長寿企業の知恵を、
次の世代・時代へ継承する
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金魚問屋の老舗~株式会社ヨシダ~

オープニング・創業の精神 ~家訓や理念誕生の経緯~

今回のゲストは、金魚の吉田6代目代表吉田信行(よしだ のぶゆき)
創業は文政2年、吉田家の2代目“吉田粂七”が小石川丸山町で“らんちゅう”を中心とした金魚の販売を開始。江戸時代の金魚商が現代まで継続されている企業は金魚の吉田のみ。それは金魚に懸けた男達の孤軍奮闘の歴史と言える。

明治28年4代目の“吉田新之助”は“らんちゅう品評会”を開催し、明治38年には大衆向けの琉金・和金・緋鯉等の販売を開始し、“東京深川養殖池”を設立。終戦後に“吉田養魚場”と称し、金魚の生産を開始し、世の好景気に伴い生産業から問屋業に転換し、関東一円に販路を拡大した。

その後昭和61年に屋号を金魚の吉田と法人化し、代表取締役に“吉田信行”が就任。平成2年には、量販店ジョイフル本田と提携し、大型ペットショップ専門店の中に、全ての鑑賞魚と関連商品を販売し、現在のペットブームの先駆けとなった。

そして平成18年、一階に金魚小売専門店“金魚の吉田”を設立し、以降自家魚のみならず日本の金魚及び鑑賞魚業界の発展に貢献している。

今回は6代目代表、吉田信行の言葉から時代に継承すべき、金魚の吉田の持つ長寿企業の知恵を紐解いていく。

吉田: 金魚の吉田はですね、金魚・熱帯魚・錦鯉、そしてメダカ。そういう生体を販売しております。そしてその観賞魚に関するですね、エサだとかポンプだとか、エアーポンプだとか。そういう付属器具一式を販売しております。それで販路とすると、関東一円、それから長野、北陸。それから新潟、最近では関西まで進出しております。

売り先はですね、一般の小売店、それとかホームセンター、そういうところに販売しております。最近ではですね、葛西水族館だとか、スカイツリーのすみだ水族館ですね。そういう水族館にも販売しており、特にすみだ水族館はここ3年ほど前にですね、金魚の江戸リウムということでですね、大体的に展示してくれまして。各マスコミも全部呼んで、各テレビ局も来てくださいまして、プレゼンテーションを盛大にやってくれましたんで、そこの展示したところに、「金魚の吉田」っていう風にですね、展示してくれたのでかなり宣伝になったと思います。また本社もですね、一階が70坪くらいあるんですけども、一階では金魚を販売してる。金魚だけを販売しているっていうのは、金魚の吉田だけなんですね。それも産地産地で、愛知県だとか、郡山だとか、そして中国の輸入金魚だとかですね。全ての金魚を販売しておるんですけれども。金魚専門でやっているのは小売ではウチだけだったんで、マスコミの人々もですね、ここのところ多く取り上げてくださいまして。そういう所でも「金魚の吉田」を宣伝してくれました。

長寿企業の知恵~創業の精神~

ここからはテーマに沿って、金魚の吉田の持つ長寿企業の知恵に迫る。最初のテーマは「創業の精神」。創業者の想いを紐解き、現在に至るまでの経緯、家訓や理念に込められた想いを紐解く。

吉田: ちょうど2代目のですね、吉田久米七は江戸時代にで金魚を販売していたんですね。その久米七がお得意先とするのが、不忍池に新中屋さんというですね、小売店専門の店があったんですね。そこには畳一畳の船を70枚浮かべて、金魚を販売してたんですね。そこで2代目が販売するんです。今ならば、ビニールの袋に水入れて金魚入れて、酸素を入れますから2日も3日も持つんですけれども。当時はリアカーで小石川から不忍池というと、おそらく小一時間はかかると思うんですね。その小一時間、炎天下の時もあるでしょう。それを運ぶのに、やっぱり弱い金魚だったら運んでる途中にどんどん死んじゃうんですね。ですから丈夫な金魚をっていうのが、やっぱり理念ですね。

それと第5代が昭和14年に家族ごと本郷へ来まして、そこで住んでたんですけれども、16年に第二次大戦にあたるわけです。
そして第二次大戦にあたって、空襲がくる。それが空襲警報ー!解除ー!ってなると。空襲警報が解除するとですね、お客さんが金魚ください、エサの赤虫くださいと来る。すると先代は、こんな非常事態なのに金魚を買いに来る人がいるんだと。やはり金魚というのは心に和らぎを与えるんだなと。心に豊かさを与えるんだなあという風に、痛切に感じたようでありますね。

~理念や想いの浸透~

ショップの人達とか、うちの従業員と一緒に勉強会は年に2回くらいは開いておりますね。朝礼もありますし、月に2回営業会議がありますから、口酸っぱくね。やっぱり吉田の金魚は、死んだら持って帰ってこい、1週間後に死んだら全部ウチは引き受けるよ、そのくらいの徹底的な教育はしております。

決断 ~ターニングポイント~

続いてのテーマは「決断 ~ターニングポイント~」。会社の発展と共に訪れた過去の苦難、それらを乗り越えるべく先代達が下した決断に迫る。

吉田: これはですね、先代からよく聞いたんですけどね。金魚の吉田は古くは深川で生産して、小石川で販売する。滝野川で生産して本郷で販売して、そして大正3年に新小岩で生産して本郷で生産してた、というような生産と販売を分けていたんですね。

そんなような時に、先代が、先ほども話したんですけれども、昭和14年に家族一同が本郷に来たんですね。その頃は裕福な凄い立派な会社だったんでね。それが16年の12月に第二次世界大戦が入った。そうすると、その次の年、1、2年経つとですね、ピンチになると。こうなった時に食糧難にも耐えるためには、この池は金魚の生産をお国がしてはならないと。甘露煮にするからフナを養殖しなさいと。刺身にするから、黒鯉を養殖しなさいと。という国のお達しで金魚が生産ができなくなっちゃったんですね。

これが、先代が1番キツかった所だったと思うんですね。それが戦争が20年の8月に解除されて、そん時は子供はできませんから、21年になって子孫を存続するために親だけは取っておいたんですね。

ですからその親を22年に養殖し始めて、これができてよかった。
22年、23年も出来た、良かったと思ったら22年の9月にですね、台風が来て大水害になっちゃったんですね。やっと戦争が終わってやっと金魚が出来たと思ったら、これが全部流されてしまったということで、先代としてはもう金魚屋辞めようかというような、1番辛いような時期だったのかもしれないですけれども、それがまた23年、24年に生産して行ったら、また金魚が一杯できたと。

ということで葛飾区も養魚場、江戸川区も養魚場と、15件の養魚場を集めて、東京都に金魚組合を申請しようということで、東京都金魚組合を申請しますよろしくお願いしますと東京都に言ったんですね。ところが東京都からしてみれば、フナだとか養殖をですね全部勧めてたから金魚組合っていうわけにはいかないって言うんで、名前を「東京都淡水魚養殖漁業協同組合」って言う名前ならば、組合の設立を認めましょうということで、金魚の名前は一言も入らないけれども、金魚の組合を認めてくれたんですね。初代の会長になったのが、5代目だったんですね。

6代目吉田信行のターニングポイント

吉田: ちょうど43年にですね、金魚の吉田に入って行ったんですね。それで、その頃ってのは、縁日の金魚掬いが主体なんですね。金魚掬いの夏祭りの絶頂の頃ですね、もう夕方になると金魚掬いのネタが全て売り切れちゃうわけですね。
ところが1つの網にですね、本当に弱っている金魚がいるわけなんですね。3000匹ぐらいいるんですけど、そこに的屋さんが来て、ちょっとコレ売ってくれと言うわけなんですね。

そうすると先代はですね、この魚持っていっても死んじゃうよと。でも「死んでもいいから売ってくれよ」と言われるんですけど、「でもお客さんのところに行って、金魚が死んじゃったら可哀想じゃないですか」って先代言うわけですよ。ほんならね、「金を出すのに、死んでもいいから売ってくれっていうのに売らねえってことはなんちゅうことだ!」って逆に怒り出しちゃうんですね。そうすると「少林寺やってるからノブの出番だよ」と言ってですね、次男の私が出て行くんですね。そしたら、「お前ん家の親父は話がわからん」って言うんですね。「この先にも金魚売ってるところありますし、江戸川にも売ってますからどうにかそっちで買ってください」と謝ったことは度々あるんですね。
弱い魚は金出してもくれても売らないという信念は凄かったですね。

それとおそらく昭和45年か46年くらいにですね、ウチに飛び入りのお客さんが来まして、そして金魚とか水槽とかエアポンプとか色々合わせて20万円くらい買ってくれまして。それで佐倉まで配達してくれということで。じゃあノブ行けということで自分がトラックを運転して佐倉まで配達して。そして配達終わって「集金お願いします!」と言うとですね、それが「後で払いに行くよ」と。「いやそんなこと言わずに是非よろしくお願いします」と言うと、「まあまあいいや、ちょっと風呂入ってけ」と。なんかみんな脱ぐの怖いなあなんて思いながら風呂に入れさせられてですね、それで風呂から出るとビール一杯飲めやと。もう困ったなあと思いながらビール飲んで、それで「集金よろしくお願いします」と言うと、「お前俺が払うととんでもないお金だあ!」と言うとですね、入れ墨の人が2人くらい出てきて、サラシにドスを巻いてる人が2人くらい出てくるわけですよ。これは少林寺やってても、これは勝てないなというんで、「じゃあ頼むから払ってくださいよ」ということで帰ってきたんですね。

そうすると「お前は何のために少林寺やってたんだ」と、「馬鹿野郎お金なんて払うわけねえだろう!」と怒られたんですけど。こんな事があって日本で金魚を売るのはもう嫌だと。もうこれから海外に売ろうじゃないかということがキッカケで、海外へアメリカ行ったり色んなところに行って金魚を海外に売るようになったんですね。

言魂 ~心に刻む言葉と想い~

続いてのテーマは「言霊」。心に刻む言葉と想い。吉田信行が家族や先代から受け取った言葉、そこに隠された想いとは。

吉田: 両親なんですけど、父親は熱心な日蓮宗の信者でですね。朝1時間、そして夜1時間、それと写経を1日30分する。もう熱心な日蓮宗の信者で。それで、「仏のまっつぁん」って言うくらいですね、本当に怒ったことのない温厚な親だったんですね。
母親はですね、男3人に女4人を育てなきゃいけないですから、やっぱり優しいながらも厳格で厳しかったですね。

そんなところでですね、ある時自分が当時高校1年で免許を取れたんですね。ウチの門から金魚の水槽が、叩きがあるんですけど、そこから60mか70mくらいなんですね。そこの所で急停車して脅かしてやろうとして、姪と甥が遊んでたんですよ。そこで「そーれ、急停車だー!」ってヒュっと止まったらですね、それがブレーキが効かないわけですよ。

男の子はファっと逃げたんだけど、女の子はまともに轢いちゃったんでね、まともにですよ。ところが右肩を上げた時に、そこに女の子がコロンと落っこったんですね。それで、ところが金魚の水槽ですからコケが生えていて、もうツルツル滑るコケが。だからタイヤが回転しないでそのままスーッと滑ってくれたんですね。それで滑って行って、そのままバンバンて挟まっちゃった。そこで「うわー、大変なことやっちゃった」って車から飛び降りて、火事場の馬鹿力で車を上げたら、ウワーって出てきた。その時、傷一つなく、泣いたけど助かったんですね。

もちろん、ホッとした。その時間が丁度お昼の1時頃なんですよ。その1時の時期って先ほども言った通り、ウチの先代は拝むのは朝5時、夕方5時とキチッと決まってる性格ですから、1時に拝むってことはまずない。そしたらウチの母親がね、これは神様のお陰だよ。本当に死んじゃうのに助かるってのは、神様のお陰なんだからということで。

それからは自分の中で、高校2年生の時から日蓮宗を信じるようになったんですね。父親からよく言われた言葉というのが、さっきから言ってるんですけど、やっぱり人の心を和らげるような仕事、心が豊かになるような仕事をやるんだよというような話は若い頃からしてくれましたね。

吉田信行が現在、胸に刻む言葉

吉田: 自分は、野球やったりバレーボールやったり少林寺やったり色々やってきたんですけど、やっぱり練習は嘘をつかないというのはずっと体験してきて。つい最近なんですけど、少林寺の世界大会、少林寺拳法の世界大会っていうのが4年に一回開かれるんですね。

そして今年は10回目の大会がサンフランシスコで開かれたんですね。そして明治大学関係者は今まで世界大会で金メダルもらったことが1回も無いわけなんですね。それで少林寺の50何年の歴史で世界大会のメダルどうにか会長取ってくださいよ、というような要望から「よし!わかった」と。2ヶ月前からですね、4段以上の部ってのが1番最高の部なんですけどね、練習に練習を重ねて。

そして、7月26日には出発だったんですよ。それを7月24日まで練習しまして。もちろん他の明治の現役の学生だとか全部練習をさせたんですけど。サンフランシスコからメールが来まして、「会長、おかげさまで優勝できました!」って言うんでね。みんなで感謝状を貰ったんですけど、これは文字通り、練習は嘘をつかないというようなアレですね。

少林寺拳法は大学で始めたんですけど、高校時代はバレーボールだったんですね。関東大会も東京都大会ベスト2で出場したくらい結構強かったチームなんで。大学行っても自分はバレーボールをやろうという風に心に決めていたんですね。

ところが夏の合宿の時にですね、明治高校のバレーボール部のOBの人が明治大に行って少林寺拳法部を作ったグループの人だったんですね。それでその人が来てくれて、吉田ちょっと手を持てよということで、持つとどわーっと飛ばされちゃうわけですよ。

この世の中にこんなスポーツがあるのかということで、バレーボール部の高校の監督に「本当にすいません。大学の方にバレー部で推薦して頂いたんだけど、ちょっと少林寺の方に行かして頂きます!」ということで大学は少林寺に行ったんですね。

~少林寺拳法との出会い~

配達、営業マンが色んなショップに配達していくわけですよね。営業マンには朝礼の時に、君は荷物置いたらサーっと帰ってきちゃダメだよ、宅急便屋になっちゃいかんと。それはよく言ってます。
やっぱりそこ行ったら金魚がどうなってるか、最近上手くいってるかそういう所まで全部見てこなきゃダメだよ。品物を売るのも必要だけど、やっぱり自分も売らなきゃいけないよというような話はよくしますね。

貢献 ~地域、業界との絆~

金魚の吉田が行っている、地域や業界への取り組み、そこに込められた想いとは。

白山: これはですね、江戸川区はやはり金魚の産地ですから、小学校がほとんどと言っていいくらい金魚の水槽を置いてあるわけですね。それで60cmの水槽のフタを開けておくんですよ。それでやると湿度が全然保てるんですね。
ですから是非小学校のインフルエンザの予防に、金魚の水槽を置いてくださいと。そうすると、インフルエンザにかかりにくいですよと言うんで、まあ江戸川区だけじゃなくて全国的に評判な時期がありますね。

NEXT100 ~時代を超える術~

最後のテーマは「NEXT100 時代を超える術」。金魚の吉田にとっての核心を吉田信行が語る。

吉田: まず変える方ですけどね。っていうことは、今金魚の生産量が愛知県の弥富にしろ郡山にしろどんどん減っているわけですね。最盛期から比べれば半分くらい日本の金魚の生産量が止まってるわけですね。
それで中国からの輸入の金魚も、ここ1年と2ヶ月っていうのが止まってるわけなんですね。ですからこのまま行っちゃったらですね、やはり供給が間に合わない状況になっちゃいますんで。どうにかね、金魚の生産ですね、まだ弥富とか郡山にこだわらないで新潟だとか池がいっぱいあるわけですよ。鹿児島にもありますし、熊本の縄酢にもありますから。

どうにか金魚の生産を思いっきり日本の若い世代の人達に金魚を作る方向をしたいなと思いますね。変わらないというのはやっぱり丈夫な魚を販売していくってことはもちろん変わらない、そう思いますね。

~100年先の後継者へ~

そうですね、100年後の後継者にはですね、やっぱり伝統である平和な世の中が続く限りですね、やっぱり金魚を販売して行ってもらいたいと思いますし、あと売上的には金魚だけではいかないと思いますので、淡水魚+ペット、犬猫だったりそういう部門にも入って行って売上を伸ばしていって欲しい、そういう風に思いますね。

~長寿経営を行う上で必要なモノ~

人材の育成ですよね。どんな転機にあたっても臨機応変に対応できるそういう人材がいればいいんじゃないかと思いますね。

金魚の吉田 6代目吉田信行が次代に届ける長寿企業の知恵。
経営者が健康で丈夫な体を持つことは、必要不可欠である。
人材育成を怠らないで欲しい。どんな出来事にも臨機応変に対応できる、そういう人材を育て、そのノウハウとスキルを継承していくことが重要である。

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