Story ~長寿企業の知恵~ 「 決断 」
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永島医科器械 株式会社
決断 ~ターニングポイント~

ナレーション

続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
会社の発展と共に訪れた過去の苦難、
それらを乗り越えるべく先代達が下した決断とは?

平尾:

私は入社前ですけれども、私が入社する5年位前に創業者が亡くなってるんですがね。
過去の話を聞くと、やっぱりカリスマ性のある創業者が亡くなった時は息子たちが3人しかいなかったので、その3人が相当な危機だったと思います。
今日は廉平さんの子供が男性が7人女性が1人の8人兄弟。昔は多かったんですね。8人の子供でその中の1番最初の永島一郎っていうのは、早く病気でやっぱり亡くなった。で、治郎っていうのが私の義理の父になりますが、2代目として継いでった。
3番目4番目5番目が、やっぱり病死と戦争で戦死でってことで、残ったのが2番目6番目7番目。この3兄弟でずっと戦後やってたんですね。で、まだその頃はまだ競合他社もまだ出てきなかったんで、うまく環境に支えられた、と言う感じだったんです。

で、その後私が入って、先程言ったような会社のはんびりしていて、悪く言えば会社批判になりますけど、のんびりとしていわゆるぬるま湯につかってるようなあまり競争心のない企業だったんですけれども。その中でやはり入る前だったんですけれども、1つ後で聞いてみると戦争の時、東京大空襲がありましたから、みんな危ないと言うことでみんな郡山に工場を移して疎開してたわけですね。
で、そこで乗り越えたわけなんですけれども、これはまた医療業界の特徴で戦中特需というのがあって、戦地へ行く人のために医療機械を持っていかないといけない。衛生兵とか看護婦は行きますよね戦地へ。それを持っていく医療器械が特需でぼんぼん出たんですね。
で、それを一生懸命作って供給したと言うことで、戦中特需と言うことで、ずいぶん他の業界の商売はだめな時に非常事態に医療業界は活躍したと。それはまた相当会社の利益は出たと思います。
それは太平洋戦争の時の話です。太平洋戦争が終わって、また本郷に戻ってきて、また再開したんですけれども。

で、その中でたくさんタイムポイントがありますけれども、1番身近なのはこないだ東北の大震災3.11の時ですね。
いろいろ私どもは下請けに出しているわけですけれども。メイン商品の「ユニット」って言う治療の機械があるんですけれども、そこに患者が座る治療椅子。それを専門に作っている業者さんが、専門の業者さんが気仙沼にありまして。しかも海岸沿いにあった工場ですから、それが全部流されました。跡形もなく。
まあ人は一人も亡くならなかったんですけれども、逃げられたようですけれども。それで、それが(工場が)1社しかなかったもんですから、椅子が供給できなければ大変だと。ユニットはまた別のところで作っているからいいんですけれども、ユニットが売れても椅子がなければいけませんので。で、それは困ったと言うことで相当再起における1つの転換期だった。
それをどう乗り越えようかということで、もう向こうは被災地ですから、まず生きることが先決ですから食料を送ったり、工場を建て直すために資金がいるということで、我々は資金活動、人も助けに行ったりして現地に行ったわけなんですね。
で、今度は二度とこういうことに遭わないように丘の山の上に、前よりも大きな倍位の大きさの工場を建設した。でたまたま政府が福島の援助資金を出していたので、災害のためのその資金を使い建て直して、一年以内に無事稼働したんですね。

その一年間と言うのは椅子は無いために祝儀で預かっている椅子とかやむをえなく、ある意味ではさっきの3社のうちの競合他社ではないんですけれども、似たような科から調達するのが早いと言うことでそれを流用してつないだと言う事ですね。その間に工場を立て直したと。
うちのノウハウをもっている下請けですから、すぐ同じものを作るためには、いろんなものがあるわけなんで。設計何かとかもあったわけなんで他の会社に頼んで、頼んでもできない。でいくつか当たったんです。「あと半年かかります」とか言う事ですから「そんな待てない」と言うことで似たような他の科の全然違う分野の似たような椅子を買って、ちょっとアレンジをしてとりあえず供給したということがありますね。


〜震災の苦境から生まれた絆〜
経済面でも、いわゆる食糧とか生活用品何もないですよね。それから人材も送り込んで、再稼働するために努力しました。
その時に内から出向した工場の二人の社員がそのままそっちに転職しちゃいました。その後。そのくらい工場に要員を貸したんですよね、「1年くらい出向して一緒に手伝って来い」と。そしたら向こうに気に入られた。もともと、向こうの東北の出身だったんで、そこの正社員になって活躍しています。
そういう関係があるもんですから、今は女社長になりましたけど非常に感謝されて、非常に丁寧に毎年あいさつに来られるってことでございますね、「感謝してます」ってことで。

だいたい1製品1社に100%出してるもんで、ですからまたこういう災害国であり、世界的な災害国地震国でありますから何が起こるかわからないっていうことなんで、やっぱり同じようなもの機種を変えてもいいから2か所に分ける。東北かたや九州とかってことで。こっちはだめでもこっちでっていういわゆるバックアップ的な要素で2つに分けるべきだと思いました。
同じものを作らせると競争になっちゃうので、A機種はこっちで、それに代わるB機種はこっちでというように分けて分散して生産して供給するという考えがこれからは必要だと思いますね。それがひとつの知恵になって社員も含めて全員が痛い思いをしてそれは痛感してますね。

ナレーション

続いて、6代目平尾泰朗のターニングポイント。

平尾:

なかなか特異な経歴でして、普通の文科系の大学を出て就職したわけなんですけれども、皆さんもご存知のように50年以上前の話ですから、まだコンピューター自体が入ってなくって、でわたしが就職した一部上場の化学会社が日本で4番目か5番目で初めてIBMのころに360(サンロクマル)っていう機械をいれて会社の近代化に向けていたとこだったんですね。で、私がそこに入って、理科系の大学の人もいたんですけれども、ただ理数系に強いってわけじゃなくて、プログラマーとかシステムエンジニアっていうのは色んな性格を総合的に兼ね備えてなければいけないということらしくって。

ちょうど昭和41年の就職でしたから、その時は就職難でほかの会社はほとんど採用ゼロ。その会社もゼロだったんですけれども、そこで取引のある各会社の役員さんとかの息子さんだけは内密に採るってことで、その時我々の同期で10名しかとってもらえなかった。
その中に私は入ってまして、IBMの約3時間くらい試験をやらされましたね。それで判定が出たら、その国立の理系の人でなくて私が一番システムエンジニアに向いているということがわかりまして、そのコンピューター導入して近代化するって言うことで社長から指名を受けて1年間会社に来なくていいから「国内留学」ということでIBMに行かされて。当時IBMではまだ情報処理の資格は国の国家資格ではなかったもんで各企業がIBM・日立・富士通はそれぞれ自分の社内の資格パスポート、許可証を作ってた時代だったんですね。今はそれは国の制度になりましたけど。

でIBMで10年くらいかかって課長になるためのいろんなプログラムがあるんですが、それを1年から1年半で全部取ってこいというもんで、とにかく勉強勉強でいろんなものをすべて取って、でアメリカのIBMから完了…修了書を送ってくるんですね。それをもって徹底的にまだ22,3歳の時にそれを頭に叩き込まれたっていうことで、1年半後に自分の会社に戻って、会社のコンピューター室を作ってどんどん改革していったんですね。
その時のシステムエンジニアのノウハウっていうのが非常にずーっと今振り返ってみても生涯勉強になったことは未だに役に立ってます。

全部で3社…4社くらい転職してるんですが、それをやっている間に何があったかっていうと、その中で特異なケースといいますか、もともと私は自由人なものですから、独立しようと思っていたんですね。でステムエンジニアをやっていたもんで、システムエンジニアを中心としたコンサルタント業IT関係のベンチャー企業を立ち上げようとしていたら、「経団連の友人から、ちょうど国会の秘書の話が自分のところにある先生から来ている。その(会社の立ち上げ)前に1年でいいから政界の仕事もしてみた方がいい」と言われるもんですから。「なんでか?」と言うと、「民間を散々やってきたんだから今度は行政官庁を見て民間両方学んでから、独立したら鬼に金棒だから」って言われて、じゃあ分りましたと言うことで、国会秘書をやることになりました。
1年で辞めるつもりが、まだまだと言うことで結局6年ぐらいやることになってしまった。あの世界もまた特殊な世界で、私はとても将来議員になるつもりなんて全くないですから。だから長くいる必要はないということで、そろそろこれで官民両方学んだんで独立しようと思ったら、今の長島医科の2代目の社長から「ぜひ来てくれ」と言うことで、入ることになったんですね。

毎日のように選挙区から僕のいるときは2人先生に就いたんですけれども、一人は島根県の先生、一人は栃木県の先生だった。とにかく国会に陳情にくる各役所、個人的な人たちで毎日50人へたすると100人来ますよね。それを勤務時間中に処理しなければいけない。
その中には変に先生の利権を利用しようとする、あるいは如何わしいビジネスを持ってくる人…いろんな話がある。それらを瞬時の間に、もう廊下で並んで待ってますからゆっくり聞いている場合じゃないですから、瞬間にどんどんどんどん面接して、瞬間にその人を見極めるというそれは養われましたね。瞬間に人をパッと見ると。その顔つき立ち振る舞いで何となくオーラっていうのはわかりますね。最終的にはやっぱり目ですね。目を見ると「この人は何を考えているのか」「どういう目的か」だいたい当たるようになりましたね。それは今でも役立っていますね。