合資会社 一條旅舘
決断 ~ターニングポイント~
私がまだ経営者になりたてのときですね、2003年に世代交代と言う形に成るわけですけれども、2006年の年末、もう12月の年末の迫った12月の26,27の日にですね、3日間降り続いた雨、冬だったらば雪だったはずなのですが本当に大雨が三日三晩ずーっと大雨が降り続けました。
その時に、私共は温泉街の一番上、坂の上の奥まったところにあるわけですが、一本の沢が流れています。その沢が大反乱を起こして土石流が発生すると。朝起きてみたら、目の前が、目の前の道路、そして坂のところが濁流になっていてロビーにはもちろん床上浸水。坂の途中の所にたっている本館のところにも土砂が入り込むというのがありました。
27,28(日)という年末あたりはもう会社(補修業者等)も終わっているはずです。でも復旧させなくてはいけない。
まずは止まっているお客さまを無事チェックアウトして頂く事を考え、そしてその日に泊まるうお客さまに関しては、もうキャンセルをお願いし、もしくは予定の変更をお願いし、っていうこともやり。それプラス現場復旧もしなくてはいけない。土砂も書き出さないといけない、本当にそんな事もありましたですね。
あの時は呆然としましたし、漠然としましたが、ただし、それまでのお付き合いもあったんでしょう。「新しい経営者をなんとかして助けてやろう」っていう消防団であるとか、それからそれまでお付き合いをしてきたクリーニング屋さん。そこは清掃業務もやってますから消毒をやってくれました。
それから浄化槽の中には砂が溜まってしまい、使いものにならなくなった。それをなんとかしないと、書き出さないといけない。それもわざわざ山形から車を運んできてくれて、そして土砂をかき出してくれた。そして浄化槽の中にはモーターもはいっています。そのモーターもいかれてしまいました。そのモーターもなんとか手配してくれて。
とにかくなんとか2日間は営業不能となりましたけれども、年末年始営業ができるというところまでこぎつけた。そういう“苦い経験と言うよりも乗り越えてきた”っていう1個1個の一つではありますけれど、そういうことが私共を強くしてくれたのかなと思います。成長させてくれたのかもしれません。
~震災時に下した大きな決断~
3月11日の東日本大震災、そこから我々共は42日間の休業をするという選択を致しました。世の中は、やはり同じ県内ですので、1泊3食で7千円で工事の人たち、復旧作業をしてくれる人たちを受け入れましょう、ということで他の旅館はもう工事業者の方でいっぱいになってます。でも私共は、ガラガラ。休業ですから。一切そういう(復旧作業)のを受け入れていない。
色んな事も言われました。色んな陰口も叩かれました。「皆で助け合わなきゃいけない時にお前はひどい」ということも、陰口を叩かれました。
しかし、なぜ私共が休業という選択をとったのかといいますと、湯主一條というのは市場、お客様から見てどういうものを求めているところなのか?やはり、心地よい空間できれいなところで、気の利いたスタッフがおいしい食事を、そういうものを楽しみに来てくださいます。
それを1泊3食7千円で入れることによってそれは全部崩壊してしまう。だとした時に私共は、「休業」。あえて、泊めないんじゃないんです。あえて「休む」という選択をし、そして色んな所に方々に連絡をし、その時にはJR東日本というのがキーワードです。
新幹線が動き出したらまた、世の中変わりだす。高速道路が動いているのはわかりました。やっぱり輸送能力のある、お客さま、旅行する人たちを乗せる、東北新幹線、これがいつ動くのか、ということの情報をほうぼうから集め。そのために復旧工事をしたいるわけですから。
であれば復旧工事が終われば、また観光に来てくれる人がいる。お金を使ってくれる人が首都圏からわんさか来るはずだという見立て、仮説を立てて、じゃあ東北新幹線が開業するまでの間に、設備投資をし、今までできなかった駐車場の整備屋根の整備、もちろん館内の大掃除、そういったものをやりながらお客様を迎える準備、もちろん、休業していますから私たちは働いている訳ではないので。接客レベルもこのままでは落ちます。
ですので接客の作法をもう一度この機会にやり直したり。それからどういう順番で接客をするんだっけ、お客さまをお迎えするんだっけ?ということもやりながら。料理の方も、1ヶ月以上もやってなかったら腕も鈍ります。料理長が私たち相手に真剣に勝負の料理を作ってくれるようになって。一つ一つ積み上げていって。
そして、42日目を迎えてちょうどゴールデンウィークのちょうど4月の終わりくらいからスタートしますけどその時に、稼働率96%と。一部屋だけ埋まらなかったんですが、それでスタートが切ることができるという奇跡が起きました。
それは震災が起きて色んな会社がですね、人を解雇するだとかもしくは営業停止する、もしくは廃業するということになってしまっているのを見て、やはりそれだったらば無理だと言う所もあり、私共が金融機関にお願いをし、それなりの資金調達をし、そういった意味では余力を持った上で全員解雇しない、一人も解雇しないっていう方針を打ち出したおかげでスタッフは安心できますね。
ここで今はやっていないけど、そのまま働くことが出来る。本当に世の中がまたそういう状況になったらまたここで働けるっていう安心感が。じゃあ次のステップ、ということを考えられる余裕ができたんだと思います。
~一條一平のターニングポイント~
私の最大のターニングポイントというのは“世代交代”。それは父の死、急死という言い方のほうが正しいかと思います。
それは2003年の出来事であるわけですが、本来一緒に仕事をしたかった父が自殺という選択を取ります。実際に私が本日只今よりお前が経営者というように成るので、通帳見たり、それから支払状況を見たりするたびに、まるっきりお金がない。父は自分にかけている生命保険これで会社を立て直してほしいという遺書を私宛に書いております。それも今持ってますけど、それが私の一番のターニングポイントですね。
なんとかしなきゃということ、それから眼の前に置かれている宿題がいっぱいあるわけですね。それを一つ一つこなさなきゃいけないということで日々追われていたので、泣いている暇がなかったっていうのが振り返るとそう思います。
2003年にそういった形で世代交代が急に始まりまして、自分が社長となる。その時に自動的に妻である者が女将に成る。父はもういませんから、母も現場を去って違うところに行く。要は、本当に私と妻しかいない状態になったわけですね。
その時に実は鎌先温泉に返ってきた1999年からその父が亡くなるまでの間、妻が子育てをしながら、自分だったらこういうふうにしたら面白いのに、ここにあったらお客さん喜んでくれるのになって言うことを2冊のノートにまとめてくれていたんですね。その中のことを一つ一つ実行に移していったということになります。
その一つが2004年に湯治場だった木造本館のところの一部を個室料亭にする。もちろん一部はまだ湯治っていう湯治場っていうのは残していたんですが、それをまず最初にやった所大変お客さまからの評判が良かったというところはあります。
2008年の全館総リニューアルっていうのは基本的にはもう女将がああしたい、こうしたいということを、もっともっと増やしていったということになります。
そもそも私は外交というか、外で金融機関であるとかもちろんいろんな商売やっている人たちと外向きに色んなことをやっていました。(旅館の)中を収めているのは女将なんですよね。スタッフのことだとか、お客さまのことだとか常日頃現場を見ているわけですよね。
現場を見ている人間が、あれやるたいこれやりたい、こうやったらお客さまが喜ぶ、こうやったらスタッフは動きやすくなるって言っているのを、もちろん私はダメというときもあります。そうすると、大喧嘩に成るんです。当たり前です。「あなたは現場をわかっていない」ということで。そしたら引き下がるしか無いですよね。
そして女将がやりたいってことが図面に上がってくる、絵になってくる、パーツになってくる。そうすると、「あーやっぱりやってよかったんだな」と結局なりますので、これはやっぱり役割分担です。私は余分なことに口を突っ込まない。もちろん予算がありますので、その予算の中で、ここは予算オーバーだからなにか知恵を出さないとという言い方はしますけど、やることに対して「NO!」ということを言ったら行けないんだなということを途中から学んで、もう好きなようにといいますかできるだけ具現化出来るように皆で努力をした。
~代表就任までの経緯~
私がホテル学校に行った時にお世話になったホテルにまずは就職することになります。そして程なくして、妻と結婚を考えることになりまして、その報告をしに、実家に戻ります。
ところが、母は大反対です。もちろん父は後押しはしてくれるものの、父にそんな権限といいますか、パワーはないんですね。
それから執拗な嫌がらせとか、色んなことをされまして、「もう私は旅館の後は取らない」「もう二度と返ってこない」ということで東京に戻ってきまして、ホテル インターコンチネンタル 東京ベイに入社をすることになります。
そして配属されたフロントで少しずつ実績を積み、そして念願であるコンシェルジュという籍に置くことができ、今現在も日本コンシェルジュ協会のメンバーであるんですけれども。
そんなこんなしているときにですね、東京でホテルマンとして「さあ!これからだがんばっていくぞ」という矢先、本当に人生って面白いもんですね。犬猿の仲であった母親と東京の地でですよ、バッタリ会うことになるんです。ありえないと思いましたがこれもやはりご先祖様に呼ばれてしまったのかと思いますが、今となってはね。
そしてそこで母に言われたのは「助けてほしい」という一言でした。どうしてかと言うと、これから露天風呂のビルを新しく建てるんだが、金融機関が破綻してしまった。そして、それに付随して融資がまあすぐでなかったですから、引受が決まるまではでない。そしたら、工事を請け負っていた工務店まで倒産してしまった。「にっちもさっちもいかない、助けてほしい」その言葉にやはり私も心を動かされ、戻ってしまいました。
「戻ってしまいました」という言い方になるのは、戻りますが、戻って私が連帯保証人に判子をおします。もちろん工事は進みます。
ところが、もともと結婚に反対だった母は、私が妻と一緒に戻ることによって「おもしろくない」と、判子を押してくれればそれでよかったんですよね。
で、結局“嫁姑問題”が勃発します。
1999年に戻り、1年後の2000年にまた東京にでてくる形になります。そして、1年間なんとか東京で生活をしていたんですが、色々ありまして、2001年にまた旅館に戻ると言うことになります。
そして間もなく、2001年に戻ってそれから2年後の2003年5月に父が亡くなる。自殺をするということになりまして、そこで世代交代。そして現在に至るということになります。
母の・・・私の母のあのパワーに勝てる人間(妻)を無意識のうちに選んでいたのかなぁという風に今となっては思っております(笑)普通の人でしたら多分音を上げるでしょうね。
でも、やはり妻は女将として上に立てる人間ですので、そこのあたりは根性の入り方っていったらおかしいかもしれませんけどね。信頼を置くべきパートナーであると私は思っておりますけどね。
~主になる者の宿命~
旅館の中で遊んでますので、仲居さんであるとかとにかく旅館のスタッフ、お客様、それから鎌先温泉街の中の人達、皆が私のことを名前で呼ばないんですよ。「若旦那さん」っていうんですね。
「若旦那」ってうちの父を見ると「旦那様」って言うわけですね。で、祖父を見ると「大旦那さん」って言われるわけですね。ってことは若旦那イコール次の経営者ってことに子どもながらに自動的に思います。もちろん父からは何回か、「お前がここを引っ張ていくんだ」この「引っ張っていく」っていう言い方じゃないですか。もう無意識のうちに周りはそうやって「あなたは次の後継者です。私たちは認めています」というのを周りが仕組んでくる。
これは今思えばすごい哲学だなと思いますね。
続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
会社の発展と共に訪れた過去の苦難、
それらを乗り越えるべく先代達が下した決断に迫る