有限会社 牛田噴霧機工場
決断 ~ターニングポイント~
牛田噴霧器工場のターニングポイントを伺えますか。
牛田:大正12年の関東大震災、第2次世界大戦を越え、戦後アジア向けの家具の輸出を行っていました。展示会に向け用意していたのですが、経営が傾き、ここで多額の借金が出来てしまいました。昭和20年から30年くらいのことです。なぜ、そうなってしまったかというと、輸出に関して、当時情報があまりなかったので、詐欺のようなことにあってしまいました。大量の数量を出したが、全く利益が入らない。これで大分傾いてしまいました。
朝岡:再建は上手くいったのですね。
牛田:今まで人力式の噴霧器だったのですが、高度成長期に伴い、農業も拡大しました。大手の動力噴霧器、広範囲に散布できる機会がどんどんシェアを伸ばしていました。いい機会なので体制も変えてしまおうと、専門のポンプメーカーと組んで、独自の商品を開発し、同時期に施工も行い始めました。結果これが幸いして、会社の中に指導型の害虫駆除業務も始めました。弊社の知恵や技術を教えるのと同時に、商品を販売していました。
石田:社長ご自身のターニングポイントをお伺いできますか。
牛田:私は二人兄弟の次男です。小さい頃から家業を見てきました。母からは兄弟二人とも同じ事業をしては共倒れしてしまうかもしれないので、好きな道に行きなさいと言われていました。ですから、自分で独立するなど、好き放題していました。当時は、まさか牛田噴霧器に携わるとは思ってもいませんでした。しかし、4年前に3代目の父が倒れ、4代目の兄も脳への障害が出てしまいました。牛田を守るのは僕しかいないのかなと、そこで継ぐ決心を決めました。
朝岡:4年前までは全く別のお仕事をされていたのですか。
牛田:私自身、学生を卒業した後、ペットのトリマーの資格を取得していました。ご縁もありまして、外資系のペットフードの輸入の販売をしていました。さらに、そのノウハウから海外のインテリアの輸入販売も行っていました。モノを作り上げるのが好きでして、靴のメーカーの知り合いから、手伝ってくれと言われて、実際テレビの前で販売したこともありました。私自身軌道に乗ってきていた時に、このようなことになってしまいました。当時の取引先に事情を伝え、少しずつフェードアウトしていきました。
石田:180度違う世界へ行くのは、かなり葛藤があったんじゃないですか。
牛田:そうですね。仕事を新しく覚えることも多くありましたし、牛田の名前を汚してはいけないという想いもありました。新参者として馬鹿にされてはいけないと日々勉強でしたね。
朝岡:営業など、過去のお仕事が現在に役立っていることもありますか。
牛田:そうですね。お客様に商品の良さを伝えたいという気持ちは同じで、今の仕事と結びつく部分はありますね。
朝岡:この噴霧器を作って販売し、駆除するなどにおいては、どのような性格が向いているのですか。
牛田:探求心だと思います。限界を決めないことですね。同じ現場は存在しないので、追求することは大事ですね。
石田:使われる機材や、薬の選択も大事なのですよね。
牛田:そうですね。現在、環境に優しく人に害のない薬もありますが、だからと言ってむやみに撒いてもいけません。そこで、技、技術、処理法をしっかり身につけないとプロではないですよね。害虫・害獣がどこに生息し、どこまで入り込んでいるのかなどの知識も必要ですよね。
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