続いては「決断」〜ターニングポイント〜」ということで、まず会社に起こった転機、ターニングポイントを伺えますか?
長い歴史の中で戦争による原材料の統制がうちの会社にとって一番厳しいもので、デンプンが配給制になりましたので、食用デンプンは使えませんので、ダリヤや彼岸花の球根をデンプンにして使ったというのが一つのターニングポイントです。ピンチをチャンスに変えたときがその時でございまして、1950年に特許をとったんですが、冷工法という今までの温めて煮てつくる糊とは違った、化学処理をした製法でピンチをチャンスに大きく伸ばしたということです。
食用デンプンが使えないので、球根のデンプンを糊にするにはどうしたら良いか考えて?
だと思います。先代がやはり凄かったんだと思うんですけど。
最近でいうとバブルの時代は切り抜けたのか、関係なかったのか?
そもそも急激な利益もロスも出ない商品なので、努力をすれば100年続く商品なのですが、リーマンショックのあとはオフィス需要および公官庁の需要が激減しましたので、今までやっていた事務用品だけではないということで、このような新しいホビー商品を開発していって、売上にプラスしていったというターニングポイントもあります。
オフィスから個人に広げるターニングポイントがそこに?
そうですね。あとは少子高齢化になっていますので、高齢者市場にむけて、我々の場合はヤマトアートスクールというのをつくっておりますが、ホビーの教室をやったりしています。
今4代目でらっしゃって、3代目のお父様は相当ご苦労多かったでしょうね?
相当大変だったと思いますし、50年社長をやっていましたから、そういう意味ではだいぶ会社を大きくしたのも会長のおかげだと思っております。
50年社長ってなかなかいないですよ。そうすると父親とは別に経営者としても勉強になったことがいっぱいあったと思いますが?
私の場合、実は会社に入って17年なので。ちょうど会社が100周年の2000年に入ったものですから、その前のことはあまり知らないんですけども。
まだ17年ですか?云十年やっている貫禄ですが。
全然別の業種にいたものですから。
先代のお父様と比べて似てる点、違う点はどこですか?
難しいですね。組織としてどちらかというと家族的な会社経営というのは会長と似ていますし、我々の業界はそういうところが多いものですから、そこが一点共通点かなと。厳しさに関しては会長の方がはるかに厳しい。そこは大きな違いだと思います。
ヤマトに入る前は何を?
今と全く違う、アメリカの金融機関におりまして、どちらかというとプライベートバンクとか、投資顧問とかそういう仕事を。日本の機関投資家や個人のお客様からアメリカの投資を持ってくるという仕事をしていました。
いずれヤマトを継ぐという前提でおやりになっていたんですか?
うちの両親が会社を継がなくていいよ、好きな事をやりなさいと言っていたことと、父が大学の時にアメリカンフットボールをやっていたんですが、それほど外国が好きだったのに、僕のおじいさんが亡くなっちゃったんで、家族を養うためにヤマトをやっていかなきゃいけないということで、そういうチャンスが無かったので、息子に託してくれたんだと思います。
アメリカでのお仕事や生活の経験は今どのように活かされてますか?
全然日本とアメリカは文化も違うし、業界も違うのですが、例えば女性の活用とか社員の教育は外資系でだいぶ学びましたし、仕事の仕方、特に文具業界は古い形態の会社が多かったものですから、そこはだいぶ変えたと思います。
確かに糊ってすごく日本的ですよね。糊を使っている姿を見るだけで日本だなという空気もあるんだけど、そこにご自身のアメリカの経験をうまく持ち込んでらっしゃる?
最初は大変でしたけどね。宇宙人が来たような顔をされました。
どのように馴染ませていったんですか?
会社内ではできるだけオープンにして、年2回の全員を集めての会議ですとか、年賀状を書いて、私の一年間の方針を渡したりとか。あとはオフィスもオープンスペースにしまして、メールも僕にいつでも入ってきますし、携帯の番号も教えていますので、何かあればすぐ来るようになっているということを大きく変えたと思いますね。
社長室があるというわけでもなく、壁がなくて皆さんフレンドリーにお話されているという?
一応部屋はあるんですけども、部屋じゃないところにも席は用意して、そこにちゃんといるようにして。特に朝と夜は出来るだけいるようにすれば当日の行動がわかりますんでね。
これだけの長寿企業のトップになるということが決まった段階では、かなり色んなことをお考えになって、プレッシャーもお感じになりましたか?
ほとんどがプレッシャーでした。前の会社との大きな違いは、文房具ですから原材料含めて何円何銭の世界なんですね。前の会社は機関投資家がメインでしたから、1億以下の人は相手にしなかったものですから、そういう意味では何億何千万の世界から何円何銭になったというのは大きなカルチャーショックでした。
アメリカの場合は長寿企業は多いんですか?
多いと思いますね。グローバルな会社は長寿企業が多いですし、私が勤めた会社も1818年にできた会社ですので、大変古い。そこから学んだことも多いですね。同じように長寿企業ですし、現在も活躍してますので。
長寿企業は長寿企業に学ぶんですね。
偶然なんですけど、本当にご縁があって入れたので。
女性社員の抜擢に積極的なのもアメリカから学んだことなんですね?
上司が女性だったケースもありますし、男女問わず優秀な人、良く出来る人を抜擢するというのはアメリカの企業らしいですよね。上司、偉い人ほどよく働くというのも勉強になりました。土日に家に帰るなんて全く嘘でですね、日本人のお客様が来れば一緒にゴルフ接待して、夕食までも付き合ってくれるような。そういう会社にたまたまいたんですけども、そこから学ぶことは非常に多かったですね。
休んでらっしゃいますか?
ちゃんと休んでいます。大丈夫です。
女性社員のマネジメント法にこだわりは?
女性は優秀なんですね。特に文房具関係ですと女性の目線は重要なので、出来るだけ意見を聞いて開発に結びつけたいと思っています。
さっきの付箋のアイデアも、社員を活性化させてくみ上げるものですから、アメリカの空気のマネジメントはヤマトを良い風に変化させていったと。
まだ結果はわからないですけど、そうあってほしいです。
続いては「決断」〜ターニングポイント〜」ということで、まず会社に起こった転機、ターニングポイントを伺えますか?
長谷川:長い歴史の中で戦争による原材料の統制がうちの会社にとって一番厳しいもので、デンプンが配給制になりましたので、食用デンプンは使えませんので、ダリヤや彼岸花の球根をデンプンにして使ったというのが一つのターニングポイントです。
朝岡:ピンチをチャンスに変えたときがその時でございまして、1950年に特許をとったんですが、冷工法という今までの温めて煮てつくる糊とは違った、化学処理をした製法でピンチをチャンスに大きく伸ばしたということです。
食用デンプンが使えないので、球根のデンプンを糊にするにはどうしたら良いか考えて?
長谷川:だと思います。先代がやはり凄かったんだと思うんですけど。
朝岡:最近でいうとバブルの時代は切り抜けたのか、関係なかったのか?
長谷川:そもそも急激な利益もロスも出ない商品なので、努力をすれば100年続く商品なのですが、リーマンショックのあとはオフィス需要および公官庁の需要が激減しましたので、今までやっていた事務用品だけではないということで、このような新しいホビー商品を開発していって、売上にプラスしていったというターニングポイントもあります。
朝岡:オフィスから個人に広げるターニングポイントがそこに?
長谷川:そうですね。あとは少子高齢化になっていますので、高齢者市場にむけて、我々の場合はヤマトアートスクールというのをつくっておりますが、ホビーの教室をやったりしています。
朝岡:今4代目でらっしゃって、3代目のお父様は相当ご苦労多かったでしょうね?
長谷川:相当大変だったと思いますし、50年社長をやっていましたから、そういう意味ではだいぶ会社を大きくしたのも会長のおかげだと思っております。
朝岡:50年社長ってなかなかいないですよ。そうすると父親とは別に経営者としても勉強になったことがいっぱいあったと思いますが?
長谷川:私の場合、実は会社に入って17年なので。ちょうど会社が100周年の2000年に入ったものですから、その前のことはあまり知らないんですけども。
朝岡:まだ17年ですか?云十年やっている貫禄ですが。
長谷川:全然別の業種にいたものですから。
石田:先代のお父様と比べて似てる点、違う点はどこですか?
長谷川:難しいですね。組織としてどちらかというと家族的な会社経営というのは会長と似ていますし、我々の業界はそういうところが多いものですから、そこが一点共通点かなと。
朝岡:厳しさに関しては会長の方がはるかに厳しい。そこは大きな違いだと思います。
ヤマトに入る前は何を?
長谷川:今と全く違う、アメリカの金融機関におりまして、どちらかというとプライベートバンクとか、投資顧問とかそういう仕事を。日本の機関投資家や個人のお客様からアメリカの投資を持ってくるという仕事をしていました。
朝岡:いずれヤマトを継ぐという前提でおやりになっていたんですか?
長谷川:うちの両親が会社を継がなくていいよ、好きな事をやりなさいと言っていたことと、父が大学の時にアメリカンフットボールをやっていたんですが、それほど外国が好きだったのに、僕のおじいさんが亡くなっちゃったんで、家族を養うためにヤマトをやっていかなきゃいけないということで、そういうチャンスが無かったので、息子に託してくれたんだと思います。
朝岡:アメリカでのお仕事や生活の経験は今どのように活かされてますか?
長谷川:全然日本とアメリカは文化も違うし、業界も違うのですが、例えば女性の活用とか社員の教育は外資系でだいぶ学びましたし、仕事の仕方、特に文具業界は古い形態の会社が多かったものですから、そこはだいぶ変えたと思います。
朝岡:確かに糊ってすごく日本的ですよね。糊を使っている姿を見るだけで日本だなという空気もあるんだけど、そこにご自身のアメリカの経験をうまく持ち込んでらっしゃる?
長谷川:最初は大変でしたけどね。宇宙人が来たような顔をされました。
朝岡:どのように馴染ませていったんですか?
長谷川:会社内ではできるだけオープンにして、年2回の全員を集めての会議ですとか、年賀状を書いて、私の一年間の方針を渡したりとか。
石田:あとはオフィスもオープンスペースにしまして、メールも僕にいつでも入ってきますし、携帯の番号も教えていますので、何かあればすぐ来るようになっているということを大きく変えたと思いますね。
社長室があるというわけでもなく、壁がなくて皆さんフレンドリーにお話されているという?
長谷川:一応部屋はあるんですけども、部屋じゃないところにも席は用意して、そこにちゃんといるようにして。特に朝と夜は出来るだけいるようにすれば当日の行動がわかりますんでね。
朝岡:これだけの長寿企業のトップになるということが決まった段階では、かなり色んなことをお考えになって、プレッシャーもお感じになりましたか?
長谷川:ほとんどがプレッシャーでした。前の会社との大きな違いは、文房具ですから原材料含めて何円何銭の世界なんですね。
朝岡:前の会社は機関投資家がメインでしたから、1億以下の人は相手にしなかったものですから、そういう意味では何億何千万の世界から何円何銭になったというのは大きなカルチャーショックでした。
アメリカの場合は長寿企業は多いんですか?
長谷川:多いと思いますね。グローバルな会社は長寿企業が多いですし、私が勤めた会社も1818年にできた会社ですので、大変古い。そこから学んだことも多いですね。同じように長寿企業ですし、現在も活躍してますので。
朝岡:長寿企業は長寿企業に学ぶんですね。
長谷川:偶然なんですけど、本当にご縁があって入れたので。
石田:女性社員の抜擢に積極的なのもアメリカから学んだことなんですね?
長谷川:上司が女性だったケースもありますし、男女問わず優秀な人、良く出来る人を抜擢するというのはアメリカの企業らしいですよね。
石田:上司、偉い人ほどよく働くというのも勉強になりました。土日に家に帰るなんて全く嘘でですね、日本人のお客様が来れば一緒にゴルフ接待して、夕食までも付き合ってくれるような。そういう会社にたまたまいたんですけども、そこから学ぶことは非常に多かったですね。
休んでらっしゃいますか?
長谷川:ちゃんと休んでいます。大丈夫です。
石田:女性社員のマネジメント法にこだわりは?
長谷川:女性は優秀なんですね。特に文房具関係ですと女性の目線は重要なので、出来るだけ意見を聞いて開発に結びつけたいと思っています。
朝岡:さっきの付箋のアイデアも、社員を活性化させてくみ上げるものですから、アメリカの空気のマネジメントはヤマトを良い風に変化させていったと。
長谷川:まだ結果はわからないですけど、そうあってほしいです。