続いては「決断」〜ターニングポイント〜」ということで、会社やご自身にとってのターニングポイントを伺えますか?
創業者の石山賢吉の人生はまさに波瀾万丈で、ターニングポイントの連続のような感じなんですけど、ひとつ挙げるとすれば、東京の空襲。1945年の空襲で社屋が全部焼け落ちてしまったんですね。そこがひとつのターニングポイントかなと考えていて。彼の言葉で言うと、「空襲で我が社が丸焼けになった。焼け跡をただ呆然と見つめるしかなかった。」という記録が残っています。当時関係のあった秋田に少し機材を送っていた関係があって、彼は一瞬、このまま社員を連れて秋田に移動して、細々と作業を続けようかなと思ったらしいんです。ところがずっと焼け落ちた本社を見ているうちに、日本が負けてどうなったとしても、東京は消えてなくならないだろうと。この都市は保存されると決意して、ここで作業を続けようと。秋田から機材を東京に戻してゼロからの再出発。その時にもちろん彼がそれまで付き合ってきた経済界、政界の人達からの援助もありましたし、逆に経営者仲間を自分のオフィスで援助してあげる。自分のオフィスの一部を貸してあげるとかという助け合いの中でダイヤモンド社は再興を果たしていったというのはひとつの大きなターニングポイントかなと思います。
ご自身のターニングポイントはどうですか?入社なさった1986年というのはいわゆるバブル景気に向かっていく時代ですよね?
そうでした。バブルに向かい、バブル崩壊を経験する世代ですね。当時は私はあの会社のキャリアにしては珍しく、色んな仕事を経験する部署にいたんですね。雑誌もあり書籍もあり、法人向けのビジネスもあり、セミナーもありというところがあったんですけど。ハーバードビジネスレビューというのがその舞台にあって。当時は一旦寿命の尽きた媒体だったんですね。それを編集長に直訴して、特集を一回やらせてくださいと。一回特集をやって勝負したいんですという話をして。編集長は受けてくれて、「リエンジニアリング」というタイトルの、当時アメリカで話題になっていたテーマだったんですけど。それを日本の著者や海外の翻訳を組み合わせて特集にして、当時としては凄く売れた。雑誌が重版されたのはおそらくそれまでほとんどダイヤモンド社の中では無かったと思うんですけど。それでハーバードビジネスレビューの日本版の編集部が独立してひとつの編集部になるきっかけとなったということがありまして。そこがひとつのターニングポイントだったと思います。その後私はそこの編集長をやるんですけど。引き続きダイヤモンドハーバードビジネスレビューの編集長をしながら、当時はバブルに向かうこともあって、色んな話がくるんですね。ベンチャー企業2社から一緒にジョイントベンチャーをつくらないかという話があって。私は編集長をしながらジョイントベンチャーの起ち上げに参画するということがありました。つまりこちらでは出版社とはいえサラリーマンなんですけど、ベンチャー経営者と一緒に会社を運営するという仕事を経験して。それは非常に勉強になったし辛かったですね。
辛かったというのは、会社を動かすのは大変だなという?
そうですね。編集者と経営者という関係でお話を聞いてまとめる。あるいは取材をもとに何か書くという関係ではなくて、一緒に会社を運営していく。応分の責任とか、全て数字で意思決定していくとか、新鮮ではあったんですけど、非常に厳しいですね。社内の編集会議とは別の緊張感のある会議で、発言したことは全うしないといけない。会社に戻って自分の部員たちにアサインして全うしないといけないということ。それからすべてを数字ではかっていくということの緊張感はそれまでになかったことなので、それは凄く勉強になりましたね。
そこが今の立場になっていく大きな核になったと思いますか?
自分ではわからないですけど、若い頃にああいう経験が出来たのは有意義だったと思いますね。
記者時代は沢山の企業、経営者を取材なさったと思うんですけど、それが今のご自分に活かされてる部分はありますか?
当然取材させて頂く経営者の方達は皆さん実績や人格や深い考え方で尊敬できる方ばかりでした。彼らの発言は沢山残っているものもあります。例えば同じ会合で、ある経営者の方は「石田君、経営者というのは、14勝1敗よりも、8勝7休みの方が良いんだ。」つまり1敗で会社は潰れるんだと。負ける試合はしちゃいけない、だったら休んだ方がいいんだと。同じ会話で反対のことを言う経営者がいる。「石田君、世の中勝ちばっかりじゃないんだから、8勝7敗でいいんだ」と。つまり負けもないと世の中はついてこないんだと。禅問答みたいなことを言われたり。あるいはスポーツって技量に優れた人が勝つんですけど、経営っていうのは勝つまでやった人が勝つんだなと、特にベンチャーの経営者を見てると思いました。必ずしも優秀さとか、頭の良さではなくて、勝つまでやる人が勝つんだなとか、そういうことは残ってます。もうひとつお答えしたいのは、そういう立派な経営者の方達とお知り合いになれて、お話を聞いて勉強させて頂いたことを思い出す一方、今この立場になると、若い頃経営雑誌とか経済誌とかで取材に行って、わかったようなこと言ってたなと。本で読んだような理論をぶつけて「こうすべきじゃないですか?」とか、「御社この先どうするんですか?」とよく偉そうに質問してたなと。この立場になると、そうそう理屈では割り切れないこともいっぱいあるのに、随分わかったような質問したなと。よく経営者の方達は辛抱して聞いてくれてたなと思いますね。
石田社長が日本の中でおそらく一番他の会社や経営者のエッセンスを身につけてるというか、財産でお持ちの社長だと思いますけど、いかがですか?
そこまではないです。とてもそんなことは言えないです。耳学問で聞いたことは沢山あった。ただ実践は別の難しさがあるんだなと、駆け出しの経営者ですが、そう思います。理論と実践、理屈の世界と実践は距離があるし、そこをもっと埋める編集者であるべきだったし、記者であるべきだったなという反省はありますね。
続いては「決断」〜ターニングポイント〜」ということで、会社やご自身にとってのターニングポイントを伺えますか?
石田:創業者の石山賢吉の人生はまさに波瀾万丈で、ターニングポイントの連続のような感じなんですけど、ひとつ挙げるとすれば、東京の空襲。1945年の空襲で社屋が全部焼け落ちてしまったんですね。そこがひとつのターニングポイントかなと考えていて。彼の言葉で言うと、「空襲で我が社が丸焼けになった。焼け跡をただ呆然と見つめるしかなかった。」という記録が残っています。
朝岡:当時関係のあった秋田に少し機材を送っていた関係があって、彼は一瞬、このまま社員を連れて秋田に移動して、細々と作業を続けようかなと思ったらしいんです。ところがずっと焼け落ちた本社を見ているうちに、日本が負けてどうなったとしても、東京は消えてなくならないだろうと。この都市は保存されると決意して、ここで作業を続けようと。秋田から機材を東京に戻してゼロからの再出発。
その時にもちろん彼がそれまで付き合ってきた経済界、政界の人達からの援助もありましたし、逆に経営者仲間を自分のオフィスで援助してあげる。自分のオフィスの一部を貸してあげるとかという助け合いの中でダイヤモンド社は再興を果たしていったというのはひとつの大きなターニングポイントかなと思います。
ご自身のターニングポイントはどうですか?入社なさった1986年というのはいわゆるバブル景気に向かっていく時代ですよね?
石田:そうでした。バブルに向かい、バブル崩壊を経験する世代ですね。当時は私はあの会社のキャリアにしては珍しく、色んな仕事を経験する部署にいたんですね。雑誌もあり書籍もあり、法人向けのビジネスもあり、セミナーもありというところがあったんですけど。ハーバードビジネスレビューというのがその舞台にあって。当時は一旦寿命の尽きた媒体だったんですね。
朝岡:それを編集長に直訴して、特集を一回やらせてくださいと。一回特集をやって勝負したいんですという話をして。編集長は受けてくれて、「リエンジニアリング」というタイトルの、当時アメリカで話題になっていたテーマだったんですけど。それを日本の著者や海外の翻訳を組み合わせて特集にして、当時としては凄く売れた。雑誌が重版されたのはおそらくそれまでほとんどダイヤモンド社の中では無かったと思うんですけど。それでハーバードビジネスレビューの日本版の編集部が独立してひとつの編集部になるきっかけとなったということがありまして。そこがひとつのターニングポイントだったと思います。
その後私はそこの編集長をやるんですけど。引き続きダイヤモンドハーバードビジネスレビューの編集長をしながら、当時はバブルに向かうこともあって、色んな話がくるんですね。ベンチャー企業2社から一緒にジョイントベンチャーをつくらないかという話があって。私は編集長をしながらジョイントベンチャーの起ち上げに参画するということがありました。
つまりこちらでは出版社とはいえサラリーマンなんですけど、ベンチャー経営者と一緒に会社を運営するという仕事を経験して。それは非常に勉強になったし辛かったですね。
辛かったというのは、会社を動かすのは大変だなという?
石田:そうですね。編集者と経営者という関係でお話を聞いてまとめる。あるいは取材をもとに何か書くという関係ではなくて、一緒に会社を運営していく。応分の責任とか、全て数字で意思決定していくとか、新鮮ではあったんですけど、非常に厳しいですね。社内の編集会議とは別の緊張感のある会議で、発言したことは全うしないといけない。会社に戻って自分の部員たちにアサインして全うしないといけないということ。それからすべてを数字ではかっていくということの緊張感はそれまでになかったことなので、それは凄く勉強になりましたね。
朝岡:そこが今の立場になっていく大きな核になったと思いますか?
石田:自分ではわからないですけど、若い頃にああいう経験が出来たのは有意義だったと思いますね。
朝岡:記者時代は沢山の企業、経営者を取材なさったと思うんですけど、それが今のご自分に活かされてる部分はありますか?
石田:当然取材させて頂く経営者の方達は皆さん実績や人格や深い考え方で尊敬できる方ばかりでした。彼らの発言は沢山残っているものもあります。
朝岡:例えば同じ会合で、ある経営者の方は「石田君、経営者というのは、14勝1敗よりも、8勝7休みの方が良いんだ。」つまり1敗で会社は潰れるんだと。負ける試合はしちゃいけない、だったら休んだ方がいいんだと。同じ会話で反対のことを言う経営者がいる。「石田君、世の中勝ちばっかりじゃないんだから、8勝7敗でいいんだ」と。
つまり負けもないと世の中はついてこないんだと。禅問答みたいなことを言われたり。あるいはスポーツって技量に優れた人が勝つんですけど、経営っていうのは勝つまでやった人が勝つんだなと、特にベンチャーの経営者を見てると思いました。必ずしも優秀さとか、頭の良さではなくて、勝つまでやる人が勝つんだなとか、そういうことは残ってます。
もうひとつお答えしたいのは、そういう立派な経営者の方達とお知り合いになれて、お話を聞いて勉強させて頂いたことを思い出す一方、今この立場になると、若い頃経営雑誌とか経済誌とかで取材に行って、わかったようなこと言ってたなと。本で読んだような理論をぶつけて「こうすべきじゃないですか?」とか、「御社この先どうするんですか?」とよく偉そうに質問してたなと。この立場になると、そうそう理屈では割り切れないこともいっぱいあるのに、随分わかったような質問したなと。よく経営者の方達は辛抱して聞いてくれてたなと思いますね。
石田社長が日本の中でおそらく一番他の会社や経営者のエッセンスを身につけてるというか、財産でお持ちの社長だと思いますけど、いかがですか?
石田:そこまではないです。とてもそんなことは言えないです。耳学問で聞いたことは沢山あった。ただ実践は別の難しさがあるんだなと、駆け出しの経営者ですが、そう思います。理論と実践、理屈の世界と実践は距離があるし、そこをもっと埋める編集者であるべきだったし、記者であるべきだったなという反省はありますね。