株式会社 平凡社
決断 ~ターニングポイント~
出版は、山あり谷ありでいっつも危機なんですよ。そういう意味じゃ、どれを話したらいいかなって思うくらい。
100年の歴史の中で、潤ったのって25年くらいしかないんですね。あとはいつも本を作る為に金策に走ってる。ってことはあるんですけど、その中でも特に大きなものは、一番最初は、弥三郎がつまり百科事典を作ったってとこなんですけど、1931年です。ちょうどその頃は平凡社はもう美術全集とか大衆文学全集とかね、結構当たった企画があって、で、ちょっと弥三郎も調子が良いなと思って、雑誌「平凡」っていう、平凡ってありましたね(笑)雑誌「平凡」っていうのを作るんですよ。
それはもう1900何年ぐらい?
下中:5号で終わった雑誌ですからね、1931年(笑)
朝岡:あぁ、もう戦前のね、昭和の始めの方ですね。
下中:それは美術みたいな雑誌だったんですけども、雑誌を作るのが、その頃講談社が「KING」とか出したりしてて、やっぱり経営者としてはそういうことがやりたかったんでしょうね。
で、雑誌「平凡」っていうのを作ったんですけども、ところがまぁ、宣伝も色々工夫して、平凡をレコード作って、マーク作ったり、平凡の歌なんか作って、それをキャバレーで流すとか色んな工夫をして、平凡宣伝隊みたいな作って、
キャラバン隊みたいな作った!キャラバン隊みないな!
下中:そう!それでこんな看板、写真を見ると、平凡って書いてあるのを背負ってみんな自転車に乗ってるっていうそういう全国行脚とか。それから、それがいつ帰ってくるかって懸賞を掛けたりとかそんなことをやったんですよ。
だけど、やっぱり、雑誌としてはスキルが足りなかったんでしょうね。5号で…
5号で終わっちゃった
下中:5号で終わって、それで、そのさっきの宣伝隊は、もうどっかうんと遠くまで自転車で行ったところで、母屋が潰れちゃったってすごすご帰ってきたらしいんですけど。
まぁ、そうやって「平凡」で、経済危機、経営危機ですね。不当たりってやつですね。不当たりを出しそうになって、それで、どうしたかっていうところで、そこで弥三郎は、つまり自分が悲願だった百科辞典を、債権者集会ってやるんですね、ああいう不当たりなんかが出ると。その会議の席上で「皆、誠に申し訳ない。皆さんに迷惑をかけた。しかし、私には素晴らしいアイディアがある。絶対に当たる企画である。それは百科事典を作ることだ!」って言って、堂々と話したんですよ。最初は、債権者会議の皆さんは「えぇー、あんな潰れかかってんのに百科なんか無理だろう」って思ったところが、でも、引き込まれて、あまりに、やっぱりそれは悲願でしたから、窯の火で読んだのがね。だから、そそこで百科事典があの人ちょっと結構真剣かも本気かもってところで、やらしてみようじゃないかってところで、6月の債権者集会があって、もうその暮れには、100刊の1刊目を出したんです。
そのためには、そのつまり印刷も写真植字っていう新しい方式とかテクノロジーも駆使してやったんですね。色んなことを工夫して本当に出したんです。で、それは売れたんです。
ですから、その転機ってことで言えば、平凡の転機。いずれ百科をやることになったとしても、その時にやれたってことは大きくて、そういうことが最初の危機ですね。
ピンチの時にあえて
下中:そうです、そうです!
朝岡:大百科辞典をたちあげて
下中:ピンチをチャンスっていうのは、もう平凡社の全員心がけていることで。
朝岡:すごいね!そりゃ、創業者がおやりになってるからね。それはまた、伝説の
下中:その後また厳しくなったり、山あり谷ありなんですよ。
続いては6代目下中美都のターニングポイント。
えっと私はまだ社長になってなかったんですけども、編集部長でしたか、2000年の時に、もう残念ながら、さっき言って頂いた「月刊太陽」これがみんな良い雑誌だって言ってくださるんですけども、やっぱりこう、それほどは売れないんですね。そこそこは売れたんですけど。
で、それはずっと言われてたんですけども、「太陽は売れないじゃないか」と。それはその、2代目の社長の下中邦彦が、これも悲願でやったんですね、「太陽」。だけどもう、ほんとににっちもさっちもいかなくなって、で、私の前の社長の時代ですけど、私は編集の責任者でしたから、もうこの際「太陽」を休刊するしかないっていうことになった時、これはやっぱりとても、とてもショックでした。
何故かっていうと、「太陽」って雑誌は、平凡社の出版物の柱を全部カバーしてるんですね。一つには、世界と日本の旅人の視点。二つ目には、伝統文化のビジュアル化。三つ目には、アートをお家で楽しむ。四つ目には、ポピュラーサイエンス。科学を分かりやすくする。で、五つ目は生活文化。これを、五つの柱に作ったのが「太陽」で、1963年で、残念ながら、2000年で休刊しました。
で、やっぱり辞めるとなるとスタッフも出て行ってしまうし、まぁそういうのはやっぱりね、悲しいことです。まぁ、ただ「月刊太陽」が休刊になっても、この「別冊太陽」ムックの「太陽」がありましたから、こちらをうんと増やして、つまり、月刊誌は休刊になったけど、ワンテーマで、これは雑誌。ムックですから遺るんですね。書籍みたいに遺りますから、だから、こちらは厚くして、「太陽」という柱は守りました。
これは、でも、やっぱり辛かったですよ。
ねぇまぁ、やはり平凡社の看板のね、雑誌でしたからね。だからこれを…でも、名前は別冊に遺してね、その辺がやっぱり経営者としてのやらなきゃいけない、辛くてもやらなきゃいけない仕事だったというね。
下中:でも、こっち(「別冊太陽」)は売れるんですよ。
何故かっていうと、一つのテーマを、そのテーマを知りたい人はそれを買うわけです。でも、雑誌となってると色々入ってるから。まぁ、特集主義なんですよ「太陽」って、だけど色々入ってるから誰もが買うわけじゃないんです。だから、一つのテーマに特化する方がよっぽど良いわけです。売れるわけです。はい。
お伺いしたんですけど、社長はご病気もされたと…?
下中:はい。これは会社の経営とはあんまり関係がないんですけども、ちょうど10年前に会社の検診で引っかかって入院することになったんですね。で、とても健康だったからそういう体験もなかったんですけども。その時に、検診で引っかかったその帰りに、さっきのあれですよ、「逆境に合うと高い目標を立てる」ということにしているんです、私は。
だから帰りに、前々から、時間さえあればやりたいと思っていた、幸田文って、幸田露伴って言うんでしょ。幸田露伴の娘の幸田文さんって言って、しつけとか素晴らしい文章を書いてる「幸田文全集」をゲットして、で、それを、それで撰集を編むんだ!ということを。入院するときにそれを全集を持ちこんで、読んで、っていうことをしました。つまり、やっぱり病気っていうのは、あんまり健康だから怖かったんですけども、だけど、「幸田文」を編むんだってことに気持ちをそっちに持っていくことによって、結果的に、私は病気は克服しました。全く健康になりましたし、だから、病気に負けないっていう。で、編集って寝ても覚めてもその話を、そのテーマを考えてるもんです。本当に夢枕に著者が立つ程、夢中になる仕事で、私は、その幸田文の撰集を作ったことで救われました。
まぁちょっとこの話は、ただそれは売れたのよ、13刷りかな。
13刷り!
石田:すごいですね!
下中:で、6冊にしたんですけど「幸田文しつけ帖」っていう本は、やっぱり売れました。で、しつけって…あ、石田さんそういうことやって…マナーとかお詳しいですよね。
石田:はい、勉強させて頂いております。
下中:つまり、今しつけがもう…何ていうか、しつけっていうよりも、好きにさせるって感じですよね。
朝岡:放任しちゃう。しっぱなしが多いから。
下中:ですけど、幸田文さんの言葉は、実にあたたかく厳しく、しつけがどのようにお父さんから行われたかってことが書いてあって、それは今の世の中に欠けていることだから、是非今の人たちに読んでもらいたい。
これ、絶対今の世の中に役に立つはずだっていうその信念で編集しました。
もうだから、おじいちゃまがピンチの時に、会社がピンチの時に大百科事典を打ち上げたのと同じように
下中:いやいや、全然、小粒ですから(笑)
朝岡:あの下中さんもやっぱりあれです、ちょっとまぁご病気の時にね、また新たな志をバーンとぶち立てて、それを頑張ってやったら、健康にもなったし本も売れたっていう。
下中:そう言って頂くと、なんかお恥ずかしい感じがしますけど(笑)
朝岡:いやいやいや。
石田:ほんとにその前向きなそのパワーに、もうほんとに大尊敬です。もうほんとに憧れます。
朝岡:斯く生きるんだ!みたいな感じですもんね。
下中:いやいや、もう逆境に課題を作る。これです。
朝岡:良い言葉だ。
石田:ねぇ!逆境に課題を作る!
朝岡:逆境にめげちゃだめなんだ、逆境に課題を作る!
下中:はい、そうです。目標を作れば良いんです。
続いてのテーマは決断、ターニングポイント。
過去に苦難それを乗り越えるべく先代たちが下した決断とは。そこに隠された想いに迫る。