていきます。
もっと知らせることをやろうというのが私の初めは、デモ販売と言いましょうか、お店で自分が味噌汁を作って、そして試食してもらうこと。お店でデモ販売をする。そういうのをデモンストレーションと言いますけども。東京・埼玉・神奈川と随分、今もやってますけども、それをやっています。それで、実は、それともう1つは、マスコミのみなさんのお陰で、私の工場へカメラが入っていただいて、作るところを見せてくれる機会がとても増えました。それでこう知る機会が増えた。それで、製造風景を見てもらう、それからすごく興味を持ってもらえた。
それで、私だけではありませんけども、社員もデモンストレーションをするお陰で、お店の方にも、置こうと。売れないけども置いてみようということをしてもらえた。
実際には売れないとはいっても、全体には売れてるんですけど、一般の小売の方には浸透するのは大変時間がかかった。今でも簡単ではありませんけども、少しずつ需要が伸びてきたお陰で、経営としては極めて順風な状態が続いています。
ここからは、テーマにそって「まるや八丁味噌」の持つ長寿企業の知恵に迫る。
最初のテーマは、「創業の精神」。
創業者の想いを紐解き、家訓や理念に込められた想いを紐解く・・・
浅井:長く続いた理由の中に、今それを仰った家訓のようなものがありました。それは「質素倹約」をすることだと。大事に使うことを質素倹約にすることと、そして、事業を拡大しないことだと。拡大しすぎると、どこかで驕りが出てくる。だから、拡大してはダメなんだ。
もう1つは、最後なんですが、八丁味噌を買っていただく方、そして、作っていただく従業員の方たち、この縁はすごく大事だ。この出会いを大事にするべきだとそういうことを言われています。
今、3つ申し上げたと思います。質素にして倹約をするべきだ。そして、売れるからといって、買ってくれるからといって、精一杯のことをやってはいけない。事業は計画的に、そして拡大はしないことだ。そして3つ目は、買っていただける、使っていただける消費者の方、そしてそれを作る従業員の方を大事にすることだと。その3つだと思います。
特に家訓として1・2・3条と書かれていたわけじゃないんですね。私ども、仕込み帳というがあるんですね。或いは勘定帳。仕込み帳っていうのは、どのようにして味噌を作るかということがあります。これは1700年代から残っています。
同じく勘定帳っていうのは、お金の出入りなんですね。これも残っているんですね。そこに、勘定帳の中に書いてあるのがその「質素倹約」ということになります。その最後には、必ず書いてあることは、励めと。仕事に励めと書いてあります。
「質素倹約」は、全く新しいわけではなくて、私がドイツに住んでいた数年間があるんですけども、その時に住んでいた家庭のご夫婦がとても質素で倹約で、でもケチじゃなくてとても豊かでした。
使うスプーンから家具から皿からそういったものをすごく大事にされて、私も、もうすでに他界されていますけども、その奥さんからマリア像を、病床にいる時に、お見舞いに行った時に、「これを、信太郎、お前持っていけ」と言うことで、「でも、お母さんから貰ったものじゃん」「いや、これはあんたが持っていけ」と言うことで、今貰っています。自分の机に置いてあります。
そうしたものを大事にする、そういう想いを持って帰ったので、この私どもの「質素倹約」っていうのはとてもよくわかります。作業でも営業できていかないといけないものですから、それは順調になった時に初めて自覚したかもしれません。
~家庭円満第一企業~
残業が増えたりするというのは、人件費も増えることと、本来17時で帰れるところ18時までなってしまう。下手したら奥さんと食事に行こうと約束していたかもしれない。そういうことを破ってしまう、出来なくなってしまうことが繰り返されると家庭での不満になる。
それで、私としては残業を結局やめようと。やめても経営が出来るようにしようというのが一つの想いです。したがって、注文するところのリミット、そして納品するところのターンとか期日、こういった間接部門の人には、それから営業の方にはお願いをしています。
そうしますと、大きな無理がない。生産も無理がない。それから販売も無理がない。そういうように理解をいただけるようにしています。これは、残業が少なくなる、人件費が増えないことも関連します。
もう一つは、家庭が円満になる。これをしないと会社って残らない。別のその生産性とかそんなことじゃなくて、家庭がうまくいけばいい。で、楽しく会社に来てくれる姿を、喧嘩するでしょう家で、喧嘩して合ったって、家庭で元に戻るチャンスさえ増やしてあげればうまくいく。誰だって喧嘩するのは当たり前ですけども、そういうことを会社の都合で起こらないようにしようと。
それは自分がそうだったからです。嫁さんとうまくいくと仲直りしたあと、すごく元気になりますし、喧嘩した時って家に帰る時、どういう顔で帰ろうかしら。怒って行ったらいいのか、ニコってして行ったらいいのか、考えながら部屋に入っていくんですが、それが仲直りした後はすごくもうルンルンになります。この繰り返しがあったんで、それがいいなと。
決断 ~ターニングポイント~
ナレーション
続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
会社の発展と共に訪れた過去の苦難
それらを乗り越えるべく先代達が下した決断に迫る
浅井:第二次世界大戦に入る昭和14年の10月だと思いますけども、「物価統制令」っていうのが発布されたそうです。そしてこれは、物価というのは、米とか塩とかそういったものが国で決められて、そして味噌も決められました。ただ決められた値段は、八丁味噌は非常にこう凝縮してますので、ずっと原価が高いんですね。
これは、国の決めた価格が私どもの製造価格を大幅に下回ってしまう。このまま続けていくと、赤字だけが積まれていく。それで当時、その価格は守れないので修正して欲しいと。八丁味噌は贅沢品じゃないけども、価格はこれでは従えないということでお願いをして、国に陳情をしたそうです。私ともう1軒、2軒。で、これは受け入れられなかった。
そして、その為に、翌15年の8月。この2件が決めたのは、製造中止。休業宣言をしたそうです。当時、国の文武の強いときに、休業なんていうことをしてしまいますと、普通ですともう廃業です。そういったことをしながらも品質を守った。
要は、原価を下げる為には、塩と水をたくさん入れればいいんです。柔らかい普通の豆味噌を作ればいいんです。そんな難しいことはない。ただ、八丁味噌を作っている。八丁味噌っていうのは、水分も塩分も少なくて固い味噌。これが八丁味噌というので、そういうものは作れない。それで休業宣言をしてしまった。
実際には、その後、国会でもこのことは話題になってですね、地元の衆議院義委員がいまの議事録なんかにも随分残っているんですね。そのくらい議論になったんですけども、いずれにしても出来なかった。
ただ、そうではあるけども、じゃあ、日本の軍艦にはですね、通常に味噌では温度が高い為腐ってしまうんです。八丁味噌しかだめなんです。それで、軍部だけには納品を続けたそうです。
それで昭和24年から再開をしたそうですけど、いま、ごく当たり前に通り過ぎてしまいますけども、よく残れたなと。それが、その時点でそれで廃業したかもしれませんけども、もちろん、昭和24年、楽なわけではありませんけども、再開できたこと。これが大きな継続できたことの一つと、廃業を休業宣言と共に廃業せざるを得ない状況であったかもしれないということが一つです。
もう一つは、これは私が小さい頃で覚えています。昭和34年かと思いますね。大きな台風、伊勢湾台風っていうのがありました。この時に屋根が飛んでですね、その屋根が飛んだ為に、石の周りに水が落ちるんですね。水が落ちますと急激に塩分も落ちます。すぐにこう腐敗するんです。
実際には腐敗してしまいました。これで、実際には味噌を捨てたりしなければならなかったんですけども、その時の借入金が、私が継いだ時にこれは別個に伊勢湾台風の借金だということで受け継ぎました。大きな金額でした。
当時の当主はおそらくもう大変だったんでしょう。それもとにかく借金はそのまま私のところに戻ってきましたけども、そのまま据え置きできましたけども、それでも潰れずに残れたなぁと。
これは実は、創業家の他に周りに親族がたくさんいるんですけども、その方たちの援助もあったと思いますけども、そういう方達の担保もあって、そのまま残れたんでしょう。そういう大きなものを2つ覚えています。
~浅井信太郎のターニングポイント~
東京へ行きまして、東京の学校へ行きたいと思って来た。そして、22歳で卒業した。他の食品会社で働いていましたけども、仕事が嫌でも何でもなかったんですけど、2年近く経ってから、非常にこう疑問に抱きました。「生活すること・働くこと・日々生きること」。どういうことかなぁと非常に疑問を抱いてですね。
更に、そのまま自分が生活していくならば、このままではとてもできないなぁっていうので、実は半年以上前から準備してたんですけど、日本以外の国に住みたい。日本以外のところで生活してみたら、自分が生活できるんじゃないかなぁと。でも、もう日本では得られないなぁという。これは、仕事が嫌でも何でもないんですね。つまり、生活するのに疑問を抱いた。
それで、選んだのがドイツでした。ドイツをどうして選んだかわかりませんけど、選んだのがドイツであります。実際には、決意としては、永住するつもりでいました。永住するつもりでありましたので、勿論一生懸命お金を作りました。親には一切、資産も土地も何もいらないと。そのお金は自分で作ると。それで作りました。
それで、ドイツに住み始めて、永住するつもりでいましたので、言われたのは、綺麗なドイツ語を学ばなきゃダメだよと。そういうことを言われてましたので、それは学びました。
それと勿論、節約というのがありましたので、節約するには大学に入るといいよと。大学に入れば、授業料も免除されるし、ひょっとすると奨学金ももらえるよと。そりゃあいい!ということで、よし、大学だ!というので、永住するつもりで、大学に行くつもりじゃなかったんですけど、大学に行くといいということを聞いたので、受験勉強をしようと。
ちょうど1年半で不合格でしたが、2年目で正規の半分くらいですけど、入学できました。したがって、少なくとも読み・書き・聞き取り出来ました。2年で出来たもんですから、それはもう集中しました。そういうときに、出来るじゃん!と。勿論、当時は、今でこそですが、でも、そのときとしては、これではとてもドイツ語の能力がない、そう思うんですね。そんなときに、ドイツに行ったことが大きなターニングポイントになるかと思います。
言魂 ~心に刻む言葉と想い~
ナレーション
続いてのテーマは「言魂、心に刻む、言葉と想い」
浅井信太郎が家族や先代・恩師から受け取った言葉。
浅井:大人になってからでありますけども、随分、東京へ来ていろんな方に仕えて、学生の頃からですね、いろんな人に会いたいなと。
そのときに、当時、地元の議員、衆議院議員の方がおられて、その方にお会いしたわけじゃないですけど、その方の秘書がおられて、その方から、彼らは秘書をやっておられて、よくそこへ行って、いろんなこと、彼の夢を聞きました。
当時、彼は酒蔵さんの息子で東京へ来ていたんですけども、学校を出ていなかったんですけども、「今自分が考えていることは、出来ることだ。なぜか?考えているかだよ、と。だから、俺は一つは議員になると思っている。必ず出来る。お前な、人間はな、考えたことは必ず出来ることだ。出来ることしか考えへんぞ。」と言われた。のちに彼はそこで議員になったんですけど、非常に努力をした。
そういう東京で学校へ行ったときに、そういう地元の方とお会いして、で、当時私は19〜20歳前後、彼はおそらく30歳の後半だろうと思いますけども、そういうことを言われて、実際には、そんなこと「出来るわけないじゃん!そんなこと出来たら簡単じゃん!」っていう思いもあったんですけども、やっぱり、真剣に話をするんですね、唾を吐いて話をする。で、そして一回り上っていうのはすでに完全に大人に見えました。大人の人が、私みたいな小僧に向かって唾を吐いて、「あんな!お前な!」って、こうやって話をする。その熱がすごかったなと。それは後々も覚えています。
それはとても今も私の中に、今もそう思っています。なんだって出来ること・やれること・考えることは出来ることに相違ない。だから、今私が69歳であります。なんだって出来る、それは想うこと。想えてずーっと自分が立案して、深く考えて、こうやって出来るなと。従業員みんなの給料をどうやったら増やせるかな、そういったことを深く考えれば必ずできることだ。それを実行していく。それは、そういうことをいくつかある中で、覚えていることがそれであります。
~浅井信太郎が胸に刻む言葉~
東京では、東京農大っていう学校を出ています。私たちは、農産物を扱っています。ミヤキ教授というと思いますけど、「彼が君たちが卒業してから、農家・農民の敵になるな。少なくとも君たちが味方にならなければ、農家の人はやっていけない。少なくとも敵になるな。」ということを、小柄な方だったんですけど、蝶ネクタイをして、その先生が最後にそういうことを言って私たちに贈ってくれました。それから、今もそうです。
したがって、今私たちが大豆を、勿論大豆ばかりじゃありませんけども、地元の大豆を大事にして、地元の農産物の振興をすることが、私の大きな役割、地元に貢献する役割。その先生が仰った農家の味方になることだと。少なくとも、農に関わる者が理解をして、それに邁進してあげるべきだ。それが出来なかったら農家はやっていけない、報われない、理解されない、それは今もそう思っています。
貢献 ~地域、業界との絆~
「地域や業界との絆」
まるや八丁味噌が行っている地域や業界での取り組み。
そこに込められた想いに迫る
浅井:私も子どもがいます。2人子どもがいて健常に生まれてきてくれて、そして社会に貢献してくれています。
そして、ある時、ハンディを背負って生まれてきた子もいます。そういった方との接点もありまして、そういった方たちの側に立つことも大事だなぁと。企業人として出来ること。特に私は、自分の会社を息子と一緒にやってますけども、こういった方たちと寄り添うことも、毎日じゃありませんけども、出来るときにそういうことを、社会奉仕と言えば聞こえはいいでが、緒になること。
そして、そうしていると、お聞きしたことは、そういう福祉団体の人たちは、お金が欲しいわけじゃないと言われる。お金が欲しいわけじゃなくて、この子たちが社会に将来自立するときに、社会と接点がないんですよ。それで、そういう社会と接点出来る場所を作って欲しい。これは、その係りの人からの強い要望でした。
多少、言葉がハンディであったり、或いは、歩き方が正規の歩き方じゃなかったりしますけど、でも、パンを作って一生懸命300円ですって言って、300円もらって、まぁこのことができるような機会を作ってあげることを望まれた。それが一番の望みだということなので、じゃあこれをしよう!ということで、ちょっとそういう方たちと関わることをやるようにしています。
もう一つ、企業人として最後に一番大事なことだと申し上げますが、日本に八丁味噌を作る蔵元が2軒あります。私ともう1軒、旧の東海道の北側にもう1軒。私が南側にあります。この2軒は、共に1600年代からこの商いをやっています。
もう1軒は、今で言うなら、カクキュー八丁味噌さんっていう、私の最もライバルです。まさに、敵とは言いませんけど、ライバルです。一番の商売敵であります。
この方が、まぁライバルっていうのは実は敵ではないんですね。その方と、先祖、ずっとこう2軒が東海道のならびに同じ商いをしている。同じような業績をあげている。時には、私ども大変衰退する時もありましたけども。
この方ともう1軒の八丁味噌と非常にライバル関係である。いいのは、引きずり下ろすライバルではないこと。そして、ある意味では、高めるライバル、勿論、商いを上手くしようと上手にしようと努力するわけですが、お互いの努力を認める。私ももう1軒のライバルをいつも彼が掃除よくやっている。俺もああやってやってみたいな、ああやってみるぞ!ただ、個性は自分の個性で生きようと。
いい関係であったが故に、2軒が少なくとも江戸時代から400年、東海道挟んでせいぜい6メートルしか離れてないところが、2社が健全に経営できている。これは、いろんなことがあった中でも、助け合うとは言いませんけども、ライバルがあったおかげで2社が残れた。そして、この品質を高めることができた。それを八丁味噌として400年の間守ってこれた。これがすごく地域に貢献できたこと。少なくとも、岡崎の人たちが喜んでくれている。これが一番、事業でありますけども、社会貢献の一つかなと思います。
NEXT100 ~時代を超える術~
最後のテーマはNEXT100、時代を超える術。
100年後にも変えない「まるや八丁味噌」にとっての核。
そして、次代を超え、変える必要のあるものを浅井信太郎が語る。
浅井:トップの姿勢が極めて大事だと思います。トップが自分に正直であること。それを同時に、社員に対して正直であれることなんですね。自他共に正直に正しく来きること、正しく事業を運営すること。
息子がやれるかどうかわかりませんけども、次の世代には、これをやって欲しいなぁと。私も1回グレたことがありましたけども、そういう風にして今生きてる気がしますので、いつかはそういうところになってもらえるような事業主であって欲しいなと。それが変わらずこう継続できてくれたらいいなと思います。
これは、私ども八丁味噌、2つの八丁味噌が決めていること。「木桶で作りますよ。そして2年以上は必ず熟成させますよと。そして木桶の上に味噌の2分の1の石を円錐型に乗せる。そのできたものは一切加熱をしたり、ものを加えたりしてはいけない。」このものを作り続けてもらうこと。これが今もそうですが2社の約束事であります。これを守れるようにして欲しいなと思っています。
先ほど、物理的なものを申し上げましたけども、さらに大事なことは、社員の方たちが安心して働ける、正直に働ける環境、これが品質を作ります。今もまさにそう思っています。品質は社員の顔、社長もそうなんですけども、この人たちと従業員と、経営者もそうなんですが、この人たちの想いがそのまま品質になると思っています。実際そうだと思いますが、こういう品質をしっかり守っていけるようにしたい。
そのためには、家訓の一つであります、従業員を大切にすること。これが出来れば品質は守れる。お客様に対しての品質は守れる。これを、是非是非、次の代も、このまず自覚してから何でしょうけども、やってくれたらいいなと思っています。
~長寿経営を続ける上で大切なこと~
浅井:自分の丈、身の丈があるなぁと。無限大に無いので、身の丈を知ることだなぁと。そして、それに沿ってすることだなぁと。私だったら味噌ならば、味噌の生産量・販売量、そして誰にこの商品を使ってもらいたいのか、このことをよくしっかりすることだと。
時として、この商品が行くべきでないところに商品が行ってしまうと、価値が下がります。これをするべきではないと。身の丈を知ることと。
もう一つは、どうしてこの2軒が今日まで在り得たのか、存続し得たのか、実はもう1軒のカクキュー八丁味噌さんです。この方があったおかげで、私どもが残っています。カクキューさんもそう言ってらっしゃいますけども、そんなことはない。カクキューさんがあったおかげで私どもがある。このライバルを大事にすることだと。このライバルの信頼を担っている。この信頼に非常に応えることだ。
そして、この品質を守り続ける。そして、この顧客を守り続ける。そういうことを2社ですることだなぁと。でも、あくまでもライバルです。それがこう素敵なライバルでありたいなぁと思っています。そういうことを継いでくれるといいなぁと思っていますし、今も私は継続中です。
まるや八丁味噌、代表取締役社長浅井信太郎が、次代へ届ける長寿企業の知恵…。
「正直に正しく生きる」
自分に正直に
社員に正直に
お客様に正直に
正しく事業を運営する
作り手の想いが高い品質を維持し 伝統製法を守り続けていく
この想いは100年先の後継者へ受け継がれていく