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〈中編〉第2回 地方創生経営者フォーラム 伝燈と志命 in 新潟 2017 ~決断と地域~

2017年12月18日(月)新潟県新潟市にて、「第2回 地方創生経営者フォーラム 伝燈と志命 in 新潟 2017」がホテル イタリア軒を会場に、盛況のうちに開催されました。

地元・新潟から玉川堂(ぎょくせんどう)の7代目・玉川基行氏、鍋茶屋(なべぢゃや)の6代目女将・高橋すみ氏、東京からヤマト株式会社の4代目・長谷川豊氏が登壇し、コメンテーターにNSGグループ代表・池田弘氏を迎えました。

登壇者の企業プロフィール
株式会社 玉川堂
鍋茶屋
ヤマト株式会社

フォーラムでは、「歴史と決断~長寿企業の知恵と地域との絆~」をテーマに、「創業の精神」「決断~ターニングポイント~」「地域とともに生きる」「これからの100年」の4つの切り口から、3社の長寿の秘訣に迫りました。

新潟と東京の100年企業3社によるパネルディスカッションの様子を、総力特集として3回に分けてお伝えします。

〈前編〉第2回 地方創生経営者フォーラム 伝燈と志命 in 新潟 2017 ~創業の精神~
〈中編〉第2回 地方創生経営者フォーラム 伝燈と志命 in 新潟 2017 ~決断と地域~ ※本記事
〈後編〉第2回 地方創生経営者フォーラム 伝燈と志命 in 新潟 2017 ~これからの100年~

前編「創業の精神」に続き、中編では「決断」「地域」に焦点を当て、長寿の秘密を紐解いていきます。

老舗企業の決断 ─ターニングポイント─

長い歴史の中で、長寿企業は経営危機にどのような決断をし、乗り越えてきたのでしょうか

玉川堂の決断

玉川堂は何度も倒産の危機に面したといいます。

玉川堂 7代目、玉川基行氏

「まず明治時代に海外事業で失敗しました。いろんな博覧会に出品したんですが、歴代作品を積んだ船が沈没したりとか、為替で失敗したりとか。

昭和初期は恐慌で廃業の危機に。戦時中は銅が手に入らず、アルミでしのいでいました。ついにはアルミも手に入らなくなり、200年の歴史があると言いながらも実は2年間廃業した時期がありました。

戦後、5代目に当たる私の祖父が、戦争で離散した職人を燕市に呼び集めて復興しました。私は大学を卒業してすぐ玉川堂に入りました。入社した1995年は、売上がピーク時の3分の1に減り、いつ潰れるか分からない状態。給料は大幅に下がり、ボーナスも払えないような状況で、従業員を半分解雇しました。

当時は商品を問屋に卸していましたが、まずはそこを変えていこうと。お客様の声が聞こえてこないので、どういう風に商品開発をすればいいのか分からなかったんです。問屋を通さずに、直接百貨店へ売り込みに行きました。そこからうまく直接取引が始まって。それだけじゃなく自分たちの手でお客様に商品を渡そうということで、2014年に青山店、2017年には銀座店をオープンしました。

『ブランディング』が流通経路の短縮だと思っています。今後も3年に一度のペースで直営店を設けようと思っています。香港やシンガポールなどアジア圏も視野に入れています。

問屋を仲介していたことで、お客様の声が聞こえなかったというのは反省点です。やっぱりものづくりには、お客様と会話できる直営店が必要です。最終的には燕市の本社で職人とお客様が会話できるということをやりたい。燕市の本社を産業観光の施設にしようと思っています。外国人が燕三条へ観光に来るという構図も描いています。近郊の旅館やレストランと連携して、燕三条を国際産業観光都市にしたいんです。」

鍋茶屋の決断

鍋茶屋にも火事やリーマンショックなど、様々な荒波が押し寄せました。

鍋茶屋 6代目女将、高橋すみ氏

「私が嫁いでから右肩上がりで、ありがたい限りでしたが、バブル崩壊からじわじわと厳しくなってきた時にリーマンショックが起こりました。それまでの法人のお客様がどんどん減って、3階の200畳の広間がいつも空いているんですね。この建物を維持するため、いかに有効活用しようかと。芸者衆もやっぱり暇になりまして。それで、お昼に踊りをご覧いただいて軽いお食事をしていただくという会を始めました。

そのうち京都で修行していた息子が帰ってきて『ブライダルをしてみたい』と言って。3階に絨毯を敷いて、和風でありながら洋風の要素を入れたブライダルの提案をしました。私は料亭の部門で、息子はブライダルの部門でいこうということで続けております。おかげさまで若い方にもおいでいただいています。

私の実家も京都の老舗のお茶屋ですから、姉に『老舗はモダンでなければいけない。時代が何を必要としているかを感じて、半歩でもいいから進みなさい』と言われたことを思い出しまして、息子の背中を押したことがお店としてのターニングポイントです。

私個人としては、嫁いで10年目に起きた火事がターニングポイントでした。同業者の方や取引業者さん、近所の皆さんにいろいろと助けていただいて、その時に初めて『新潟県民』になれた気がしました。新潟の皆さんは本当に温かい。皆さんに育てていただいて、もう50年近くになりました。」

ヤマト株式会社の決断

ヤマトは戦時中、原料の確保に苦心したといいます。

ヤマト株式会社 4代目、長谷川豊氏

戦時中、米などの食料がでんぷん糊の原料として使えなくなりました。その時に先々代が考えたのが、ダリアや彼岸花などの球根からでんぷんを抽出して糊の原料にすることでした。それで完成したのが冷糊法です。それまで、でんぷんを煮て糊を作っていたんですが、加熱しない化学処理で非食用でんぷんを加えて、より強力で腐らないでんぷん糊を開発し特許を取りました

『矢が的に当たる』マークから『ヤマト』というように、会社そのものが時代に沿った考え方を持っているんですね。

私は他の会社に15年間お世話になりました。大学時代に留学して、そのままアメリカのプライベートバンクに入社しました。ヤマトに入ったのはちょうど100周年の時でした。前職では何億という額を扱っていたのですが、ヤマトではそれが何円、何銭に。単位が全然違うんですね。そこが私個人としてのターニングポイントです。」

地域とともに生きる老舗企業

3社それぞれの視点から、地域への想い、企業が地域社会の中で果たすべき役割をお聞きしました。

玉川堂と地域

玉川堂は、燕三条地域を中心に開催される「燕三条 工場(こうば)の祭典」に参加しています。

玉川堂 7代目、玉川基行氏

「工場の祭典は、毎年10月の第2木曜日から日曜日の4日間開催されます。これまでに5回行われました。お客様が工場を訪れて、ものづくりを体感できるというものです。

燕三条にはいろんな『こうば』があります。金属製品などを作る『工場』、農作物を作る『耕場』、商店街などの『購場』。2013年初回の来場者数が10,700人。2017年の5回目は52,000人が集まりました。新潟県外の20代30代の方がたくさん見えています。

それで玉川堂本店はと言いますと、工場の祭典が始まるまでは来店者数は900人。2016年は5,50
0人、2017年には10,000人近くになりました。このうち海外からのお客様が400人います。そうなると、英会話が出来ないとダメです。私も含めて営業事務、若手職人、みんな英会話ができるように勉強しています。毎週水曜日が英会話教室です。

先ほどもお話しましたが、産業観光は地域活性化の切り札になると思っています。例えば、燕三条にお越しいただいたお客様を鍋茶屋さんにご案内するといった連携をする。また、産業を見直すことが地元の価値を再認識するきっかけにもなります。工場の祭典をきっかけに、燕三条の企業に入りたいという学生がすごく増えました。玉川堂もそうです。

燕三条だけでなくて新潟県全域で、オープンファクトリー化ができればいいと思っています。新潟県には16の伝統工芸産地があります。これは京都府に次いで全国2位。オール新潟で、工場見学をしていただく。それが地域創生の源になるのではと思います。」

鍋茶屋と地域

高橋氏は、新潟の「古町芸妓」を守る取り組みにも尽力しています。

鍋茶屋 6代目女将、高橋すみ氏

「1987年に地元企業約80社が出資して、芸妓を養成・派遣する柳都振興株式会社が設立されました。1950年代には約220人、1960年代には約140人いた芸者衆もどんどんと若い人が減って。30代後半が一番の若手になった時に、地元の皆さんがご心配なさって、一つ置屋を作ろうということで会社ができました。

最初は10人からのスタートでした。応募してきた子たちを昔ながらの芸妓さんに鍛えていただきました。徐々にいろいろなところで取り上げていただいたり、コンベンションなどの余興に出させて頂いたり、学校を訪問して課外授業の一環として踊りをお見せしたりということで、地元の皆さんに伝統芸能を残す活動をしているんだと好意的に感じていただけたのは有り難かったですね。今では全国各地から応募があります。30人規模を維持することが目標です。

それから、毎年3月の第1月曜日に『柳と華の会』を開催しています。”感謝の夕べ“という形で、皆様に応援していただく会を立ち上げたのが始まりです。イタリア軒さんを会場に、芸者衆はまるっきりのボランティアで、全部手作りのパーティーという形で皆様に声をおかけしましたら、430名も集まってくださいました。何が一番よかったかというと、会場においでいただく時間を17時にして、19時には全て終わるようにしているんですね。そうすると皆さん、そのまま古町の方へ流れてくださって、その日は非常に古町に活気が出るというお話を聞きました。地域とともにあるんだなという想いを強くしましたね。」

ヤマト株式会社と地域

東京を拠点とする長谷川氏は新潟での様々な活動をどう感じたのでしょうか。

ヤマト株式会社 4代目、長谷川豊氏

「企業はCSRとして地域社会に何か還元しなきゃいけないと思っていて、弊社では町のお祭りなどに協力しています。ただ、どちらかというと福祉の分野で社会に貢献したいというのがあって。

今、高齢者向けの商品を一生懸命作っています。社員も自ら率先してレクリエーション介護士などの資格を取っています。あとは、『バリアレス・ハート・ギャラリー』といって、身体に障害がある方々が年に1〜2回作品の展示会をするんですが、そこに弊社の商材を提供しています。また、アーティストのスポンサーにもなっています。新聞紙と糊で恐竜を作る杉﨑良子さんにアラビックヤマトを提供しています。

身体の不自由な方、それからお年寄りの方への協力、アーティストの育成ということは、地域貢献ではないですけれども、CSRの一環としてやっています。

新潟の応援団としては来た時には1泊する、地場のものを消費するなどで協力できたらいいなと思っています。」

中編では「決断」「地域」という切り口で老舗企業を見てきました。次回、後編では「これからの100年」に焦点を当てていきます。

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