向井建設 株式会社
決断 ~ターニングポイント~
向井:戦前は、手間請けを主体とした建設業を営んでおりましたが、私は戦後のことしか知りませんけど、戦後すぐにアメリカ軍からパワーシャベルという機械を導入して、一躍現場に機械力を導入して、それからダンプトラックをもってかなり手広く都内において建設残土搬出の仕事をやり始めた。これがまず戦後の大きなターニングポイントとなっているわけです。
いわゆる手間請けから機械土工も含めてね鳶・土工の一括請負ができる、そういう会社になり、その後も職業体制は充溢しながら会社を発展したということであります。
もう一つの大きな転機は、私が会社に入って経営の近代化に取り組み、特に専門工事業として、計画力に裏打ちされた施工管理、実施工ができる会社になろうということを目指して、一生懸命現場の経営力、現場力を高めてきたということであります。
それまでは施工計画と言うと元請けの仕事の範囲に入っておりまして私たちはその立てた計画に対して、いろいろと要求や注文をつけ、今までの固有技術を生かしてもらうといった取り組みをしてもらうように働きかけている。いわゆる受動的な形で施工管理しかできなかったということであります。それが能動的に自ら計画を立案し、それを実行にうつして会議があればそれを改善し、いわゆるPDCAのサイクルが回せることができるような、会社を目指して、今日も改革に向けていろいろな努力を続けていると思います。
いわゆる手間請けから機械土工も含めてね鳶・土工の一括請負ができる、そういう会社になり、その後も職業体制は充溢しながら会社を発展したということであります。
もう一つの大きな転機は、私が会社に入って経営の近代化に取り組み、特に専門工事業として、計画力に裏打ちされた施工管理、実施工ができる会社になろうということを目指して、一生懸命現場の経営力、現場力を高めてきたということであります。
それまでは施工計画と言うと元請けの仕事の範囲に入っておりまして私たちはその立てた計画に対して、いろいろと要求や注文をつけ、今までの固有技術を生かしてもらうといった取り組みをしてもらうように働きかけている。いわゆる受動的な形で施工管理しかできなかったということであります。それが能動的に自ら計画を立案し、それを実行にうつして会議があればそれを改善し、いわゆるPDCAのサイクルが回せることができるような、会社を目指して、今日も改革に向けていろいろな努力を続けていると思います。
ナレーション
続いて、3代目代表 向井 敏雄の、ターニングポイント。
向井:我家は、家父長制度が色濃く残った家で、やはり長男は次の後継者に据えるという考え方が、おやじの代も兄の代も脈々と受け継げられてきておりました。
私は次男坊ですので跡を継がなくていいということを子供の時から言われておりましたので他産業で働くことを考えておりました。ただ、兄が現場で急逝しまして、私が次期社長、後継者になれるかどうかが全く不確定の部分がありましたけど、とりあえず、会社に入って仕事を覚えて、跡を継ぐ心構えで当時の向井組に入社しろと言われまして、迷うことなく、これは天が決めた幸いと思って向井組に入って、それ以来色々な努力を重ねてまいりましたけれども、なんとか会社の経営をしてきたという状況であります。
先代が、育ててきた社員、また配下で実際職人を持っている親方連中みんな先代が育てた人なのです。私が後跡を継いで、先代には育ててもらった恩があるし義理もあるし、先代にこれからも尽くしていきたいという想いも思っていますけど、亡くなって2代目3代目・・・3代目で、協力する意味合いを持たないということを考えている人がいるのはわかっていたのです。
「これはいけないな」と思いまして、また技術技能の伝承を図らないといけないということもあって、昭和54年から高卒大卒の新規採用を始めて、将来を担う職人鳶、職人の社員、鳶やオペレーターとかいろんな職種の社員化を図っていこうということで、当時積極的に採用しながら職人を育てることをしてまいりました。
その人たちがいずれ高齢化して人が集められなくなって当社を辞めていってもあまり大きな影響は出ないように、当時から先を常に見ながら人を育ていくことをやってきたつもりであります。そういう意味で人の協力がなければ何もできないし、しかし人の心は変わりますし、やり方が変わっていくものですから協力してくれない人も中にはいる。そういった人の代わりになる人をちゃんと育てておかないと大変なことになるなというのは実感しました。
私は次男坊ですので跡を継がなくていいということを子供の時から言われておりましたので他産業で働くことを考えておりました。ただ、兄が現場で急逝しまして、私が次期社長、後継者になれるかどうかが全く不確定の部分がありましたけど、とりあえず、会社に入って仕事を覚えて、跡を継ぐ心構えで当時の向井組に入社しろと言われまして、迷うことなく、これは天が決めた幸いと思って向井組に入って、それ以来色々な努力を重ねてまいりましたけれども、なんとか会社の経営をしてきたという状況であります。
先代が、育ててきた社員、また配下で実際職人を持っている親方連中みんな先代が育てた人なのです。私が後跡を継いで、先代には育ててもらった恩があるし義理もあるし、先代にこれからも尽くしていきたいという想いも思っていますけど、亡くなって2代目3代目・・・3代目で、協力する意味合いを持たないということを考えている人がいるのはわかっていたのです。
「これはいけないな」と思いまして、また技術技能の伝承を図らないといけないということもあって、昭和54年から高卒大卒の新規採用を始めて、将来を担う職人鳶、職人の社員、鳶やオペレーターとかいろんな職種の社員化を図っていこうということで、当時積極的に採用しながら職人を育てることをしてまいりました。
その人たちがいずれ高齢化して人が集められなくなって当社を辞めていってもあまり大きな影響は出ないように、当時から先を常に見ながら人を育ていくことをやってきたつもりであります。そういう意味で人の協力がなければ何もできないし、しかし人の心は変わりますし、やり方が変わっていくものですから協力してくれない人も中にはいる。そういった人の代わりになる人をちゃんと育てておかないと大変なことになるなというのは実感しました。
ナレーション
続いては、4代目代表 遠藤 和彦の、ターニングポイント。
遠藤:東北支店の支店長に就任しました。東北支店というのは当時から70名くらいの社員がいました。それこそ作業員の方を入れると500名600名の従業員もいて、その人たちを束ねていかなくてはいけない、そういう想いの中で現地に乗り込みました。
そして乗り込んで「支店長です」とあいさつをしながらいろんな得意先にあいさつ回りをして実際の施工半の方々とお話をしていく中で、少しずつ過去の負の遺産が湧き出てきました。そんなこともあるのかと思いながらも先輩が残した負の遺産でしたので、それは自分でも受け入れて対応しました。
それがまた一つ、また一つと出てくるわけです。最後にとんでもない負の遺産が現れた時にですねその報告を聞いている矢先に自分で息が上がってきて呼吸が苦しくなってきてしまって、一度部下を部屋からだして横になって、そして「これはだめだな」と思って病院に行きました。そんな時がありました。
それだけストレスが自分の体を痛めて、そこに耐えられない自分がいたんですね。まだ、物事が起きて問題が起きてくることに対して、それに対する胆力がまだ自分には備わってなかったと。それで、逐一起きていた問題を当時、向井社長に相談報告をもちろんしていくわけですが、いくつも問題が重なってしまって、「じゃあ仙台に行くよ」と「話を聞かせろ」ということで仙台に(向井会長が)来ていただいた。
それで仙台駅の新幹線の改札に迎えに行ったのです。迎えに行った矢先に、そのいろんな問題が頭をめぐってですね迎えに行ったこと自体を忘れてしまってぼーっとしていたら、会長がもう目の前に改札から出てきて私の肩をたたいて「どうした?」と声をかけるもんですから「ほー!」と思って会長の顔を見上げて「悩んでましたと」。そうすると「そうか」と言ってニコっと笑って「さあ行くか!」と言ってまた歩き出すんですね。
その格好良さと、その胆力の強さとその時に”経営者とはこうあらねばならない“とその時本当に私自身の大きなターニングポイントだったと思います。
向井:本当に苦労を掛けていて、ありありと思い悩んでいる状況は察することはできたので、「いろいろ考えても、なるようにしかならないよ」と「最大限の努力をしていれば必ず道は開けるんだ」というそういう想いをいつも持っているわけですよ。「だから心配するな」と「一緒にやろう」ということで気持ちを込めて頑張ろうと肩をたたいて「一緒に解決しよう」という意味を含めてね東北に行った想いがありますね。
~4代目遠藤和彦誕生の理由~
向井:まず、人に対しても何事に対しても公平公正な考え方を持った人です。それから、絶対に不正を働くような人柄じゃない。それからさらに、包容力をもって優しく暖かく人を育てていくそういう考え方を持っている。それから、気骨がありますよね。
正しいことを上から言われてそれを曲げるようなことを絶対にしない人です。気骨をもって信念を持った人。さらに言うと、勉強家です。勉強をいろいろとしていて、これからも相当な期待ができるということと、もう一つは問題解決能力がある。先ほど問題を抱えてって話がありましたが、一つ一つ問題をちゃんと解決していく能力を持ち合わせている。
まさに、経営者としての先見性、洞察力。それから問題解決能力とか、人に対する包容力とかあらゆる面をもち合わせた人ですから、私は当時から社員の中でプロパーの中で最も経営者のふさわしい人間を、私の後を継がせようと思っていたんで、遠藤社長が適任と思って私はすごくいい後継者に恵まれたと思って、幸せな気持ちで今もおります。
遠藤:ありがとうございます。
そして乗り込んで「支店長です」とあいさつをしながらいろんな得意先にあいさつ回りをして実際の施工半の方々とお話をしていく中で、少しずつ過去の負の遺産が湧き出てきました。そんなこともあるのかと思いながらも先輩が残した負の遺産でしたので、それは自分でも受け入れて対応しました。
それがまた一つ、また一つと出てくるわけです。最後にとんでもない負の遺産が現れた時にですねその報告を聞いている矢先に自分で息が上がってきて呼吸が苦しくなってきてしまって、一度部下を部屋からだして横になって、そして「これはだめだな」と思って病院に行きました。そんな時がありました。
それだけストレスが自分の体を痛めて、そこに耐えられない自分がいたんですね。まだ、物事が起きて問題が起きてくることに対して、それに対する胆力がまだ自分には備わってなかったと。それで、逐一起きていた問題を当時、向井社長に相談報告をもちろんしていくわけですが、いくつも問題が重なってしまって、「じゃあ仙台に行くよ」と「話を聞かせろ」ということで仙台に(向井会長が)来ていただいた。
それで仙台駅の新幹線の改札に迎えに行ったのです。迎えに行った矢先に、そのいろんな問題が頭をめぐってですね迎えに行ったこと自体を忘れてしまってぼーっとしていたら、会長がもう目の前に改札から出てきて私の肩をたたいて「どうした?」と声をかけるもんですから「ほー!」と思って会長の顔を見上げて「悩んでましたと」。そうすると「そうか」と言ってニコっと笑って「さあ行くか!」と言ってまた歩き出すんですね。
その格好良さと、その胆力の強さとその時に”経営者とはこうあらねばならない“とその時本当に私自身の大きなターニングポイントだったと思います。
向井:本当に苦労を掛けていて、ありありと思い悩んでいる状況は察することはできたので、「いろいろ考えても、なるようにしかならないよ」と「最大限の努力をしていれば必ず道は開けるんだ」というそういう想いをいつも持っているわけですよ。「だから心配するな」と「一緒にやろう」ということで気持ちを込めて頑張ろうと肩をたたいて「一緒に解決しよう」という意味を含めてね東北に行った想いがありますね。
~4代目遠藤和彦誕生の理由~
向井:まず、人に対しても何事に対しても公平公正な考え方を持った人です。それから、絶対に不正を働くような人柄じゃない。それからさらに、包容力をもって優しく暖かく人を育てていくそういう考え方を持っている。それから、気骨がありますよね。
正しいことを上から言われてそれを曲げるようなことを絶対にしない人です。気骨をもって信念を持った人。さらに言うと、勉強家です。勉強をいろいろとしていて、これからも相当な期待ができるということと、もう一つは問題解決能力がある。先ほど問題を抱えてって話がありましたが、一つ一つ問題をちゃんと解決していく能力を持ち合わせている。
まさに、経営者としての先見性、洞察力。それから問題解決能力とか、人に対する包容力とかあらゆる面をもち合わせた人ですから、私は当時から社員の中でプロパーの中で最も経営者のふさわしい人間を、私の後を継がせようと思っていたんで、遠藤社長が適任と思って私はすごくいい後継者に恵まれたと思って、幸せな気持ちで今もおります。
遠藤:ありがとうございます。
続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
会社の発展と共に訪れた過去の苦難
それらを乗り越えるべく先代達が下した決断に迫る