社会福祉法人 至誠学舎立川
決断 ~ターニングポイント~
決断・ターニングポイントということで、まずは、至誠学舎立川さんにとっての転機・ターニングポイントを伺えますか?
橋本:非常に大きなですねターニングポイントがありました。それは先程もちょっと申しあげましたけれども、戦争って大きな日本の歴史の中で健在してありまして、それが終わったあと、実は私たちの法人にとっても大変大きな決断をしなければいけない時期があって、私は昭和20年生まれなんで、その時は生まれたところなんですけれどもね。創設者が、稲永久一郎が、実は昭和21年4月に急逝してしまうんです。その時まだ63歳。仕事を始めてまぁ30年でしょうかね。非常に強いリーダーシップで製菓の仕事もしてたし、そして社会事業としての少年保護事業もしてた。まぁリーダーが急にいなくなってしまったんですね。
で、戦争が終わって…で、それだけではなくてですね、戦後制度が変わりまして、そういう少年保護事業をですね、民間にはさせないという実は政策がうちだされるんです。これは、GHQの支持だったんですけども。だから、そういう創設者が亡くなってしまう。背景としては法律ができなくなってしまう。ということがあってですね、多分、今思っても、その頃の、まぁ要するに私の上の代、2代目の代ですけれども、どうしたらいいかほんとに混乱だったと思うんですね。
で、その時に、祖母が、まぁ祖母が2代目の理事長になるんですけども、祖母は非常にもう家庭的なことで家の中をやっていたような方だったんですけども、それと娘が5人居たんですね。男いないで娘ばっかりだったんですよ(笑)それで、だから娘は連れ合いにも言いますけども、どうしていくかってところで非常な議論があったようなんです。で、もう解散してもいい!っていうようなね!
そうでしょうね。
橋本:ことだったんですよね。財団法人だったんですけども。しかし、みんなの総意で創設者の心を受け継いでいくと。ただし、その製菓事業っていうか、それはもう…
朝岡:お菓子の方は?
橋本:そう、出来ないから、社会事業を中心にしていくっていう判断をしたわけなんですね。
で、戦後制度がずっとなっていくんですけども、昭和24年頃かな…児童福祉、保育の仕事、それから児童養護の仕事、それから高齢者は、その頃は老人福祉法ってなくて生活保護法、戦後できた法律ですけれども、貧困のお年寄りたち、まぁお年寄りも戦争でお子さんを亡くしたり、家を焼かれた人たちがたくさんいらっしゃいましたから。そういう仕事をしていこうと。それぞれ娘たちが分担をしてですね、強力なリーダーが居なくなっちゃったから、そういうことはなかなかできないけども、分担して新しい社会事業・社会福祉をしていきましょうってことになったんですね。
で、それだから100年以上…105年の歴史がありますけども、実は私どものターニングポイントを通過して、今のスタートは、再スタートはやっぱり戦後。まぁ事業始まったのは昭和24年ですけども新しく。戦後の混乱期があってですけどね。その頃、ちょっと大きい建物があったので、立川市が中学校の校舎に借りたいっていうことがあって、そんなこともお貸しもしたりして、なかなかそのすぐに新しい業務に進むことできなかったんですけども、でも、まぁそういうことも整えながらですね、スタートをきっていって、戦後の混乱期を乗り切っていった。だからそれ2代目、リーダーになった人もいますけども、乗り切っていったていうね。そこのところが、ひとつ失敗っていうか違う考え方になると、もう今なかったと思うんですね。
そうでしょうね!
橋本:それは非常に大きいことだったと思ってますね。
朝岡:うですね!ただでさえ、戦争が終わって大混乱の世の中の中で、初代がお亡くなりになって、で、その奥様ですかね、おばあさまが継いで、で、それで菓子の方は整理して、まぁほんとになかなか大変な時代だと思いますけども…。
でも、こういうそのお仕事というのは、一般的にものをつくったり、或いは食べ物屋さんみたいに食べ物を作るお店があったり、で、そこで育つとね、「お前は何代目だよ!」なんてちっちゃい事から言われたりするでしょ!でも、橋本さんはなかなかそういうの難しいお仕事だし、橋本さんはだいたいどうしてこの…(笑)
笑
朝岡:今理事長になってるっていうか、
橋本:そうですね(笑)
朝岡:単に一族だから?
橋本:いやいやいや、そんなことは全然ないんですね。
朝岡:どういうきっかけだったんですか?
橋本:うーん。まぁそんなことで、親戚がたくさんいるわけですよ。叔父叔母もいて、従兄弟もたくさんいますしね。で、私個人のことで言えば、私の両親はそのうちの高齢福祉事業をするということで、昭和26年からスタートしてるんですけども。私はもうほんとに我が儘勝手に育ちましてですね、高校時代から山登りをやってましてですね。
大学もどうするかってあんまり、あんまりは考えてなかったんですけども、たまたま社会福祉学科にまぁなんとなく入りましてですね、入ったんだけれども、今大学ってたくさん社会福祉学部ってあるんですけど、その頃はいくつかしかなかったんですけどね。まぁ、両親から言われたわけでもなくて、安直な判断だったんじゃないかと私思うんですけどもね。でも、入学してから、やっぱし山登りをしてまして、体育会の山岳部に。
山岳男!
橋本:なかなか厳しい山登りもしてましてですね、そうこうしてるうちに、大学4年の時に学園紛争の時代だったんですよ。
朝岡:あぁー
橋本:うん。1969年に卒業なんですけどね。
朝岡:ちょうどあの東大なんかも紛争があったりね!
橋本:そうそうそうそう。私の大学も封鎖になってたりね。チャペルが封鎖になってたりなんかしてましたよ!で、もう…いやになっちゃってね!で、たまたまゼミの先生に紹介して頂いて、田舎の方のまぁ群馬の山の中の高齢者の病院のソーシャルワーカーで仕事を始めたんですね。
朝岡:ほぉー!
橋本:だから、それはそれで、その時あんまり考えもなかったんですけど、まぁいいかなというような感じで。両親から強要されたわけでもなんでもないんですけどね。たまたま行って楽しく仕事してたんです。リハビリテーションの病院でソーシャルワーカーとして楽しく仕事してたんです。
で、たまたままぁちょっとご紹介してくださる方があって、僕のフィンランドの大学に行かないかっていう話でですね、私ももう単純にですね、「はいはい!行きたい!」
その頃簡単に海外に出られなかったんですよ。それこそ360年の時代で。
で、まぁすぐ飛び出しちゃいましてですね。
フィンランド行った?
橋本:フィンランド行っちゃったんですね(笑)
朝岡:フィンランドで何やってたんですか、それで。
橋本:基本的には学生してたんですけど(笑)
朝岡:あぁーそこでね、ふんふん。
橋本:で、まぁちょっと経緯は省略するとして。2年間で一応BA(学士号)のところまではいったんで、これでいいと。で、そこまで2年かかった。2年だったんですけどね。で、そのあと、その頃日本に帰ったらもう二度と海外に出られない!という想いがあったんですね。で、その頃は、学園の外だと、たくさん日本の若い人たちが海外に出てた時代でもあるんですよね。あのバックパッカーなんかしてね、向こうで片道切符で行って、向こうで働いてっていうね。まぁそんな風な感じだったんですけどね。そんなんで少しイギリスにいたり。でももうそろそろ帰んなきゃって、陸路でずっと中近東からインドまで行って帰ってきたんですけどね。その頃まだねアフガニスタンは王国だったですよ!
朝岡:あぁ、まだね!
橋本:うん、その時代ですよ!
朝岡:のどかなね…いいとこだったんですけどね。
橋本:そうそう!すごいあれが私にとっては、ある種青春のですね、絶好調の時だったですね(笑)それで…
朝岡:今、なんか、ほとんど橋本さんの青春時代の思い出の話に(笑)
橋本:あっはっはっは(笑)
朝岡:フィンランドに行って、相当ずーっと色んな見聞して日本に帰っていらっしゃって。で、どうしたんですか?
橋本:そうですね、もう28になって…6…7だったかな?で、仕事をね、勿論向こうで高齢者福祉の勉強をしましたから、日本にない形の福祉っていうもの、それが地域福祉みたいなね、在宅サービスのことだったんですけども、それを何とか日本でも、そういうことを実現したいなっていうね、大それた想いを持って帰ってきまして、たまたま帰ってきたら、ちょうどうちの両親の施設が古い養護老人ホームと軽老人ホームだけだったんですけども、特別養護老人ホームね、介護型の施設を作りたいということで努力してたとこなんでね、色々経緯はあったんですけれども、新しい形の施設ってことで、自治体と協力を得て、その地域の中の介護施設。
もう一つは、在宅サービスをそこに加えていく施設を作るってことで、これ、日本ではまだなかった
先取りもいいとこですよね!
橋本:コミュニティケアって、その頃言われていたんですけどね。そういうことを学んだっていうことでもあるわけですけども。それで努力して、昭和48年に帰ってきて、日本ちょうど福祉元年だった時なんですよね。
だから、学園紛争の時に出て行って、帰ってきたら、公害統制なんかがたくさんあって、そして福祉元年で、オイルショックでっていう。そういう激動の時代だったかもしれないですね。田中角栄の時代で、
あっ、日本列島改造の時代ですよね!
橋本:そうそうそうそう!日本社会がもうほんとワサワサしてたですね。
朝岡:いやー、そうですか。至誠学舎さんの、
石田:はい。
朝岡:歴史の中からすると、まさにそのタイミングで!
橋本:そう!
朝岡:海外へ行かれててね、社会福祉も勉強なさってて、で、その立て替えとかね、変えていこうってこともありましたし。
橋本:ほんとそうなんです。結論的になっちゃうけど、私はね、すごく運がいいと思ってる。運も実力のうちって言いますけどもね、タイミングが良かったんですよね。思うことができてきたってことかもしれないですね。まぁそれから昭和48年…昭和52年に、そのプロジェクトが完成するんですけど、高齢化福祉のそれこそ認知症の問題からね、認知症になると介護・在宅サービスの時代。そういう流れもあったもんですから、そういう中で現場で一生懸命仕事をしてったってことでありますね。
で、まぁそれぞれさっき言った他のうちね、それなりに児童福祉の仕事や他の場所での高齢者の仕事や保育所があって、それぞれが一生懸命やってたんですね。
まぁ、分権の様なですね。
そうですよね!同じ様な至誠学舎さんの中でも色々あって、それがこう上手くそれぞれに変化して新しいこともはじまったっていうそういう時期だったわけですね。
橋本:そうですね。それはね、私は高齢だったわけですけど、児童養護の方は児童養護の方で、大変在宅サービスだとか新しい考え方のサービスを取り入れたり努力していったし、保育も保育で、まぁ結果的に今保育園って24時間保育だとか病児病童保育なども取り組んでいる。それぞれが担当して一生懸命時代の要望要請期待に応えていくような事業に取り組んできたという。そんなことなんですね。
で、色々あって、それで私が8代目の理事長になったっていう(笑)
解決した(笑)
石田:ね!はい(笑)
続いてのテーマは、「決断・ターニングポイント」
至誠学舎立川の発展と共に訪れた苦境、それらを乗り越えるべく、先代達が下した決断とは?