Story ~長寿企業の知恵~ 「 決断 」
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株式会社 秋葉牧場
決断 ~ターニングポイント~

ナレーション

続いてのテーマは「決断 ターニングポイント」
会社の発展と共に訪れた過去の苦難、
それらを乗り越えるべく先代達が下した決断に迫る

秋葉:

やーもう大きな転機がありまして、秋葉牧場で酪農だけやっているときに、“餌代の高騰“がありましてね。乳代は下がる。格段に下がってお水よりも安いっていう時期がありましてその時社員が・・・大学卒業の社員が5、6人いましたけれども・・・給料が払えない。乳代から餌代を引くとマイナスで毎月赤字で・・・。

赤字の会社でみんなに給料を払えないっていうのは事業ではないと私は感じまして、何とかしなければと思ったんですけれども、義理の父が社長でしたから「お前たちには口を出させない」と言われまして、「じゃあどうするよ?」2人だけで頭抱えましたけれども。
でも、何かやらないと秋葉牧場がもたないという想いがすごくありまして。「何をやったらいいんだろう、何をやったらいいんだろう」って本当に2人であちこちに行き考えましたよね。あの時が一番大変な時期だったかもしれません。
野菜を作って出そうとか、土地だけはあるのでそこから派生して考えたんですけれども、やっぱり私たちには“お金がない(笑)”で、両親は反対。ですから、じゃあどうしたらいいの?っていうところから始まりまして。

両親に頼み込んで保証人にだけなってもらって。ほかの新しい事業をやるにはリスクが伴うので。で新しいことをやると今の牧場がおろそかになるっていう想いもあって。じゃあ両立させていくにはどうしたらいいかってことは頭の中をすごくよぎりましてね。秋葉牧場をやりながら酪農をやりながらそうだ土地を共有してやれば、観光部門としてやれば両方見られるというのが最大の決定打でしたね。


~環境事業立ち上げ時の反応~
もう大反対でしたよ。近所のおじさんが、道路で二人でねこーやってあーやってって構想練っているときに後ろ自転車で通り過ぎてついたらまた戻ってきまして、私たちに「こんなところに誰も来やしねえ!」って一言捨て台詞を残してまた帰られたっていうくらい周りの方たちには両親も含めて周りの方たちにも「なんでそんなことするんだ?」っていうのが圧倒的な考えでしたね。

ですけど・・・生意気なんですけど(笑)“何となくうまくいく”という予感が私たちにはありまして。根拠のない自信と言うのは言葉にすると恐ろしいんですがそれを胸に「きっとうまくいくよね」って言うのが“2人の合言葉”でしたね。

多分事業起こす時って、そんな大げさなものじゃなくて本当に困ったとか、本当に夢を持ったとかそういうところから自然発生していくと思うんですね。で、後から 格言や理念とかっていうのはついてくるもんなんだなーっというのは思っています。
最初は本当に事業が大変で、何か次の事業を始めないと秋葉牧場が保てないっていう状況から新しい事業をということで主人と2人でもう本当に探しまして、そこから最終的には同じ場所で、秋葉牧場も続けられる、また新しい事業も始められるということで料理人を使いながらできるということでゆめ牧場を始めたもんですから。

本当にネーミングは考えました。シンプルなんですが秋葉牧場で行こうと思った時もあったんですが、あまりにも地味で楽しくない。“秋葉牧場“では。やっぱり観光って言うのはお客様に「楽しいね」って夢を見ていただけるようなネーミングでないと“想いを描いてもらえない”。それで、担当直入に“ゆめ”と“ゆめ牧場”といたしまして。しかも漢字で書こうとしていたんですが敢えてね、小さなお子さんにも読んでいただけるってことでひらがなのゆめ牧場にしました。


~成田ゆめ牧場の原点~
最初社員はとれなくて。人を雇うというのは社員を採用するというのはとても人件費として怖いことで、初めて興すには。なので、パートのおばさんにお願いしまして。地元の。このパートのおばさんたちが6,7年いましたけれども、本当によくやってくれて。うちの牧場うちの牧場ってよく遅くまでやってくれました。
この間もうちの社員に全員話したんですけれども。ゆめ牧場の原点は、そのパートのおばさんたちから始まっていると。社員旅行にも一緒に行きましたし、海外の旅行も行きましたし。「冥途の土産だって喜んでくれて。今でも会うと「いや~本当に楽しかったよ」ってみんなが行ってくれますよね。

私物事って表と裏の見方があると思ってて、見方によって苦労にも見えるし苦労に見えないと思うし、私は全く苦労とは思わなかったので、本当に3時間くらいしかねない毎日でしたけど毎日が楽しかった。

開園も実は地元の町長さんも開園日にはお呼びして、お呼びしたんですけれども無言で来られない。お返事もない。本当に周りから疎外された感じのオープンだったんですけれども、一番最初にお客さんで来てくださった方は地元のお母さんで白い割烹着つけて前と後ろに子供を乗せて。自転車で来てくれて。その第一号のお客様が涙が出るほど嬉しかったでしたね。もう本当に今でも覚えています。
実は7月19日の夏休みの初日にオープンしたんです。ですけど、8月のお盆には「どっからこれだけの人が沸いてくるの?」って思うくらい。お客様が次から次来てバーベキュー手が足りないっていうくらいでした。

5月の連休の時に連休前に仕入れって言うのはもう業者さんもお休みになるので、予定して入れるんですね。ですけど、5月の連休途中で食材が切れてしまって。ただお客様はお昼に軽食のところに並んでる。でもおうどん屋、お蕎麦屋、ラーメンと言うのは切れちゃって。担当のおばさんはどうしようかと思ったらしくて。で。あんまり入ってたんで事務所に言いにも来られない。
夕方上がって来た時に「今日悪いことしちゃった」と。「え!なにしたの?」っていったら「あんまりにも材料が足りなくなって。でもお客さん並んでて、もう終わりですって申し訳なくて言えない」と。申し訳なくて。で、自宅まで行って乾麺があれば大丈夫だろうということで持って帰ってきて湯でて、お出ししたと。

「会社だからそんなことしちゃだめだよ」って言ったんですけれどももう後の祭りで。でも私は、本当はいけないことだと。でもその気持ちがとてもありがたかったですよね。自分で考えて動いて、状況判断してお客さまにも良く、会社もマイナスにならないようにって一パートのおばさんが考えてくれて実行してくれたってことは、どれだけ牧場に思いがあるんだって思いまして、本当に嬉しかったですね。
でも「来年からちゃんとするようにするからもう二度としないで」って、申し伝えましたけど(笑)。本当に彼女たちがいて原点があるなと感謝してます。

ナレーション

続いて、6代目 秋葉良子のターニングポイント。

秋葉:

大学出てお稽古ごとに勤しんでて(笑)あまり皆様からは「なにやってるんだろう」って思われるような状況で。
でも時代がそうでしたよね。「早くお嫁行って」っていうような母の気持ちもあってその中で本当に自由に過ごしたんですけれども、ある時本当に寂しくなりました。急に。車の中で一人でわんわん泣き出したことがございまして。「何でこんなに寂しいんだろう」って。世の中に必要とされていないってことに気が付いてそれはお小遣いはもらい、時間も自由にあり、あとはお嫁行くだけみたいな状況で、自由にさせてもらったと。だけど人間って必要とされることがどれだけ幸せかって言うことに気が付きまして。

ただ人間て、どこかできっかけがないと変われないんですよね。(だから)結婚したら絶対必要な人間になろうと思いました。本当に心の底から強く思いましたね。 お嫁行くときも私の一番上の姉が「あんた牧場に(お嫁に)行くの?」って「女の子が生まれたらアルプスの少女ハイジよ」っていわれて(笑)。「あ!そうだな(笑)」って思うくらいの程度でしたから楽しさしか思い浮かばなくて。
牧場でもお嫁に行って私が酪農をやるのではなく、会社組織になってたので、現場に出ることにもなく、そういう牧場でしたから、全然不安もなく楽しかったです。

ただ、社員の独身寮があったので三度の食事は面倒見てました。本当に子育てしながら毎日毎日10人分作ると「人間ってどうして3度も食べるんだろう?」って(笑)思ったりもしたこともありましたけど、そういう時に限って手が抜けているんでしょうね。同じように作ったつもりが、「今日なんか味が変」って社員に言われたり、「そんなことない。いつもと同じに作ったよ」とかいうんですけど、「イヤー味が変だ」とかいうんですよね(笑)どうしてかなって思うと「あーごめん今日は愛情が入ってなかったわ(笑)」って言うと、「やっぱりねー」って言われて(笑)そんな日々を楽しく過ごしていました。


~夫婦の決断~
主人と2人で興しまして、ずっとやって来たんですけれども3年くらい前ですか、主人が癌になりまして。その時に入院しましてね。“会社が継続しなければ困る”というのがまず第一にね、二人の頭の中にありまして。主人が「代表取締役を2人にしよう」と。表向きは主人が社長で私が専務でずっとやってきましたけれども、でも法務局の方には代表取締役は2人と言うことで登録してまして。
色々治療もしたんですが幸をなさず2年半くらい前に亡くなったんですけれども、その時に本当に代表を2人にしてよかったと思うのは、銀行の名前を変えるだけで継続できるんですね。

普通はだいたい亡くなったら通帳がストップしてしまいます。でも会社って毎日動いてて通帳が閉じられると本当に困るってことがどこの企業にもあって。会社が継続できるってことは主人の考えで大きな遺産だったなって思いますね。
亡くなるときに遺して言った言葉が「お前が社長になれ」と。そして「近い将来会長になって息子を社長にして2人代表という体制をもっていけ」というのが最後の遺言でした。

本当に振り返ると夢中でした。主人が病気の時から始まって、ほとんど動けませんでしたから。自分の体を直すことに全精力を使ってましたし。
また亡くなった後も2年半3年近くにありますけれども、この頃やっとちょっとなんか夢中で走って来たなって振り返る時間ができてて。それまでは本当に何も考えずにがむしゃらで走ってまいりました。