Story ~長寿企業の知恵~ 「 決断 」
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株式会社 江戸清
決断 ~ターニングポイント~

ナレーション

続いてのテーマは、決断〜ターニングポイント〜
会社の発展と共に訪れた過去の苦難。それらを乗り越えるべく、先代たちが下した決断に迫る。

高橋:

創業して、明治27年に創業するわけですね。創業という一番エポックメイキング、江戸清にとって。ここがなければスタート点がないということです。
明治の時代って言うのは明治維新から、日本人が日本人同士で血で血を洗う戦乱の時期があったり、日清戦争、日露戦争戦争だらけの、よくこんな時に会社を興したなって言うのがまず一つのポイントかな。

そうこうしているうちに、横浜で長く活躍している企業は必ず2つの大きな関門があります。1つが大正時代に起きた“関東大震災”。これでまず、全部が瓦礫の下敷きですね。その瓦礫を使って作ったのが山下公園ですから。いかに瓦礫が出たか、いかに物がぶっ壊れたか。
これは江戸清が順調に創業して以来お肉を、食肉事業をやって。その食肉を加工する、いわゆるハム、ソーセージ、ベーコンを作り始めたのが大正時代なんです。
大正時代の中でも、「ハム・ソーセージ年鑑」によるとですね、日本でもこの十誌中に、この江戸清、高橋清七が入っております。
これが関東大震災と共に、いっぺんに崩れる。それで曽御爺さんはですね、それを再建すると思ったらば、結局ハム・ベーコンを辞めてしまったんですね。これが次のターニングポイントで、食肉一本に絞ったということです。

続いて、“横浜大空襲”。終戦間際によくぞここまで落としてくれたという。中華街から桜木町までがもう真っ平になるくらいのすごい爆撃であった。これはうちの父だとか母が逃げ惑ったということだと思うんですけど、この横浜大空襲、これでもう一回焼けちゃったと。

江戸清にとって高橋家にとってもですね、この大空襲より前の写真というのはあまりないんですね。なぜないか?疎開していたらたぶん残ってたんでしょうけれども、そういう戦火にまみれるところに家があったために、全部のものが燃えてしまった。これが次のポイントです。

で、この大空襲の後に終戦を迎えて、そして米軍との取引が始まると。これが我々にとって第3のターニングポイントなのかなって。

第4はですね昭和38年に、“ドル防衛”が始まります。これで、簡単に言うと米国との取引は瞬時にしてなくなるということで、会社の柱だったものはなくなって、これで、その時うちの父も考えたと思うんですね。「食肉事業、どうやって行こうか・・・」と。これが第4。

そして、第5は私共江戸清には関連会社がございまして、「江戸清商事」。うちのおやじの弟が江戸清商事をやっていました。これが安宅産業と組んでやっていたんですが、安宅産業がオイルショックに絡んで倒産をします。その倒産した時にですね、手形の裏書がうちの父に全部回ってくるわけです。
それで、江戸清商事は潰れて、江戸清はその裏書きしたものを全部払う。個人の財産も、会社で今までためてきたものも、すべて売却をして、債権者にお支払いをした。

そしてその時に江戸清は再度立とうとした時に、銀行からもお金を貸してもらえないで、再建ができなかった。その時に初めて“伊藤ハム”。当時うちのおやじが伊藤ハムの関東の会長、伊藤ハム会関東会長をやっていたこともあって、伊藤ハムの創業者、伊藤デンゾウさん等いう方が「高橋さんが困っているなら助けてやれ」ということで、江戸清は伊藤ハムに資本出資を受けます。
これはある意味で“竈の下の灰まで俺のもの”という企業でいうと「紙器(わたくしのうつわ)」私器が大手が入ることによって、公の器に変わった。これは第5のターニングポイントなのかな、というふうにおもいます。

そして最後に江戸清の第6のターニングポイントはやっぱり“ブタまん”が生まれた時。千葉工場がちょうど江戸清100周年事業の一環として千葉に工場を作ります。この千葉に工場を作ったのは千葉から出てきたので、「横浜で栄えているんであれば千葉にも恩返しをしたい」ということで、千葉工場をうちが決断します。
当時売り上げが二十数億円で27億の借金をして、私だったらようようできませんけど、うちの親父はやったわけです。そのときに大変な思いをして千葉が赤字になった。その赤字を全部担ったのは横浜で生まれたブタまんだった。こういう事によって江戸清は生きながらえることができたと言うことかと思います。

私が社長になったのがちょうど2000年。ミレニアムですね。世の中で特異なことが起きるということで社長になってしまいました。
このときから私は会社に呪われたように家畜の疾病、口蹄疫だとかBSEだとかまーいろんなことが毎年毎年起きてきます。あと、O-157のように食中毒事件、あと食品の偽装、あと一番ひどいのはですね、”団ボール肉まんというのがありましてね。この段ボール肉まんがでたおかげで、江戸清の中華街の肉まんの売上が一気にある日突然3割になるんですね。
こういうこと、いろいろな食品を取り巻く問題の中でですね、これは毎年毎年起きて、その都度その都度、江戸清は形を変えて乗り切ってきた。

ナレーション

続いて、4代目代表 高橋伸昌の、ターニングポイント。

高橋:

もともと私は、大学を卒業してから野村證券に入りました。仕事も面白く自分の性にも合ったもんで、家の親父もそういう自分を見てて「お前どんどん頑張れよ」ということで、当初3年位で戻る予定だったのが、あまりにも喜んでやってるもんで「がんばりなさい」って。
そうこうしているうちに野村證券の中ではトップセールスになり、組合の執行部に入ることで、だんだんだんだん上がっていくわけですね。

ただ、先程も言いましたように、日本ハムが資本出資をした。「この株は将来高橋さんが将来独り立ちできるようになったら伊藤ハムは(その株を)譲りますよ」と言うことでいたんですが、やっぱりだんだんだんだん資本主義化が進んできて経営者が変わっていくと、親会社と子会社の関係になる。そこから物事が動かなくなってしまった。
そういうことで、江戸清に戻って父と一緒にこの問題を解決してもらいたいというのが自分の人生にとって野村證券を辞めて江戸清に移る、これが自分にとっての最大のターニングポイントかなというように思ってます。

母が来て、父はいいと言ったんですけど、ははがたった一言「あなたはどうしてお父さんの力になてあげないの?」といってぽろりと涙をこぼした。そのぽろりで「わかったじゃあ戻る」となりました。

私は野村證券にいましたので株に比率が25対75だったら問題は解決しないと思ってました。でも母の情にほだされてといいますか(笑)そういう思いを受けて自分も思いをやってこれを解決していこうとで江戸清に戻ってきたのが、1994年です。

それから6年後に社長になります。そしてこの問題が解決して伊藤ハムが全株を「高橋さんまたがんばりなさいということで譲っていただいたのが江戸清に入ってちょうど20年位。20年間くらいかかったんです。
ていうことは、江戸性は伊藤ハムの資本のもとにやっていたけれども、それが完全に高橋のもとに戻ったということ。これがつい4,5年前に戻りましたから、そこが第2の自分にとって、本当に江戸清のために、江戸清の社員のために会社ができるんだというターニングポイントということになりました。